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名もない冒険の物語  作者: 白雉
第一章
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旅立ちの予感

レベッカが部屋に入ってくると、穏やかな笑顔を浮かべながら、ダイニングの方へ手をかざして促した。

「まずは皆さんで昼食をいただきましょう。急がなくても鉄は逃げませんから。」


「ありがとうございます。私はアデルを呼んできます。」

私がそう言って席を立つと、デニスが腕を組みながら言った。


「我々は汗を流してくるかな。」

「はい。」


モリッツもそれに頷き、二人は裏口へと歩いていった。

リルはというと、レナとすっかり打ち解けた様子でおしゃべりを再開していた。笑い声が軽やかに響いている。


風に揺れる草の匂いを感じながら草原を見回すと、そこにアデルの姿があった。彼女はリッキの傍で背伸びをしながら、乾いた藁で丁寧に馬体を拭っていた。

私もそっと近くに置かれた藁を手に取り、ライズの体を拭き始めた。


「アデルは優しいですね。私が一番に労いたかった二頭を、アデルが代わりに労ってくれている。」

そう言うと、アデルは手を止め、やわらかく微笑んだ。


「ルヴィには、おやりにならなければならないことがたくさんあるのですから、少しくらいお手伝いさせてください。」


「ありがとう、アデル。ハウルのお母様が昼食の準備をしてくれました。一緒に行きましょう。」


「そうなのですか。わかりました。では、リッキ、また後でね。」

アデルがそう言って、優しくリッキの首を撫でる。


「ライズも、また後で...」

私もライズの鼻筋に手を添え、そっと挨拶をした。

そして、アデルと肩を並べ、のんびりとした足取りで主屋へと戻っていった。


ダイニングに入ると、ハウルとレナ、そしてリルはすでに席に座り、にぎやかに話していた。ちょうどそのとき、奥からデニスとモリッツもダイニングに姿を現した。

私とアデルはハウルに促され、空いていた席へ腰を下ろした。

キッチンから出てきたレベッカが、パンを盛った皿をテーブルの中央に置き、デニスの隣に座る。


「では、いただこうか。」

焼きたてのパンと香ばしいスープの香りが広がり、和やかな雰囲気のなかで、鉄の話題や私の素性、大陸の鉄の街のことなど、さまざまな話が飛び交う。


しばらくして、デニスがふと思い出したように語り始めた。

「わしとレベッカは、昔エラムウィンドに住んでいたんじゃ。レベッカの父は商会の顔役でな。工房と商会との間でもめ事があって、わしらはこの島に逃れてきたんだ。」


「父上と母上はエラムウィンド出身だったのですか?」

モリッツが驚いたように聞き返す。


「そうだ。このことはわしもレベッカも、これまで誰にも話していないからな。

 この森の木々は良い木炭になる。この島に来てから、わしは鉄と向き合い、より良い鉄を打つことに心を砕いてきた。

 モリッツにもハウルにも、鉄には妥協しないよう教え込んできた。」


するとレベッカが、懐かしそうに微笑みながら左手をかざした。

「私はね、デニスの鉄が好きだったの。出会ってすぐにプレゼントしてくれたこの指輪...銀にも金にも勝る素敵な指輪でしょう?」


薬指には、シンプルながら独特の艶を放つ、美しい鉄の指輪が光っていた。


「わしの最高傑作じゃな。今でもこの指輪に勝るものはできておらん。」

デニスはそう言って、豪快に笑った。


「とても素敵なお話ですね。私はレベッカさんのようになりたいですわ。」


アデルが呟くと、レベッカは微笑みながらアデルに視線を向けた。

「アデルさん、あなたはまだ若いわ。でも...あなたならすぐにそうなれるかもしれませんね。」


照れくさくなったのか、デニスが話題を変えた。


「それにしても、わしの鉄を良いと言ってくれたのは、レベッカ、モリッツ、ハウルに続いて四人目だな。」

「レナも、お父様の品物は素晴らしいと思っているわ。」


レナが少しむくれたように言うと、デニスは満足そうに笑った。

