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名もない冒険の物語  作者: 白雉
第二章
34/84

魔物退治

私は寮の近くにある小さな人工湖のほとりに寝そべり、頬を撫でる涼風に身を委ねながら、夜空を見上げていた。

空には赤く染まった月が静かに輝いている。星々はその鮮烈な光に遠慮するかのように、慎ましく瞬きを返していた。


そろそろニノ月が姿を現す頃合いだろうか。

今夜は、どのような姿を見せてくれるのだろう...。

一ノ月は日の入りとともに昇り、日の出とともに沈むが、ニノ月はそうではない。いつ昇るかは、決まっていないのだ。


今日は三番目の炎の月、二十三日。

この赤い月も、あと一日でその役目を終え、明後日には碧く輝く月へと移ろう。


ヴァレンディア王国の暦は、この月の色にちなんで構成されている。新年は、水の月から始まる。

「水の月には一ノ月が昇らない」と人々は言うが、それは『見えないだけ』で、本当は黒い月が夜空に浮かんでいるのだ...そんな話を耳にしたことがある。


やがて七十二日が過ぎると、碧の樹の月が空を彩り、三ヵ月後には赤い炎の月が巡ってくる。続いて黄色い地の月が現れ、最後に白く冴える風の月が夜空を照らす。

白い月が三ヵ月夜空に輝き、やがて一年が終わる。


一ヵ月は二十四日、一週間は六日。五つの月をそれぞれ三ヵ月に分け、一年は十五ヵ月。

この暦法は王国の東部では一般的だが、西方では王都と一部の貴族の都市でしか用いられていない。


西部の多くの地では、王国の暦に代わり、エルフの暦が用いられている。エルフたちの王国は、大陸で最も古く、五千年以上もの歴史を持つと言われている。


その暦では、形を変えるニノ月の満ち欠けによって日数を数える。

ニノ月は三十日かけて姿を変え、最初の一日には昇らず、二日目にはうっすらとした半円の輪郭だけが夜空に浮かぶ。

十五日かけて満ちていき、十六日目に丸い姿となり、そこから再び十五日かけて欠けてゆく。

この自然の営みに倣い、エルフの暦では一ヵ月を三十日、一年を十二か月とする。


西部では四季のはっきりとした地域が多く、それに伴って一年も春夏秋冬の四つに分けられている。

王都も例外ではなく、今は秋の只中。湖畔を囲む木々は色付き、風に舞う葉が水面に静かに落ちては、さざめく波に溶けていく。


最近、幼年学校では、ニノ月が昇るこの湖畔に魔物が現れる...そんな噂が囁かれている。


今夜、私はレオン、ロザーナ、ヴォルカノス、ラチェットと共に、魔物退治に来ていた。

私は王都での買い物を済ませ、そのまま湖畔に向かってきたため、集合時間より少し早く到着してしまった。


そして今、静かな湖畔の草の上に寝そべり、赤く染まる夜空を見上げている。


少し離れた茂みの向こうで、ざわりと葉音が立った。

私は寝そべったまま、目線だけをそちらに向ける。やがて、月明かりに照らされてラチェットとヴォルカノスの姿が現れた。


「まだ誰も来ていないみたいだな。ちょっと早すぎたかもな。」

ヴォルカノスの声が、夜気に溶けるように響く。どうやら私に気づいていないようだ。


