ダスクウィーバー男爵
夜の闇に包まれた森の中、オイラはグレートウルフの背に乗り、先頭を走るガルのあとを追っていた。
風を切る音と、獣たちの静かな足音だけが耳に届く。まるで、夜そのものと一体になっているような感覚だった。
ルヴィからの依頼を話したとき、ガルは迷いなく頷き、すぐに仲間を呼び集めた。
群れはすぐさま姿を現し、ガルはその中から数頭を選び出して、役割ごとにグループを編成した。
それぞれのグループに的確な指示が飛び、やがて空が夕闇に染まる頃、グレートウルフの群れは静かに動き出す。
その時、ツィギィがオイラのもとにやって来た。彼女の鋭い目が優しく細められていた。
ツィギィは息子を紹介してくれた。名前はギルと言い人間に興味があるらしい、ガルから今日一日、オイラと一緒に行動するようにと言われたらしい。
ギルは若いオスのグレートウルフで、体はまだ少し細身だったが、目には好奇心と勇気が宿っていた。
そして今、オイラはギルの背中に乗っている...というわけだ。
ギルはまだ三歳だというのに、もう立派な体格をしていて、オイラよりもずっと大きい。
その上、力強くて速い。オイラを乗せていても、群れから遅れる気配はまるでない。
祝福の森を出たグレートウルフたちは、いくつかのグループに分かれて、それぞれの持ち場へと向かっていく。
一つのグループは二十頭前後。オイラはガルと同じグループに同行することになった。
グループが最初に到着したのは、祝福の森から最も近い街の門だった。
各々が素早く身を潜められる場所を見つけ、静かに伏せて待機する。まるで黒い影が地面に溶けていくようだった。
全体の配置を確認したガルは、ギルに軽く合図を送る。するとギルはオイラを背に乗せたまま、また静かに駆け出した。
ガルとともに、街の周囲をぐるりと一周しながら、各門に配置されたグループの様子を確認していく。
風の中、夜の匂いを感じながら、ギルの背の上でオイラは目を凝らす。
この大きな狼は若いが、よく訓練されている。ツィギィが誇らしげに紹介したのも頷ける。
やがて、ぐるりと一周を終えると、ガルの群れは南門へと向かっていった。
南門を出た先には、広々とした草原が広がっていた。
しかし、そこには木も岩もなく、グレートウルフたちが身を隠せるような場所はほとんどない。
それでも皆、腰を低くして草むらに身を伏せ、まるで大地に溶け込むように息をひそめていた。
草原のところどころがこんもりと盛り上がっていて、それがまるで小さな丘のように見えるのが、少し可笑しかった。
ひとしきり辺りの様子を確認したあと、オイラはギルのわきに身を寄せる。その温もりに安心しながら、しばらくまぶたを閉じることにした。
夜の静けさと、ギルの穏やかな鼓動が、いつの間にか心地よい眠りへと誘っていた。
目を覚ますと、碧い月がちょうど頭上に浮かんでいた。
空気は冷たく、夜はまだ深い。視線を巡らせると、ガルが姿を現したところだった。どうやら街の周囲を一巡してきたのだろう。
今のところ、何かが起こる気配はない。
ルヴィやランスたちからいろいろ教わったおかげで、今ははっきり分かる。ガルはただ強いだけではない。頭がよく、群れを統率する力にも長けている。
今回のルヴィからの依頼は、今夜、街の外に誰ひとり逃がさないように、街道を封鎖してほしい。というものだった。
ガルはその要請に対し、ただ街道を塞ぐだけに留まらなかった。
街に通じるすべての門に、それぞれ一つずつグループを配置し、さらに、各グループが定期的に状況を報告し合う体制を整えたのだ。
これだけ周到に動いていれば、もはや街からネズミ一匹たりとも逃げ出すことはできないだろう。
ルヴィはオイラとガルに「南門で待機していてほしい」と言ったが、なぜ南門なのか、その理由はオイラにはまだ分からない。
けれど、ガルの落ち着いた様子を見ると、彼には何か見えているのかもしれない...。
そう思わせるだけの信頼が、オイラの中にはもうあった。
時がゆっくりと過ぎていく。
碧い月が、わずかに西へと傾きはじめていた。
そのとき、ギルがぴくりと身じろぎした。
どうした?と聞くと、ギルは、何かが来る。と短く答えた。
オイラも急いで地面に耳を当てる。次第に微かな振動が伝わってきた。
間違いない、何かがこちらに向かっている。馬車だろうか?
