ヴェロッキオ工房
フレデリックの話は続く...
主要な商会が鉄製品の量産化に踏み切る中で、最大の商会であるドルムント商会は決断を下せずにいた。
それは、取引先であり、街の工房の中でも中心的な存在であったヴェロッキオ工房が、量産化に強く反対していたためである。
アンドレア・ヴェロッキオが主宰するこの工房には、エラムウィンドを代表する腕利きの職人たちが集っていた。
彼らは日々、技術を磨き、より良い製品を生み出すことに誇りを持っていた。量産化は、その誇りと職人の矜持を捨てることに他ならなかった。
その工房の中でも頭角を現していたのが、若き職人デニス・シュルーダーである。
彼は、たとえ一時でも品質に妥協すれば、再び高い品質のものを作り出せなくなると考えていた。
技術と信念を備えたデニスは、当時ドルムント商会の代表であったジャン=ロレンツォの長女、レベッカと婚約していた。
レベッカは婚約者の信念に深く共鳴し、父にこう提案した。
「量産に特化する工房と、質を追求する工房を分けて管理するのはどうでしょうか?」
ロレンツォはこの提案に理解を示し、導入に前向きであった。
だが、その息子であるフレデリックはこの意見に真っ向から反対した。
「量産を依頼する工房に対する示しがつかず、商会の威信も損なわれる」
と主張し、強引に全工房への量産一本化を決定づけた。
代表である父の支援を得ていたはずのレベッカとデニスであったが、実権を握りつつあったフレデリックの影響力は大きく、商会の多数は彼の方針に従った。
この決定に反発したヴェロッキオ工房は、商会からの離脱を表明し、独自の販路を模索する道を選んだ。
アンドレアたちは苦心しながらも新たな販路を切り開こうとし、同時に職人たちには、新天地で思いのままに製作できる場を求めるよう勧めた。
やがて若き職人たちは、自らの信じる技術と誇りを胸に、エラムウィンドを後にした。
デニスもまた、レベッカと話し合いの末、街を離れる決意を固める。そして、二人で静かにこの街を後にしたのだった。
数年後、エラムウィンドの街には鉄製品があふれかえるようになり、表面的には量産化の目的は果たされた。
だが、その代償は決して小さくはなかった。
鉄の価値は徐々に下落し、工房に入る収益は細る一方となった。
職人たちに十分な報酬を支払うこともできず、若くして工芸の道を志す者も減っていった。
技を継ぐ者の少ない街では、やがて技術が作業へと変わり、優れた職人が育たなくなっていった。
一方、独自の道を選んだヴェロッキオ工房もまた順風満帆ではなかった。
商会からの離脱以後、職人たちの多くが街を去り、工房に残ったのはわずか数名。
数こそ減ったことで何とか経営は続けられたものの、製品の質を守るにはあまりに手が足りず、かつての高水準には程遠い出来となっていった。
街の鉄製品の品質が明らかに落ち始めたことで、ついにドルムント商会はヴェロッキオ工房に謝罪の意を示し、かつての関係修復を申し出た。
両者は改めて取引を再開することとなったが、一度崩れた技術体系と信頼関係は、すぐには元には戻らなかった。
現在に至るまで、かつてエラムウィンドを誇らせた鉄製品の水準には、未だ届いてはいない。
◇◇◇
「ハウル、君がデネリフェ島の片隅で暮らすことになった原因は、きっと私にある。すまなかった。」
フレデリックはそう言って、静かに頭を下げた。
「僕は...デネリフェ島でルヴィに出会えたことを幸運だったと思っています。そして、今こうしてエラムウィンドの街まで旅をして来られたのですから。」
ハウルの言葉に、フレデリックの表情がやわらぎ、感謝の意を込めた眼差しが向けられた。
「ありがとう、ハウル。今日はこの商館で、皆ゆっくり休んでいくといい。
ヴェロッキオの名は今も工房に残っていますが、主宰していたアンドレア・ヴェロッキオは三年前に亡くなっています。
現在は、その弟子の一人、アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピが主宰を引き継いでいます。明日、商会の者に案内させます。」
その後は少し雑談を交わし、ロレンツォとフレデリックは退室していった。代わって、落ち着いた雰囲気の女性が入室する。
「本日、皆さまのお世話をさせていただきますアレーナと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。」
柔らかな口調のその女性は、オレたちをそれぞれの個室へと案内してくれた。
久しぶりに静かな夜を迎えた。
今日聞いた話は、これまで知らなかった父さんと母さんの過去。
父がどこまでも品質にこだわる職人だったことは知っていたが、母の家族のことは、何も聞かされてこなかった。
遠く離れたデネリフェ島の静かな村に思いを馳せながら、オレは深い眠りに落ちていった。
翌朝、目を覚ますと、ランスたちと一緒に剣の修練に加わった。昨日話していた通り、フレデリックが商館の中庭の一部を開放してくれていた。
稽古が終わると、朝食が用意されていて、ロレンツォとフレデリックの家族とともに朝の食卓を囲むことになった。
フレデリックには穏やかな笑みを浮かべる夫人と、ひとり息子のジャン=ジャックがいた。
ジャックはランスよりも一つ年上とのことで、少し話してみたかったが、今は勉学に忙しいようだった。
朝食を終えると、昨日案内してくれた窓口の女性が姿を見せた。
「私はドルムント商会で働いておりますケルシーと申します。本日はヴェロッキオ工房まで皆さまをご案内いたします。」