そんな二人の様子を見ていると、いたずら心がむくむくと頭をもたげてきた。このまま静かにして、もう少し様子を見てみよう...。


「隠れて、誰か来たら驚かせてやろうぜ。」

ラチェットが声を潜めて言い、それにヴォルカノスが頷く。本気で隠れる気らしい。なるほど、面白くなってきた。


茂みに身を潜めた二人が気配を消すと、今度は寮の方から足音が聞こえてきた。

レオンとロザーナが、並んで歩いてくる。何か楽しげに笑いながら、ゆったりとした歩調で湖畔へと向かっていた。


だが、二人が茂みに近づくことはなく、少し手前で立ち止まった。

ロザーナはふとこちらに気づいたようだが、レオンが彼女の袖を引いて、そっと動かないように合図する。


レオンがちらりと私の方へ視線を向ける。私は目だけで、ヴォルカノスとラチェットが潜んでいる茂みを示すように視線を送った。


それを受け取ったレオンは、すぐさま何食わぬ顔で声を上げる。

「なんだ、まだ誰も来ていないのか。ロザーナ、どうしようか?」


「えっ?でも...」

ロザーナが何か言いかけたその瞬間、レオンがそれを遮って微笑む。


「ロザーナは、悪戯したいのかい?フフフ、それはちょっと面白いかもしれないね。」


ロザーナも、レオンの言葉の裏を感じ取ったようだ。小さく笑って、首を傾げる。

「フフ、楽しそうね。レオンには、何か面白い作戦でもあるのかしら?」


「そうだな...じゃあ、あっちの茂みに隠れて、誰かが来るのを待とうか。」

レオンが指差したのは、まさにヴォルカノスたちが潜んでいる茂みの手前だ。


ロザーナは、悪戯の火が灯った瞳で頷き、レオンと一緒にそっとその茂みの近くへと歩いていく。


だが、茂みに数歩近づいたところで、レオンが突然、左手をロザーナの前に差し出し、彼女の動きを止めた。


「待って、あの茂み...何か潜んでる。」


鋭い目つきで、ヴォルカノスたちの隠れている方向を見据える。


「えっ?何?誰かいるの...?」

ロザーナも少し驚いたように声を潜める。


「もしかしたら、噂の魔物かもしれないね。よし、ここは一つ...あぶり出してみよう。」


ロザーナの問いかけに、レオンはすぐに判断を下し、淡々と魔法の詠唱を始めた。


その声に焦ったのか、茂みの中から慌てて二人の人影が飛び出してくる。

「お、おいおいレオン!俺だってば、ラチェットだよ!ヴォルカノスも一緒だ!魔物じゃない、魔法は止めてくれ!」


ロザーナが目を丸くしながら、問いかける。

「なんだ、ラチェットとヴォルカノスだったの?いったい何してたのよ?」


苦笑いを浮かべながら、ヴォルカノスがあっさりと白状する。

「実はな、誰か来たら驚かそうって茂みに隠れてたんだよ。でもまさか、逆に驚かされるとはな...。」


「悪だくみするから返り討ちに遭うのよ。」

ロザーナが呆れたように言うと、ラチェットが少し反論するように言い返した。

「ちょっとしたイタズラじゃないか!」


そのやりとりの横で、レオンはしれっと笑いながら、二人を湖畔の方へと誘導する。ラチェットとヴォルカノスは、まだ私がすぐ近くにいることに気づいていない。

二人の足音が私のすぐ目前まで迫ったその瞬間、私は静かに手を伸ばし、鞘に納めた剣をつかんだ。そして、タイミングを見計らって...

