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名もない冒険の物語  作者: 白雉
第三章
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帰途

翌朝、空には一面に薄い雲が広がり、日の光はぼんやりと滲んでいた。明るさはあるものの、くっきりとした影は生まれず、すべてが柔らかな光に包まれている。

まるで空が淡いヴェールをまとっているかのように、遠くの景色は輪郭を失い、霞んで見えた。

けれど、その静けさとは裏腹に、エラムウィンドの街にはいつものように活気があった。


通りのあちこちから、ハンマーで金属を打つ音が絶えず響いてくる。

工房から聞こえるその打撃音は、まるでこの街そのものの鼓動のように、力強く一定のリズムを刻んでいた。


ルヴィたちと共にヴェロッキオ工房へ向かったのは、交易に用いる割符を作ってもらうためだった。

サンドロが自ら手掛けてくれたそれは、模倣を防ぐために複雑な断面を持ち、堅牢かつ重厚な仕上がりだった。

鉄でできた三対の割符は、それぞれが確かな信頼の象徴となるだろう。


その後は、荷馬車や必要物資の準備に取りかかり、一日が静かに過ぎていった。



帰路では、リズベック商会やセイレーンたちとの交易に関して、了承を得るための交渉が待っている。

無事に了承を得ることができれば、改めてデネリフェ島で本格的な準備を整え、交易隊を再びエラムウィンドへ送り出すことになる。


昼食後、ベルナルドとグンダーが率先して荷物の積み込みを手伝ってくれたおかげで、荷馬車への積載は順調に終わった。

食料や水、衣類に工具、旅に必要なものがすべて収められ、鉄鉱石と砂鉄も、ドルムント商会の人々の手で丁寧に積み込まれていた。


こうして、出発前の一日はあっという間に終わってしまった。


夜、ドルムント商会が用意してくれた部屋に戻ると、心地よい疲労感が体を包んでいた。

ルヴィが用件を伝えに部屋を訪ねてきたが、彼も疲れているのか、要点だけ話すと静かに自室へ戻っていった。


そして、いよいよ明日からはデネリフェ島へ向けた、残り半分の旅が始まる。



朝、ふと目を覚ますと、部屋の中はまだ薄暗かった。

昨夜は早く床に就いたせいか、少し早く目が覚めてしまった。ルヴィに教えてもらった魔法で、部屋のランプに火を灯す。

窓の外には夜明け前の淡い光が差し込み、空には星々が瞬いている。西の空には、沈みゆく二ノ月が淡く輝いていた。


ランプを手に外に出ると、アデルもまた左手にランプを持って姿を現した。

「おはようございます、ハウル。今日はずいぶん早いですね。」

「おはよう、アデル。昨日は疲れて早く眠ったから、今朝は自然と目が覚めたんだ。」


アデルは静かに頷き、笑みを浮かべた。

「私も昨夜は早く眠ったので、目が覚めたのが早くて...少しだけ外の空気を吸いに来たんです。ハウルは何をしていたのですか?」

「ちょうど外に出て、星や月を眺めていたところだよ。アデルは魔法の訓練かな?」


彼女の右手には、魔法の本がしっかりと抱えられていた。アデルは旅の仲間の中でもいち早く魔法の学習を始めており、その才能と努力は誰もが認めている。


「今は回復魔法を、初級から復習しているところなんですよ。ハウルも、一緒にいかがですか?」


オレは今、治癒魔法を学んでいる。アデルはそのことを知っていて気遣ってくれたのだろう。


「ありがとう、アデル。僕もちょうど治癒魔法の勉強をしているところだったんだ。」


するとアデルは魔法の本を開き、治癒魔法の章を指し示してくれた。

ルヴィの話では、魔法使いの使う治癒魔法では、軽い怪我や毒、病気を和らげる程度の効果しかないという。

ちぎれてしまった四肢の再生や、重度の毒や病の治療は、魔法使いの術ではどうしても限界があるという。

そうした本格的な治癒には、神官たちが用いる「神聖魔法」が必要で、ルヴィの話によれば、魔法使いの魔法とは根本的に性質が異なるものらしい。


朝の静けさの中、二人で言葉を交わしながら魔法の訓練を進めていく。

やがて空から星が消え、東の稜線がゆっくりと姿を現した。朝日が顔を出すと、その光がアデルの赤茶色の髪を照らし、体にほんのりとした温かさをもたらした。


日が昇るまでは肌寒かった風が、心地よいものに変わっていった。ランスたちが商館から姿を現す。


「おはようございます。今日はハウルも一緒でしたか。」


剣の修練が始まる。ルヴィの魔法の教え方も丁寧で分かりやすいが、ランスの剣術の稽古もまた、本格的で理にかなっている。

体格や筋肉、その人の性格を見て適した得物を選び、その得物の使い方の基礎から一つ一つ、体の動きと理論でわかりやすく教えてくれるのだ。


ランスは使いこなせない武器はないと言う。その実力は伊達ではなく、さすが戦士の家系の出だと感じさせられる。

彼の朝の稽古は、まず武器を持たずに体を動かすことから始まる。

この基礎運動は、どの武器を使うにしても必ず必要になる基本の動きであり、彼の家に古くから伝わる技法だという。

この基礎こそが大事なのだと語るランスの稽古では、朝の日課の八割がこの基礎運動に充てられていた。


その成果もあって、以前は剣の扱いが苦手だったアデルも、今ではショートソードを構える姿が様になってきている。

そして、修練に最も熱心なのがリルだ。組打ちでは、今やランス以外の誰も彼女からなかなか一本取れないほどに成長している。

