交易
年が明けた。昨年は、オレにとってまさに転機の年だった。
何より、ルヴィとリルと出会ったことで、自分の運命が大きく変わったと、今は確信している。
そして、今年、いよいよ交易が始まる。
準備には、時間も労力も惜しまなかった。
リズベック商会のエリオットさんも、ドルムント商会のジャックも、きっと万全の準備を整えて待ってくれているだろう。
出発の二日前、オレはレナを伴って馬車でヴァレノ村に帰った。
村に着くと、レナはすぐに教会へ向かった。旅の無事を祈るためだ。
モリッツも、オレも、レナも子供のころは教会で読み書きや算術を学んだ。
オレやモリッツは一通り学び終えると足が遠のいたけれど、レナは今でも教会に足繁く通っている。
デネリフェ島は、豊穣の神デネリフェ・パルマス・デ・グラン・カナリアに縁の地とされ、デネリフェシス神への信仰が深く根付いている場所だ。
カナリアの街には大聖堂があり、祝福の森は、デネリフェシス神が眠る聖地とされている。
オレは、まず母に挨拶を済ませ、それから鍛冶場へ向かった。クローディンたちに、明後日、大陸に向けて出発することを伝えるためだ。
すると、クローディンとベルナルドが、それぞれ手紙を手にしてやってきた。
「これを、ヴォロッキオ工房のサンドロさんに渡してくれないか。」
ベルナルドは、そう言って小さな金属製の箱と手紙をオレに手渡してくれた。
クローディンもまた、
「これをサンドロさんに」と、丁寧に手紙を託してくれた。
どうやら、今回の旅はただの交易だけでは済みそうにない。
皆の想いも、しっかり届けてこなければならない。
今夜は、ヴァレノ村で過ごす。
夕食の頃には、レナも教会から戻り、いつも以上に賑やかな食卓となった。
もし、オレたちが無事に大陸から戻れば、この工房も大きな利益を手にすることになる。
父さんは、その利益で工房を拡張しようと考えているらしい。その計画について、楽しそうに語ってくれた。
交易が成功すれば、良質な鉄鉱石や砂金が安定して手に入り、それらを良質な製品に加工して大陸へ持ち込める。
評判が広がれば、新たな弟子たちも志願してくるだろう。
そのために、今から工房を広げておく、父さんの目は、すでに未来を見据えていた。
クローディンたちも、その考えに賛成している。
だからこそ、今回の交易を成功させなければならない。
昨年、一度だけ大陸に渡ったことがある。だが、決して楽な旅ではなかった。
ルヴィ、アデル、リル、ソニア、そしてランスのおかげで、何とか無事に帰ってくることができた。
今回も皆が同行してくれる。けれど、本格的に交易が軌道に乗れば、いずれは彼らの力を借りずとも、安全に荷を運ばなければならない。
そのために、ルヴィやランスと相談を重ねている。
海の移動については、ソニアにも協力をお願いしている。
考えなければならないことは、まだまだ山ほどある。
けれど...今夜は、そんなことを少し脇に置いて、この村で、家族と、仲間たちと、静かに過ごそうと思った。
翌朝、オレたちは皆に挨拶をしてから、レナとともにパルマスへ向かった。
道中、レナが言った。
「パルマスの教会に寄ってほしいの。お使いを頼まれていて。」
パルマスの街に入ると、北北西に伸びる通りへと馬車を進める。まっすぐ進んでいくと、教会の前に出た。
オレは馬車を止め、教会の前でレナを待った。
しばらくすると、レナが一人の男を連れて戻ってきた。まだ若いが、身なりからして司祭か、司祭見習いだろう。
「はじめまして。私はカレノール・グレイスティールと申します。今回の旅に同行させていただきます。」
そういえば、司祭見習いがレナの紹介で同行することになっていた。この人が、カレノールか。
「オレはハウル・シュルーダーです。レナの兄です。屋敷に案内しますので、馬車にお乗りください。」
簡単に自己紹介を済ませると、レナとカレノールを馬車に乗せた。
屋敷に戻ると、レナが皆にカレノールを紹介してくれた。
ルヴィは、司祭見習いが一緒だと旅が楽になる、と以前から話していた。前回の旅では、ルヴィに頼りきりだった。
少しでも彼の負担が軽くなるなら、きっと旅も安全なものになるだろう。
その夜、カレノールのささやかな歓迎会が開かれた。
彼の話によると、年齢はランスのひとつ上。オレたちとほぼ同世代だった。
カレノールは、教会の孤児院で育ち、幼いころから神学校に入り、今まで学び続けてきたという。