「そうか。では、五人目ということだな。ハハハハハ!」


笑い声がダイニングに響く中、レベッカは静かに言葉を続けた。


「ルヴィさんがハウルをエラムウィンドに連れて行ってくれるなら、私たちも準備をしなくてはなりませんね。」


「私も街に戻って準備をしたいので、これから馬車で戻り、明日またお邪魔したいと思うのですが、よろしいでしょうか?」


「そうね。わたしもお母様に旅の許可をもらわないといけないし。」


リルもすぐに同調する。レベッカは優しく頷いた。


「わかりました。明日お待ちしていますわ。気をつけて行ってらっしゃい。」


「それでは、わしらもハウルに持って行ってもらう品物を整理するか。では、ルヴィ殿、お嬢さん方、また明日。」

デニスは立ち上がると、モリッツを連れて鍛冶場へと向かっていった。


アデルが椅子から立ち上がり、丁寧にお辞儀をしながら言った。


「デニスさん、レベッカさん、いろいろとありがとうございます。レベッカさん、美味しい昼食をありがとうございました。」


私とリルもそろって頭を下げると、レベッカは静かに微笑んで頷いた。


私はハウルの方に向き直って、まっすぐに言った。

「ハウル、良かったですね。明日また来ますので、一緒にエラムウィンドに行きましょう。」


そう言って、ダイニングをあとにした。


外に出て、大人しく草を食んでいるリッキとライズのそばへ向かう。

アデルが集めてくれた藁を手に取り、私たちは四人で並んで、二頭の大きな体を丁寧に拭っていった。

どこか満足げに目を細めるライズ。リッキも気持ちよさそうに耳を動かしている。


そのとき、隣にいたハウルがぽつりと呟いた。

「父と母の昔話なんて、初めて聞いたよ。ルヴィ、何かしたのかい?」


私は藁を手の中で軽く整えながら、静かに答えた。

「私は何もしていませんよ。ただ、エラムウィンドという街の名前を聞いて、いろいろ思い出されたのではないでしょうか。」


「うん、そうだな...。」


ハウルは少し遠くを見るようにして、ゆっくりと頷いた。

やがて、リッキとライズの体を拭い終えた私たちは、互いに軽く汗をぬぐいながら、ハウルに礼を言い、馬車に乗り込んだ。


「ハウル、では明日。」

「うん、また明日。気をつけて帰るんだぞ。」

「ハウル、ではまた明日お会いしましょう。」

「ハウル、またね!」


アデル、私、そしてリルが順に声をかけると、ハウルは笑顔で手を振り返してくれた。


馬車がゆっくりと村を抜け、街道に出ると、速度が自然と増していく。

手綱を引かずとも、リッキとライズはまるで道を覚えているかのように、自ら進路を選び、迷いなく走り続けていた。

私はそっと手綱を緩め、馬車を彼らに任せながら、これからのことに思いを巡らせていた。


エラムウィンドは、大陸の南西部に位置する街の一つであり、数年前に南方辺境伯の領地として編入された街だ。

この世界には、四つの大陸が存在している。その中心に位置するのが、セレストリア大陸だ。

セレストリア大陸には、現在三つの王国と一つの公国が存在する。


東方北部には人間の公国。

東方南部には人間の王国。

南方の広大な大森林にはエルフの王国。

そして西方全域を統治するのが、人間の王国である。


かつてこの大陸には三つの王国が存在していた。

人間の王国が大地を支配し、エルフの王国が大森林を守り、そして中央の山脈の地下には、ドワーフたちが栄える地下王国を築いていた。


だが、第三次スタンピードの少し前、ダンジョンの核がドワーフの地下王国に持ち込まれ、それにより地下王国の一部がダンジョンと化してしまったのだ。

人々は協力して、この突如現れたダンジョンの攻略に挑んだが、それが終わる前に第三次スタンピードが発生した。

地上と地下の双方から魔物が溢れ出し、ついにはドワーフの地下王国は完全にダンジョンに飲み込まれて滅びた。


そして、地下から溢れた魔物たちは、同じく地上で出現した魔物と合流し、人間の王国にまでなだれ込んでいった。

この未曾有の災厄を鎮めたのは、エルフの王国、東方北部を治めていた公爵家、そして東方南部を治めていた辺境の伯爵家による軍勢だった。