ランス曰く、リルは筋がいいらしい。リル自身も、魔法よりも剣を扱う方が性に合っているようで、修練にも熱がこもっている。


稽古が終わり、それぞれ汗を流して朝食をとっていると、ジャックがヴェロッキオ工房の三人を伴ってやってきた。


「皆さん、おはようございます。今日から旅の間、よろしくお願いします。」


いつもお調子者のベルナルドが、珍しく真面目な表情でそう言って一礼する。

その後ろには、やや緊張した面持ちのクローディンとグンダーの姿があった。

一方、ジャックはというと、どこか余裕のある笑みを浮かべている。旅の経験があるのだろうか、落ち着いた雰囲気をまとっていた。


ドルムント商会でお世話になった人々に挨拶を済ませた後、フレデリックのもとへ向かうと、ロレンツォとシドニーも顔を揃えていた。


「いよいよ出発ですね。ジャック、皆さんにご迷惑をおかけしないよう、しっかり役目を果たしてくるのですよ。」


シドニーの言葉に、ジャックは真剣な面持ちで頷く。三人に挨拶を済ませ、オレたちは商会を後にした。


馬車の御者台にはルヴィとアデルが並んで座り、手綱を握っていた。ランスはエクリプスに騎乗し、アズールにはベルナルドがまたがっている。

そして、四頭立ての荷馬車の御者台にはオレが座り、揺れる荷の重みに注意を払いながら手綱を引いていた。


少し遠回りにはなるが、ヴェロッキオ工房に立ち寄るため街の道を進む。工房に着くと、サンドロ、ピエトロ、ルカをはじめ、職人たちが笑顔で見送ってくれた。


「クローディン、グンダー、ベルナルドをよろしく頼む。」


その言葉を受け、再び馬車へと乗り込み、ゆっくりと街の外へと進み出す。街はいつものように活気に溢れ、往来も絶え間ない。


街を出ると、整備された街道がまっすぐ西へと伸びていた。左手にはエルム川が流れ、水面が日の光にきらめいていた。


思えば、旅を始めた頃はたった四人だった。今では十人の大所帯となっている。ジャックはミドルポートで引き返すが、それでもヴァレノ村に帰るときには九人だ。

しかも父さんの弟子候補まで三人も連れて帰ることになるとは思ってもみなかった。


父さんも母さんも、きっと驚くだろう。だが、三人の熱意と腕を信じて、オレが責任を持って父さんを説得するつもりだ。


帰路のルートは、来た時と同じだ。エラムウィンドを発ち、最初に目指すのはガレリアの街。

その後、イルマル、デッサウ、エルムリンデン、そしてアルヴィアを経て、ミドルポートに至る。


アルヴィアでは、ランスが計画していた盗賊掃討作戦を実行する予定になっている。その後、アルヴィアを出て一泊の野営を経て、ミドルポートに到着する。


ミドルポートでは、リズベック商会のビアンカと交易の交渉が控えている。

ここでの成功が今後の交易に大きく影響する。交渉を終えれば、そこからは海路となり、船の操縦も積み荷の管理もすべてソニアに任せることになる。

同時に、荷物を積むための船もミドルポートで手配しなければならない。


当初の旅の目的は、ただ鉄鉱石を仕入れることだった。

だが、旅を続けるうちに思いがけない出会いがいくつもあり、仲間が増え、本来の目的に加えて新たな目標も生まれていた。

パルマスの路地でルヴィとリルに出会わなければ、こんな大冒険が始まることはなかっただろう。


エラムウィンドに到着したとき、リルは『これから楽しいことがいっぱい待ってる』と言っていた。

その言葉どおり、旅を続けることで楽しみも、夢も、少しずつ広がっていった気がする。

この旅が無事に終わったら、また新たな旅に出てみたい。そんな気持ちさえ、今は芽生えている。


エラムウィンドを出発してからは、ガレリア、イルマルと順調に進み、ジャックのおかげで両方の街ではドルムント商会の商館を宿として利用することができた。

だが、デッサウの街にはまだドルムント商会は進出していないという。

今回の交易の話が進めば、新たに商館を構える予定らしく、ジャックにとってもこの旅はその準備の一環だという。


デッサウでは、ジャックが街を歩きながら熱心に物件を見ていたので、オレも彼と一緒に同行することにした。

大通りを歩いていると、改修中の大きな建物が目に入った。近くの人に尋ねてみると、

「ここにはリズベック商会の商館ができるらしい」と教えてくれた。

ジャックは「先を越された」と少し悔しそうに言っていたが、二つの商会が同じ街にあるのは珍しいことではない。

むしろこれからの協力関係を考えれば、近くにあることが互いの利になるはずだ。


辺りを見回すと、そのリズベック商館予定地の斜め向かいに、大きな建物が一つあった。しかし、まだ日が暮れたわけでもないのに店は閉じていた。

再び近くの人に尋ねてみると、そこは後継者が見つからず、まもなく閉店する店舗なのだという。


立地は抜群だ。大通りに面し、しかもリズベック商会に近い。

オレが「ここが良いんじゃないか?」と提案するより早く、ジャックはすでにその建物の管理人を探していた。

ふたりで管理人を訪ね、ジャックがドルムント商会の者であることを告げて建物の買い取りを申し出ると、商談は驚くほどあっさりとまとまった。

宿に戻ったジャックは、すぐにエラムウィンドの父宛に報告の手紙を書き、後の手続きは商会に任せると話していた。


デッサウの街の宿で一泊し、翌朝、エルムリンデンに向けて出立した。

エルムリンデンに着くと、門前で思いがけない人物がオレたちを出迎えてくれた。


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