ヴァレンタのロディ
川面に目をやると、どこまでも続く水の帯が陽を受けてきらめいていた。
このあたりは川幅が広く、流れも穏やかだ。舟で対岸寄りを下れば、追手の目を欺いて進むこともできるかもしれない。
注意深く川沿いの小さな集落に入ると、岸辺に七艘の舟が並んでいた。
集落の者に声を掛けると、舟の持ち主を教えてくれた。教えられた家の扉を叩くと、日焼けした褐色の肌に引き締まった体つきの男が現れた。
「あなたがロディさんですか?私はランスと言います。」
「ランス、ね。で、そのランス君がオレに何の用だ?」
「舟を譲っていただきたいのです。事情があり、すぐに出発したいのですが...。」
「ふん。いいとこの子息に見えるが、舟なんぞ自分でどうとでもできそうなもんだろ。」
「訳あって、それが難しいのです。ご迷惑はかけません。一艘、売っていただけないでしょうか。」
「事情は聞かん方が身のためって気もするな...だが、坊ちゃん、舟なんて扱えるのかい?」
「なんとかしてみます。」
「ほう。で、どこまで行きたいんだ?」
「できれば海まで。でも、まずは対岸に渡れればそれで充分です。」
「海、だって?ははは、あんた、冗談が好きだな。ここから何日かかると思ってる。
この辺は穏やかでも、下っていけば激流もあるし、滝もある。オレの舟じゃ、一日保ちゃしない。」
「それなら、せめて対岸まで渡してもらえませんか?」
「それなら話は早い。舟も失わずに済む。」
「本当ですか?」
「ああ。すぐ出発するか?」
「はい。お願いします。」
「...ついてきな。」
ぶっきらぼうな声に、私は「ありがとうございます」とだけ返して、男の後を静かに追った。
無言のまま川辺まで歩くと、ロディは一艘の舟に手をかけ、川へ向けて押し始めた。私も黙ってその動作を手伝い、二人で舟を水面に浮かべる。
舟が川に浮かぶと、ロディは先に乗り込み、手を差し出して私を導いた。
川に身を任せながら、ロディは長い竿で岸を突き、静かに舟を押し出す。舟が川の流れに乗った後は、艪を巧みに操って進んでいく。
やがて対岸に近づき、舟はゆるやかに進路を変え、川を下り始める。
「ランス君。」
ようやくロディが口を開いた。声は穏やかだった。
「君は追われているのだろうな。理由は聞かない。けれど、君みたいな貴族が時々ここを訪れるんだ。
大半の連中は、偉そうに舟を出せと命じてくるもんさ。君のように、礼を尽くして話す者は珍しい。まして、君のように若い者がここまで来たのは初めてだよ。」
私は黙って耳を傾けていた。
「このあたりの川を下れば、対岸から見つかる心配はほとんどない。
一日ほど下った場所に、舟をつけるのに都合のいい入り江があるんだ。そこまで、送ってやろう。」
「...本当に、よろしいのですか?」
「構わんよ。今日の漁はもう終わった。こう見えて、舟は三艘あるんだ。二艘は人に貸してる。明日一日くらい休んだって問題ないさ。」
「ありがとうございます。」
その後、舟は静かに川面を滑っていった。昼が過ぎ、夜が訪れ、そして朝が来る。
やがてロディが声を上げた。
「ここだ。着いたぞ、ランス君。」
そう言うと、ロディは舟を岸につけた。
「ありがとうございました。これはお礼です。」
そう言って私が金貨を一枚差し出すと、ロディは開いた手のひらをこちらに向け、首を横に振った。
「それは受け取れない。オレは君が気に入ったからここまで送った。ただそれだけのことさ。」
「けれど、運んでいただいたのです。せめて報酬を支払わなければ、私の気持ちが収まりません。」
「じゃあ...そうだな。代わりに、オレの願いを三つ聞いてくれないか。」
「願い...ですか?どんなものでしょう?」
「まず一つ目だ。君の本当の名前を教えてほしい。」
私は少し驚いたが、すぐに姿勢を正し、静かに名乗った。
「失礼いたしました。私は、ランスロット・シュヴァルツ・イセリオンと申します。」
するとロディはふっと笑みを浮かべ、どこか納得したように頷いた。
「イセリオン...やっぱりそうか。まさかとは思っていたが、本当に貴族の坊ちゃんだったとはな。それに、偽名じゃなかったんだな。」
「...どういう意味です?」
「言ったろ、オレのところには訳ありの貴族が時々来るんだ。でも、皆が皆、本当の名前なんか名乗らない。
仮にな、オレが君の追っ手に捕まって、きつく詰め寄られたら、名前や行き先を漏らしてしまうかもしれない。」
「なるほど...でもその点はご心配なく。私の名前も行き先も、話してもらって構いません。むしろ黙っていてロディさんが危険に晒されるほうが、私は悲しいです。
それに、行き先も海だとは言いましたが、途中で気が変わって別の場所へ行くかもしれません。」
「はははっ、やっぱり君は愉快だな。もし、何者かが私の元を訪れて来たら、そうさせてもらうよ。」
ロディは朗らかに笑うと、ふと表情を引き締めて、次の願いを口にした。
「二つ目の願いなんだがな、君は嫌がるだろう。でもこれは、必ず叶えてもらう。」
「はい、どのようなことでしょうか?」
「今日から君には、『ヴァレンタのロディ』と名乗ってもらう。」
「...偽名を使えというのであれば理解できますが、なぜロディさんの名前を?ご迷惑になるのでは...?」
「逆さ。君みたいな奴に名乗ってもらえたら、オレの評判も少しはマシになる。悪評が広まっても、今さら下がるもんもないしな。」