しばらく南門の様子を見守っていると、不意にその門から一台の馬車が勢いよく飛び出してきた。
すかさずガルが合図を送る。
ガルとギルが素早く馬車の前に躍り出て威嚇すると、驚いた二頭の馬が前脚を高く突き上げて棹立ちになり、馬車はギリギリのところで止まった。
すぐさまグレートウルフたちが姿を現し、あっという間に馬車を取り囲む。
御者は恐怖に凍りついたように御者台で動かない。
やがて、馬車の扉が開き、中から男女が一人ずつ降りてきた。
女性はグレートウルフの群れを目にした瞬間、膝から崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
男性は震えながらもグレートウルフを振り払おうとしたが、ギルが素早く体当たりし、彼はそのまま気を失って倒れ込んだ。
オイラは手早く三人を後ろ手に縛り上げ、馬車の扉を開いて中を覗き込む。
そこには、レナが横たわっていた。
かすかに胸が上下しているのが見える。意識はないが、命に別状はなさそうだ。外傷も特に見当たらない。
ホッと胸をなでおろしながら、オイラは周囲を見回した。あとは、ルヴィかハウルが来るのを待つだけだ。
すぐに、地面を蹴る馬の蹄の音が近づいてきた。駆けてきたのはルヴィとハウルだった。
ハウルは馬を止めるやいなや、勢いよく馬車の前に飛び降りると、そのまま扉を開けて中に飛び込む。
彼はしばらく中から出てこなかった。
「ギーヴ、ありがとうございました。」
ルヴィがオイラにそう声をかけると、静かにガルの元へ向かい、にこやかに何かを話し始めた。
あの表情からして、今回の作戦は成功ということなのだろう。
やがて、ハウルがレナの手を取りながら馬車から降りてきた。
「ギーヴ、ありがとう。おかげでレナが無事に戻ってきたよ。」
続けてレナも、少し控えめに頭を下げる。
「ギーヴ、ありがとうございます。」
ふたりから立て続けにお礼を言われて、なんだか照れくさくなってしまった。頭をかきながら、オイラは笑って言う。
「レナが無事でよかったよ。でも、オレはルヴィとガルに従っただけさ。お礼なら、ふたりに言ってくれよ。」
ルヴィとガルがこちらに歩いてきた。
「それでは、屋敷に戻りましょうか。ガルからの依頼で、これからギルも一緒に屋敷で暮らすことになりました。」
そう言いながら、ルヴィはギルを紹介した。
捕らえた三人を馬車に乗せると、ルヴィが御者台に上がり手綱を握った。レナはルヴィの隣に座った。
オイラも、ガルたちに礼を言ってから、ギルの背に飛び乗る。ハウルはエクリプスにまたがり、アズールの手綱を引いて帰ることになった。
屋敷に戻ると、皆が集まってきて、レナとフィオラの無事を心から喜んだ。笑顔と安堵の空気が、屋敷中に広がった。
それから、馬車に乗せてきた三人の尋問が始まった。
ルヴィとハウルが対応し、オイラはルヴィに頼まれて、ギルと一緒に三人の見張りを任された。
しかし三人は、どれだけ問いかけても何も語らなかった。
朝になり、捕らえた三人を引き連れて、パルマスの代表者、ヘンドリック・ストームボーンの屋敷を訪れた。
重厚な門をくぐり、対応に出てきた使用人に事情を伝えると、しばらくして、屋敷から護衛を連れた男が姿を現した。
「彼らはこちらで引き取ります」
そう言って、護衛たちは三人を連行していった。
男は落ち着いた口調で自己紹介をした。
「私は執事のハリスと申します。皆さまをご案内いたします」
オイラはギルと顔を見合わせて、少し戸惑いながら答えた。
「オレとギルは、門のところで待ってるよ」
ハリスは軽く頷くと、ルヴィとハウルを屋敷の中へと案内していった。
門の脇にある広間に通された。部屋は静かで、広く、ギルのような大きな体でも気兼ねなく過ごせそうだった。
ルヴィとハウルの話が終わるまでは、ここでのんびりしていようと決めた。
しかし、そう長く待たされることもなかった。
思ったよりも早く、ルヴィとハウルが戻ってきた。
「ギーヴ、ギル。」
ルヴィが声をかける。
「これからヘンドリックさんと一緒に、監察官の屋敷へ向かうことになりました。ギーヴとギルにも同行してほしいとのことです。出かけましょう。」
ルヴィとハウルは、ヘンドリックとハリスに伴われて馬車に乗り込んだ。
オイラはギルの背に乗り、馬車の後をついていくことになった。
ルヴィから聞いた話によると、王都からパルマスに派遣されている監察官は、ヴォーリオス・ダスクウィーバー男爵という貴族だそうだ。
王や貴族といった存在について、ルヴィから教えてもらったことで、これから会う相手がオイラとはまるで立場の違う人物だということは、なんとなくわかる。
けれど、理解できているわけではない。
貴族とはどんな存在なのか。実物を見て確かめる、いい機会だと思った。
ダスクウィーバー男爵の屋敷に到着して、まず驚いたのは、屋敷の中に林と池があることだった。
門をくぐってから、ギルの背に揺られてしばらく進み、ようやく玄関にたどり着いた。
玄関に着くとすぐに、広々とした待合室に通された。部屋は天井が高く、調度も見たことのないほど豪華で、ギルがいても窮屈さを感じさせないほどの広さだった。