「コツン」と、控えめに、だが確実に二人の脛を叩いた。


「いだーーーーーっ!!」

ラチェットは思い切り蹲り、悲鳴を上げる。ヴォルカノスは無言のまま、その場に膝をついて顔をしかめていた。


「あははははっ!悪戯をしようと企んだ報いってやつね。しかも見事に痛そうな場所に、あはははは!」

ロザーナは腹を抱えて笑い転げている。


「ぐぅっ、なんだよランス、お前もグルだったのか?いつからそこにいたんだよ...」

脛を押さえながら、ヴォルカノスが悔しそうに言った。


「ハハハ、君たちが来るずっと前から空を見ながらのんびりしてたんだよ。でもね、君たちが面白そうな相談を始めたから、ちょっと静観してみたってわけさ。

 そしたらレオンがこっちに気づいて、目で合図してきてね。待っていたら君たちの脛が私の前に移動してきたんだよ。」


「くそっ、やっぱりレオンの企みかよ。あの一瞬でそこまでの展開を思いついたのか?」

ラチェットがレオンに顔を向ける。


「まあ大体はね。あとはみんなが想像通りに動いてくれた。それに、足元と頭上は普段意識しない場所だから、死角になりやすいってことがよく分かったよ。」


そのとき、ロザーナがふと夜空を見上げて呟いた。

「そろそろ、ニノ月が昇ってくるわよ。」


場の空気がふっと引き締まった。悪戯の余韻が霧散し、全員の意識が夜の闇へと向かっていく。


丁度そのとき、湖面の彼方に何かが現れた。

それは音もなく、滑るようにこちらへ向かってくる。


姿がはっきりした瞬間、全員が息を呑んだ。

ボロボロの高貴な装束を纏い、肉の落ちた骸骨の姿。半透明の体がぼんやりと発光している。まるで現実のものとは思えなかった。


「まさか...レイスか?!」

突然、レオンが叫んだ。

「逃げろ!あれは我々で倒せる相手じゃない!地面に気をつけろ、アンデッドが地中から現れる!」


その警告とほぼ同時に、地面のあちこちが割れ、腐敗した腕や白骨化した指が土をかき分けて姿を現す。

スケルトン、ゾンビ...地の底から湧き出る亡者たちが次々と立ち上がってきた。


「わかった、レオン!全員撤退だ!私は殿を務める!ヴォルカノスとラチェットは退路を切り開いてくれ!」

私の号令に、二人が力強く頷き、それぞれの武器を振るってアンデッドの群れを薙ぎ払っていく。


森を抜けて学校へ戻るには危険が多すぎる。木々の影は深く、あの霧のようなレイスの姿を見失う恐れもある。

ヴォルカノスとラチェットも同じ判断に至ったのだろう、街道の方へと向かいながら戦い、道を開いている。


私はレイスから目を逸らさず、祖父から拝領した剣を抜いた。


その背後では、ロザーナが冷静に短剣を構え、迫りくるゾンビを正確に捌いている。

レオンが、私に向けて叫ぶ。

「ランス!レイスには通常の武器は通じない!剣では傷一つつけられんぞ!」


レオンの警告は正しい。だが...この剣は違う。


私はレイスの動きを見つめ、静かに後退した。レイスは宙に滑るように近づき、音もなく間合いを詰めてくる。

そして、唐突に右腕を高く振り上げたかと思うと、黒い爪のついたその腕を一気に振り下ろしてきた。


私は、振り下ろされる腕を下から斬り上げた。ミスリルの刃が重々しい感触と共に骨を裂く感覚を伝えた。


レイスが甲高く、耳を裂くような叫び声を上げる。亡者の怒りと悲しみがこもっていた。


ロザーナがその悲鳴に思わず身をすくめる。彼女のもとにはヴォルカノスとラチェットが駆け寄り、迫るアンデッドを剣でなぎ払っていた。


レイスは私を睨みつけ、間合いを計りつつ、再び咆哮を上げた。その声は先ほどよりも鋭く、意識を刈り取ろうとするような不快な音だった。

一瞬、私は身を竦める。その隙を逃さず、レイスが空に舞い上がり、左腕を大きく振りかぶって襲いかかってきた。


後方へ跳ねるように飛び退く。長く伸びた爪が私の前髪を掠めた。その瞬間、私は身を翻し、レイスの胴体へ横一文字に斬りかかる。

切り裂かれた箇所から白く淡い煙が立ち上る。


地面で身を翻したレイスは、今度は右腕で突き上げてきたが、私は半歩右へ身をずらし、その腕をかわすと、すかさず踏み込んで頭部を狙い、剣を振り下ろす。


レイスも素早く身を捻ったが、ミスリルの刃は確かに左頬を掠め、浅い傷を刻んだ。白煙が再び上がる。