「本当に、そんなことでよろしいのですか?ところで、私はいつまでロディを名乗ればいいのでしょう?」
「一生とは言わんよ。信じられる仲間ができたら、そのとき本当の名前を名乗ればいい。」
「...わかりました。では、今日から『ヴァレンタのロディ』と名乗らせていただきます。」
「よし、それでいい。で、最後の願いだ。岸に上がって道をまっすぐ進めば、小さな街道に出る。
右に行けば小さな街がある。川魚の干物亭って宿があるから、そこで名乗ってみろ。」
「かわった名前ですね。そこに行って、ヴァレンタのロディと?」
「ああ、それだけでいい。」
「承知しました。それでは、そのようにいたします。」
「素直で助かるな。」
「...いえ、ロディさんの人となりが、少しわかった気がしました。」
「オレを理解した気になるなよ。さ、舟から降りろ。いつまでも甘えてる場合じゃねぇぞ。」
「本当に、何から何までありがとうございました。」
そう言って私は立ち上がり、川岸へと飛び移った。
「では、ロディさん。どうかお元気で。」
「おう、お前も変な死に方すんなよ。暗殺とか、くだらねぇのは勘弁だぞ。」
舟がゆっくりと離れていく中、ロディの声がまた響いた。
「おい、ランス!布切れ一枚、舟に落としたぞ!」
「えっ?ああ、それでしたら差し上げますよ。舟を拭くくらいにはなりますよね?」
とぼけて返すと、ロディが布を拾い上げて叫んだ。
「おいおい、なんだこれは!オレは金貨は受け取らんって言っただろうが!」
「金貨?そんなもの知りませんよ。きっと最初から舟にあったんじゃないですか?」
私はそう言って、歩き出しながら振り返った。
「それにもう、私はランスではありません。『ヴァレンタのロディ』ですから。急いで宿に向かわないと。」
後ろから、ロディの大笑いが聞こえてきた。
「まったく、素直な坊ちゃんかと思ったら、とんでもない食わせ物じゃねぇか!はははははっ!」
豪快な笑い声が、私の背中をくすぐった。その後も何か言っていたようだが、言葉としては聞こえてこなかった。
舟を降り、岩場を越えてしばらく進むと、風に揺れる草原が広がっていた。
さらに歩みを進めると、踏み固められた一本の土の道が見えてきた。道は南北にまっすぐ伸びている。私は言われたとおり、右へと向かった。
なだらかな丘をいくつか越えると、遠くに街の影が見えはじめた。
やがて建物が形を成し、その街が川に囲まれていることが分かった。街道はそのまま橋へと続き、街の入口へと導いていた。
橋を渡り、通りすがりの人に「川魚の干物亭」の場所を尋ねると、すぐに教えてくれた。
宿の扉を開き、中にいた女性に主を訪ねると、その女性こそが宿の主だった。
「私はヴァレンタのロディと申します。あなたに会うよう言われ、ここに参りました。」
「私はこの宿の主人、ムシュンガです。今日はまた、若くて品のあるロディさんですね。
あの人があなたをここに送り込んだとは...よほど気に入られたのでしょう。ロディ本人がここに現れるなんて、もう何年ぶりかしら。」
そう言って、ムシュンガは微笑みながら私を部屋へ案内してくれた。
「今日はここでゆっくりお休みください。もちろん、いつまでもこの部屋を使っていただいて構いませんが...きっと、明日には旅立たれるのでしょうね。
私はこのあたり三つの街の商会をまとめております。何か必要なものがあれば、遠慮なく仰ってください。」
彼女はそう言い残し、そっと部屋を出て行った。
案内された部屋は、清潔で落ち着いた、なかなか居心地の良い空間だった。
ムシュンガの言うとおり、今日はひとまず休もう。明日になったら、海へ向かう方法を彼女に尋ねるとしよう。
日が傾くにはまだ早いというのに、不思議と眠気が襲ってきた。
翌朝、まだ陽も昇らぬうちに目が覚めた。
静かな部屋にランプの灯りをともすと、荷物の確認に取りかかる。バイエルン子爵と母上が選んでくれた品々を机の上に広げ、再配分を始めた。
干し肉や兵糧は十分にある。保存食には困らないだろう。金貨や銀貨は利用頻度を考えてタッシェに移し、残りはバックパックにしまった。
衣類や布も整理し、持ち物の全体を把握する。今後に備え、不足している物も書き出した。
王都の近くに長居するのは得策ではない。できるだけ早くこの地を離れるつもりだ。馬を手に入れれば、行動の幅も大きく広がる。
陽が昇ると同時にムシュンガのもとを訪れ、必要な品を伝えると、彼女はどれも丁寧に入手先を教えてくれた。幸い、街の中で全てそろいそうだった。
続いて、海への道を尋ねると、ムシュンガは少し表情を曇らせた。
「本来なら南西へ三日も歩けば、かつて栄えた大街道に出られるのですが...。」
そう前置きして、彼女は説明を続ける。
「その街道は確かに海へ続いています。でも、途中にあるロコアウラとタキュロンドの街が、今は内戦の戦場となっていて通れないのです。」
「なるほど、回り道が必要ですね。ありがとうございます。とにかく街道を目指し、途中で様子を見ながら進むことにします。」
私はそう言ったが、内心ではロコアウラに立ち寄ってみたいという気持ちが湧いていた。
旅の道筋も決まり、必要な品の在り処も分かった。
「ムシュンガさん、本当にお世話になりました。ここでの時間に、心から感謝しています。」
「そうですね。お気をつけてお行きなさい。またこの街に来たら、必ず立ち寄ってくださいね。」
「はい、ぜひ。」
そう言って私は、川魚の干物亭を後にした。