ルヴィから貴族との謁見の作法を聞いていると、ほどなくして呼び出しがかかった。
ギルも一緒に謁見の間に入るように、との説明を受け、ルヴィとヘンドリックは少し驚いた様子だったが、何も言わずにうなずいた。
謁見の間の大きな扉の前に立ち、オイラはギルに、中に入ったら、オレの隣に座るように伝えた。
謁見の間の扉が静かに開き、ルヴィとヘンドリックが先に中へと入っていく。その後に続き、オイラはハウルとギルと並んでルヴィの後ろに続いた。
ルヴィが立ち止まり、片膝をついて頭を下げたので、オイラもそれにならい同じように膝をつく。
ギルは隣で大人しく座り、控えめに周囲を見ていた。
ハリスは謁見の間に入らず、扉の外で控えているようだった。
ヘンドリックが一歩前に出て、今回の誘拐騒動の顛末を淡々と報告する。
すると、ダスクウィーバー男爵の斜め前に立っていた人物が口を開き、いくつか質問を投げかけた。ルヴィは落ち着いた声でその質問に丁寧に答える。
やがて、男爵自身が口を開いた。
「この件で、ペルディーニ商会の責任を正式に問うのは難しいでしょう。しかし、皆さんの尽力には感謝したい。何らかの形で報いたいと思っています。」
ルヴィが深々と頭を下げたので、オイラもそれに倣って頭を下げた。
「...公的な話はここまでにしましょう。これからは少し私的な話をしたい。失礼だが、他の方々は席を外していただけますか。」
男爵の言葉を受けて、斜め前に立っていた者を含めた数名が静かに部屋を後にした。
皆が部屋を出ると、ダスクウィーバー男爵は静かに席を立ち、オイラたちの方へと歩み寄ってきた。
「皆さん、どうぞ楽にしてください。」
男爵はやわらかく微笑みながら続けた。
「あなた方の噂は、ヘンドリック殿からたびたび伺っています。ギーヴ君、あなたはグレートウルフに育てられたと聞いていますが...本当なのですか?」
突然の質問に一瞬たじろいだが、オイラは何とか落ち着いて答えた。
「はい。本当です。」
男爵は頷き、ギルの方に目を向けた。
「では、そこにいらっしゃるグレートウルフは...ギーヴ殿のご兄弟でしょうか?」
「いえ、この子はギルといって、オレの甥にあたります。」
「そうでしたか。失礼しました。」
男爵の目が優しく細められた。
「私は祝福の森のグレートウルフに、長らく魅了されておりまして。この気高く、精緻な体つき...まさに自然の美ですね。
ギーヴ殿、ギル殿に触れても構いませんか?」
ギルに確認すると問題ないといったので「大丈夫です。」と男爵に答えた。
その言葉を聞くと、男爵は少年のように目を輝かせてギルの首筋に手を添えた。その手つきは驚くほど丁寧で、まるで宝物に触れるかのようだった。
やがて男爵は手を止め、こちらを見てこう言った。
「ギーヴ殿、そしてギル殿。よければ私と友人になっていただけませんか?それから、ルヴィ殿あなたの仲間の皆さんにも、ぜひお会いしたいと思っております。」
突然の申し出に、オイラはどう返してよいか分からず、思わずルヴィの方を見た。
ルヴィは落ち着いた口調で答えた。
「ギーヴとギルが男爵様のご友人になるかどうかは、彼ら自身のご判断に任せします。
ですが、私たち一同、男爵様にお目通り叶いますことは、この上ない光栄でございます。」
その言葉に背を押され、オイラはようやく言葉を絞り出した。
「男爵様がオレとギルの友達になってくださるというのなら...喜んで、友達になります。」
男爵は穏やかに微笑み、深く頷いた。
「ありがとう、ギーヴ殿。そしてルヴィ殿も。近いうちに私邸にご招待いたしますので、その時はぜひ、皆さんでお越しください。」
「光栄です、男爵様。その際は、私たち全員で伺わせていただきます。」
ルヴィが丁寧に頭を下げると、男爵は再び席に戻り、静かに腰を下ろした。
ヘンドリックの促しを受けて、オイラたちは謁見の間を後にした。
ヘンドリックの屋敷に戻ると、ルヴィが深く頭を下げて礼を述べた。
「ダスクウィーバー男爵にお話を通していただき、ありがとうございました。
男爵はペルディーニ商会と繋がりがあると聞いておりましたが、そうではなかったのですね。」
「ああ、その件ですね。先代のルイズ殿の頃は、確かに男爵の相談係としてペルディーニ商会が関わっていました。
しかし、現代表のハーリ殿のことは、男爵はあまり好ましく思っておられません。現在の関係は、形式的なものに過ぎませんよ。」
少し言葉を選ぶようにして、彼は続けた。
「恐らく、ペルディーニ商会の方が、良好な関係にある。という噂を意図的に流しているのでしょう。ですが、男爵は不正をとても嫌われます。
その一方で、才能ある人物をとても重んじるお方です。少々風変わりなところはありますが、優れた監察官ですよ。」
それからしばらくして、ダスクウィーバー男爵の招きに応じ、屋敷の皆で男爵邸を訪れた。カレノールとフィオラも同行し、穏やかなひとときを過ごした。
その日を境に、オイラとギルは何度も男爵邸に招かれるようになった。男爵は、ギルと静かに過ごす時間を楽しみにしているようだった。