レナは、かつて教会でカレノールに学問を教わっていたことがあるようだった。
翌朝、アンフィとイヴァに見送られ、オレたちは屋敷を出発した。
商館の前を通りがかると、ミリアーノとエリスが外に出てきて見送ってくれた。
二人に挨拶をして、大通りを南へと進む。
パルマスの街を抜け、南の街道をひた走る。途中、テルロの街で一泊し、翌日にはギズモグロウブの街へと入った。
港に着くと、カルロとニコロが、小型の交易船二艘に荷を積み込んで待っていた。
スタンレー、マリーク、エリック、ケビンも、港で見送りに来てくれていた。
積み荷の積み下ろしは、エリックとケビンを中心に、スタンレーが集めてくれたギズモグロウブの人たちが手伝ってくれていた。
これから先も、この街の人たちには、たくさんお世話になるだろう。
すべての準備が整い、オレたちは、ネフライト号に乗り込んだ。
港に並んだスタンレーたちに、最後の挨拶をして、二艘の交易船を従え、ネフライト号はギズモグロウブの港を出航した。
海に出ると、ギーヴは水が怖いのか、船の中央で固まっていた。無理もない。ギーヴにとって、これが初めての航海なのだから。
今回、交易船を護衛するのは、ネフライト号ただ一隻だ。
しかし、これから本格的に交易が続くようになれば、護衛船も三隻は用意しなければならないだろう。
港を出て、しばらく進むと、リルが魔法の練習を始めた。
その隣では、レナも一緒に魔法の練習をしている。二人は、本当に仲がいい。
レナが屋敷に来てから、リルはレナに魔法を教えていた。
その成果もあってか、リルの魔法は、昨年に比べて格段に上達していた。
昨年までは、狭い範囲でさざ波を起こす程度だったのに、今では、広範囲にわたって波を自在にコントロールできるまでになっている。
レナの魔法は、そこまで至ってはいないが、それでも、一定範囲の波をしっかりと操ることができていた。
そこで、オレはふと思いつき、リルに声をかけた。
「リル、せっかくだから、波を立てるんじゃなくて、船に追い風を当ててやったらいいんじゃないか?」
リルは目を輝かせた。
「それ、いい考えね!じゃあ、ハウルとわたしで交易船を、レナがネフライト号を担当して、競争しましょ!」
レナは慌てて首を振った。
「競争だなんて...私、リルちゃんにもお兄様にも全然かなわないから...。」
「大丈夫よ、レナ。ハンデもあるし、これはハウルを負かす絶好のチャンスなんだから!」
「そんな、リルちゃん...。」
「リル、あんまり張り切って、交易船の帆を破るんじゃないぞ。」
「そんなことしないわよ!じゃあ、お昼ごはんまで競争ね!」
リルはそう言うと、さっそく一艘の交易船に向かって詠唱を始めた。レナも、少し緊張しながら詠唱を始める。
オレも、もう一艘の交易船に向けて魔法の詠唱を始めた。
昼までにはまだ時間がある。ペース配分を考えながらやらないと、後半で息切れしてしまう。
風を帆に当ててみると、意外と難しいことが分かった。
強すぎると風が散ってしまい、弱すぎると推進力が足りない。
帆を通じて船全体に風の力が行き渡るように、細かく力加減を調整しなければならなかった。
「これ、昼まで続けるって、リルのほうが先に飽きるんじゃないか?」
オレがつぶやくと、リルがにやりと笑った。
「わたしは大丈夫よ。ハウルこそ、途中で居眠りしないでね!」
レナの魔法で生み出された風は、少し乱れていたが、ソニアが器用に帆を操って、上手に風を集めていた。
ふと見ると、カレノールが興味深そうにこちらを眺めていた。
「皆さんは、いつもこんなに賑やかなのですか?」
「リルがいると、いつもこんな感じなのですよ。」
ルヴィが、さりげなく答えると、すぐにリルが食いついた。
「ルヴィ、わたしがいるとって、どういう意味なのよ!」
ハウルも笑いながら口を挟む。
「ルヴィにしては珍しく言葉選びを間違ったけど、言ってることは間違ってないね。」
「ハウルまで!」
カレノールは、そんなオレたちのやり取りを、眩しそうに笑いながら見ていた。
やがて、昼食の時間が近づいてきた。
この時点で、オレが風を当てている交易船が一歩リードしていた。
リルの交易船は、船体一艘分ほど後ろを走っている。レナが風を当てているネフライト号は、リルと並ぶ位置にあった。
ソニアの舵さばきがなければ、ここまで善戦はできなかっただろう。
この競争、特にゴールは決めていなかったが...