スタンピードの後、人間の王国は、その統治力を大きく失った。復興はなされたものの、大陸全土を束ねる力は戻らず、西方のみを統治する存在となった。


その後、東方北部の公爵家は新たな王として立ち、東方北部を治めることになった。ただし、西方の王国に遠慮し、その領地を『公国』と称している。

同じく、東方南部では辺境の伯爵家が新たな王となり、その地域を治めるようになった。

こうして、大陸には三つの王国と一つの公国が並び立つ時代が始まった。


そして、西方を統治する人間の王国が、ここヴァレンディア王国である。

ヴァレンディア王国では、二年前に新たな王が即位したものの、王位継承を巡る混乱から政情は安定せず、今も内乱が続いている。

その混乱のさなかにありながらも、南方辺境伯は王国の争いに加担することなく、独自に領地の安定を保ち続けている。


私たちがいるデネリフェ島を含む群島は、ヴァレンディア王国の直轄領である。

ただし、それぞれの島の街ごとに自治が認められており、それぞれ独自の文化と制度を保っている。


このデネリフェ島は、大陸と直接つながっているわけではなく、その間には『ドライホーン島』と呼ばれる大きな島が横たわっている。

ドライホーン島には人が住んでおらず、街も存在しない。

複雑な地形に加え、大陸側から流れてくる魔物たちが潜伏しているとされ、住民たちはこの島を『魔物の島』と呼び、近づこうとはしない。

島の西端には王国が建てた監視塔があり、常駐する兵士たちが、魔物の動きを日々見張っている。


また、ドライホーン島の対岸にあたるデネリフェ島には、堅牢な城塞都市が築かれている。

その都市には王国軍の駐屯地があり、さらに島内から選抜された戦士たちも共に住み、魔物の侵入に備えている。


一方、群島の北と南の中海の中央に位置する『セントラル島』とその周辺の島々は、大陸との間に距離があるため、魔物が渡ってくることは稀だ。

たとえ魔物が現れたとしても、セントラル島の西部は屈強な海賊たちの拠点となっており、魔物は彼らによって容赦なく殲滅されてしまう。


また、もう一つの接点、南の内海のさらに南に浮かぶ『深緑の島』は、エルフの王国の領地である。

この島は古くからエルフたちによって守られており、魔物が侵入することはほとんどない。

こうした地理と防衛の要因が重なり、群島には魔物がほとんど生息していない。そのことが、この地を安全で住みやすい土地としている大きな理由の一つである。


しかし、これから向かうエラムウィンドは、そうはいかない。

エラムウィンドへ行くには、まず大陸へ渡る必要がある。そこからさらに数日間、内陸を旅しなければならない。当然、魔物と遭遇する危険もある。

デネリフェ島では、子供だけでも安全に旅ができるが、大陸ではそうはいかない。


大陸へ渡る手段は、定期船に乗るか、船を借りて渡るかだ。

ただし、南に行き過ぎると、海賊の勢力圏に入ってしまうため、目指すべきは北方の港町、ミドルポートだろう。

ミドルポートからエラムウィンドまでは、おおよそ七日から八日かかる見込みだ。


「ルヴィ、何を考えているのですか?」


隣からアデルに声をかけられ、私は我に返った。どうやら、しばらく沈黙していたようだ。


「私は、時間があるとつい考え事をしてしまう性分らしいのです。アデルも、一緒に大陸へ行きたいですか?」


私が問い返すと、アデルは一瞬だけ迷うような間を置き、それから穏やかに微笑んで頷いた。


「私も、大陸の街を一度訪れてみたいと思っていました。ルヴィたちのご迷惑にならないのであれば、今回はいい機会なのではないかと考えています。」


その控えめな言葉に、私はすぐに首を振った。


「迷惑だなんて、そんなことはありませんよ。ただし、安全な旅とは言えません。けれど、私は、アデルたちと一緒に旅ができると思うと、胸が高鳴るのです。」


言葉にするたび、自分の中で膨らんでいく期待が、心を静かに満たしていく。


そのとき、パルマスの街が、午後のやわらかな光の中に姿を現した。


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