レイスはしばらくその場に留まり、私を睨み続けていたが、次の瞬間、身体を翻すと湖の方へ滑るように飛び去っていった。


残ったアンデッドをすべて倒し終えると、私たちはロザーナのもとに集まり、その様子を確認した。

彼女はまだ地面に膝をつき、呼吸が浅い。レオンが低く何かを呟きながら手をかざすと、彼の掌から微かに光が溢れた。

その光がロザーナを包むように流れ込むと、彼女の表情に次第に生気が戻ってきた。


「...ありがとう、レオン。あなた、魔法も使えるのね...」

ロザーナはゆっくりと立ち上がり、少しふらつきながらも私たちを見回し、続けた。

「ヴォルカノス、ラチェット、本当にありがとう。あの時、そばにいてくれて、怖かったけど、心強かったわ。」


そして、私に向き直ると、真剣な瞳で問う。

「ランス、あなたのその剣...あれは一体何なの?」


私は静かに剣を鞘に納めながら答えた。

「これは、昨年入学の祝いに、お祖父様からいただいた剣なんだ。ミスリル製で、軽くて強いだけじゃなく...何か、特別な力があるのかもしれない。」


「なるほど、だから、あのレイスに傷を負わせられたのね。ありがとう、ランス。あなたは命の恩人よ。君がいなければ、私たちは誰も帰れなかったわ。」


ロザーナの言葉に続き、レオンも頷きながら言った。

「本当に...君がいてくれて、良かった。今回は命拾いしたよ。」


その言葉に、ラチェットとヴォルカノスもそれぞれ短く頭を下げた。

「ありがとう、ランス。」

「お前があそこで食い止めてなかったら...やばかったよ、本当に。」


私は皆に目を向けて言った。

「みんながいてくれたから、私も戦えたんだよ。レイスに集中できたのは、みんなが周囲のアンデッドを引き受けてくれたから。

 勝てたわけじゃないけど、誰一人欠けずに帰ることができる。それが何よりだよ。」


ヴォルカノスは照れ隠しのように目をそらし、ラチェットはにやりと笑う。

そして私たちは、夜空の下、再び昇り始めたニノ月を見上げた。

赤い月光が静かに湖面に揺れ、今しがたの死闘が夢の中の出来事のように感じられた。


「しかし、あんな場所にレイスが現れるとは...。学校で囁かれていた噂も、まんざら嘘じゃなかったということか。」

レオンが湖を一瞥しながら静かに呟いた。

「王都に戻って、きちんと報告した方が良さそうだ。あのまま放置しておくには、あまりに危険すぎる。」


皆が真剣な面持ちで頷き合い、私たちは湖畔を後にした。

歩き出した足元には落ち葉が積もり、東の空には細く鋭いニノ月が、剣の刃のように静かに昇っていた。


王都に戻ったのはすでに深夜だったが、私たちはすぐさま騎士団の詰め所へと向かった。衛兵に事情を話すと、予想外にも中へ通されることになった。


数分も経たぬうちに、鎧姿の人物がゆっくりと歩いて現れた。

銀灰色の髪と威厳をまとった佇まい、王国騎士団長、ザモーラ・アイゼン・リヒター伯爵その人であった。


「ほう...君たちがその報告者か。」

鋭い視線が私たちを順番に見渡した後、伯爵は静かに椅子に腰を下ろした。

「レイスが現れた、ということだが...よくぞ無事に戻ってきたな。君たちはまだ、幼年学校の生徒なのだろう?」


私たちは落ち着いて事の顛末を報告した。

魔物が現れた経緯、戦闘の様子、そして撤退の判断まで、順に語ると、伯爵は腕を組み、しばし沈黙した後、こちらを見て言った。


「なるほど。君がイセリオン公爵家の長男、ランスロット君か。噂は王都中に届いているよ。こうして顔を合わせるのは初めてだが、なるほどな...。」


そう言って、伯爵はふっと笑みを浮かべた。

「実に面白い。卒業したら、我が騎士団に来るといい。いや、これは冗談だよ、気を悪くしないでくれ。」


私は曖昧に微笑むだけだったが、伯爵は気にする風もなく、真剣な口調に戻った。

「冗談はさておき、報告に感謝する。レイスが出たとなれば、これは見過ごせない。我ら騎士団で迅速に対応しよう。

 ただし、君たちも今後は不用意に動かず、慎重に行動してくれ。才ある者ほど、命を落とすのは早いからな。」


私たちは一礼し、伯爵に感謝を述べて詰め所を後にした。


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