「このまま続けたら、昼食が食べられなくなってしまいますわね。この先に見える小島を先に通過した船を、勝ちにしましょう。」
アデルが提案してくれた。
その提案に火がついたリルが、オレの船を追い上げてきた。ネフライト号も、必死についてくる。
このまま最後まで、気を抜かずに走りきらなければ。
目標の小島が、徐々に近づいてきた。
そのときだった。リルが風を当てていた交易船が、急に失速した。
まさか、本当に帆を破ってしまったのか?慌てて船の帆を見たが、裂けたりしている様子はない。
疑問に思いながらも、オレは小島を目指して進んだ。
そして...気がつくと、交易船よりも先に、オレ自身が小島を横切ってしまっていた。
背後から、リルのはしゃぐ声が聞こえた。
「レナ、わたしたちの勝ちよ!」
リルはそう言いながら、レナに抱きついている。レナは呆然としたまま、こちらを見ていた。
...なるほど。そういうことか。
オレは苦笑しながら小島を見送り、後ろからやってきた二隻の船を見つめた。
そのとき、アデルがきっぱりと宣言した。
「はい。それでは結果をお伝えいたします。リルが不正を行ったため、優勝はハウル。準優勝はレナ。リルは失格となります。」
リルは不満そうにアデルを睨んだが、皆が納得した顔をしているのを見て、何も言えずにいる。
それにしても、この半日で、随分と距離を稼げた気がする。
長い時間、魔法を使い続けていたので、さすがに疲れてしまった。昼食をとった後は、夜の見張りに備えて、横になって休むことにした。
出航から二日間、ギーヴはずっと船の中央で固まっていた。その間、アデルがそっと寄り添い、励ましてくれていた。
三日目になって、ようやく慣れてきたのか、ぎこちないながらも、船内を歩き回るようになった。
「ソニア、この船はソニアが動かしているのか?」
ギーヴが興味深そうに尋ねると、ソニアが笑いながら答えた。
「違うよ。僕は方向を間違えないように舵を操作しているだけさ。ギーヴもやってみるかい?」
ギーヴは少し悩んだあと、首を横に振った。
「オイラにもできるのか?...うーん。でも、やめとくよ。」
普段は好奇心旺盛なギーヴも、船の上では恐怖心が勝るらしい。
「周りには水しか見えないけど...ルヴィ、海ってどれだけ大きい池なのかな?」
ギーヴの素朴な質問に、思わず笑いそうになったが、代わりにオレが答えた。
「海は池じゃないけど、どれだけ大きいか誰にも分からないんだ。少なくとも祝福の森よりずっと広いし、オレたちのデネリフェ島よりも、遥かに大きい。」
ギーヴは目を丸くして聞いていた。
その後も、ギーヴの質問は尽きなかったが、彼は決して船の縁に立とうとはしなかった。
航海の途中、少数の魔物と遭遇することもあったが、オレたちの船団は順調に進んだ。
そして、ギズモグロウブの港を出てから七日目、ついにミドルポートの港に到着した。
港に着くと、懐かしい顔ぶれがオレたちを待っていてくれた。