彼女の落ち着いた口調に、オレたちは一礼して応じた。
「よろしくお願いします。」
ケルシーに導かれ、エラムウィンドの街路を歩いてヴェロッキオ工房へ向かう。
街の中でもひときわ大きなその工房には、すでに連絡が届いていたのだろう。門前には三人の職人が並び立って出迎えてくれていた。
出てきたのは、サンドロ、ピエトロ、そしてルカという三人。
そのうちルカは唯一の女性で、柔らかな目元が印象的だった。
そして、サンドロ、本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピといい、この工房の現主宰だという。
「お前がデニスの息子か。」
サンドロはオレの顔をじっと見つめ、懐かしげに目を細めた。
「なるほど、顔立ちはデニスよりレベッカに似ているな。」
それを聞いたピエトロが横から口を挟む。
「デニスの作った品を持ってきてるって聞いたぞ。あとで見せてもらうからな。くれぐれも、フレデリックに全部売り払うんじゃないぞ。」
冗談めかした口調に、つい笑ってしまう。
すると、ルカが少し前に出て、まっすぐこちらを見つめて尋ねてきた。
「君も鉄を打つの?」
「僕は...あまり上達しなくて。鍛冶よりも、品物を売るほうを任されています。兄が父と一緒に良いものを作っているので、ぜひそちらを見ていただければ。」
そう答えると、サンドロがまた大笑いした。
「なるほど、似たのは顔だけじゃなくて、才能も母親譲りってことか!」
背中をバンバンと叩かれ、思わず顔をしかめる。
三人の職人たちはまだ仕事中とのことで、午後には改めて商会を訪れると約束してくれた。
そこでルヴィたちと相談し、しばらく街の散策を楽しむことにした。
エラムウィンドの街はとにかく広く、今まで旅をしてきたどの街よりも大きいと感じる。
伯爵家の居城があるエルムリンデンと同じくらいか、それ以上の規模に思えた。ルヴィの話では、この街は大国の中でも十指に入るほどの大都市なのだという。
ランスも王都を出てからここまで旅してきた中で、これほどの都市はなかったと頷いていた。
リルとソニアは目を輝かせながら、街角の店先や屋台をあちこち覗き込んでいた。
エラムウィンドの街は、エルベ川沿いに位置する。川は街の南端を、東から西へとゆったりと流れており、その恵みがこの街の発展を支えてきた。
十八年前、小規模な鉄工の街として存在していたエラムウィンドは、急速な成長を遂げ、現在では三つの街区に分かれて発展している。
中心に位置するのが、一街区と呼ばれる地区で、ここには古くからの鉄工房が立ち並び、熟練の職人たちが日夜鍛冶に励んでいる。
その周囲を取り囲むように東へと広がる二街区では、新たな工房や商会が建ち並び、整然とした居住区も整備されている。
さらに、その外縁にあたる三街区には多様な業種の商店や露店が軒を連ねており、日々にぎやかな商いが行われている。
この街には、人間だけでなく、エルフやドワーフ、さらには巨人族の姿も珍しくない。
それだけに、街全体が種族の垣根を超えて活気に満ちており、まるでひとつの小さな世界のような雰囲気を醸し出していた。
ヴェロッキオ工房の前の主宰者、アンドレア・ヴェロッキオもまた、ドワーフの名工だったと聞く。
彼の技術と哲学は今なおこの街の鍛冶職人たちに受け継がれている。
街の東側にはエラム山脈がそびえており、そこがこの街最大の資源、鉄鉱石の供給源となっている。
山脈の周囲には無数の採掘村が点在し、村人たちは代々鉱石の採掘と運搬に従事しながら暮らしてきた。
それらの村々とエラムウィンドは、まさに鉄によって結ばれた運命共同体のようなものなのだ。
採掘村も見に行きたいと思ったが、今回は時間が足りず、諦めるしかなかった。
そのまま歩きながら、ふと頭に浮かんだことをルヴィに話してみた。
「ルヴィ、今回の仕入れはうまくいきそうだけど、今後も鉄鉱石を定期的に仕入れられるルートって作れないかな?」
ルヴィはすでに考えていたらしく、すぐに答えが返ってきた。
「ハウルもそう思っていましたか。難しくはないと思います。
今後の王国での内戦の影響にもよりますが、エルムリンデンの東にある街、デッサウからミドルポートまではリズベック商会に、
そしてデッサウからエラムウィンドまではドルムント商会に、それぞれ協力をお願いできないかと考えていました。」
「なるほど。あとは、ミドルポートからギズモグロウヴへの海路と、そこからヴァレノ村への陸路か...。」
その時、ソニアが元気よく口を挟んできた。
「海路は僕に任せて!何往復でもやってみせるから!」
するとリルがちょっと首をかしげながら尋ねる。
「ソニア、交易船の船長になるつもりなの?わたしはみんなと旅をしたいんだけど...。」
慌てたソニアは、顔を赤くしながら手を振った。
「ち、違うよ!僕も旅をしたいから、船長は...べ、別の人で...。」
その慌てっぷりに、思わず吹き出してしまった。
「ははっ、ソニアのお兄さんに頼めたら安心なんだけどなぁ。」
オレが言うと、ソニアは照れくさそうにうなずきながら答えた。
「うん、帰ったら僕からお願いしてみるよ。」
「あとはギズモグロウヴから陸路だけですね。帰ってから人を雇うなり考えましょう。」
オレがそう言うと、ルヴィが頷きながら話を続けた。
「ところで、ドルムント商会への話はハウルからお願いしてもらえますか?」
「もちろん、今夜話してみるよ。」
そう約束を交わしながら、一街区と二街区の散策を終えた一行は、今後の計画を胸に秘めつつ、再びドルムント商会へと戻っていった。




