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名もない冒険の物語  作者: 白雉
第一章
17/84

未知との遭遇

数日が経ち、海の上で過ごす日々には、不思議な穏やかさが流れていた。

時折、風が帆を優しく揺らし、船の後ろでは小さなしぶきがリズムよく跳ねている。頭上では太陽が柔らかく輝き、光の粒が波間に踊っていた。


リルとハウルは魔法の本を広げ、時に笑い合い、時に真剣な表情で呪文の反復練習をしている。

二人は波を使った初歩の魔法を通して、マナの扱いに少しずつ慣れてきていた。


本を読み終えたアデルには、私が回復魔法の基礎を教えている。

彼女は呪文を何度も繰り返し、細かい動きや言葉の抑揚にまで気を配りながら、着実にその力を自分のものにしようとしていた。


ソニアはといえば、風の魔法を応用して、航行に活かす方法を模索している。

舵を握る手に風の流れを重ねるように、試行錯誤を繰り返しては微笑み、時折は声を上げて失敗を悔しがっていた。


波の音と帆のはためきだけが響く静かな船上に、今日もゆっくりと、一日が流れていくのだった。


西の空が夕焼けの色に染まると、全員の視線が西の空に向けられる。このひと時は、何度見ても美しいと思う。

皆も同じ思いなのだろう。リルはため息をついている。

夕焼けから東の空へと移り変わる夜へのグラデーションを目で追うと、東の水平線の一部がやや明るみを増し、二ノ月が昇る気配が感じられた。


と、その時だった。ふと、違和感が胸をよぎる。

視界の端に映る水平線が、どこかおかしい。輪郭がぼんやりとして、いつもより霞んで見える...。


目を凝らすと、東の空一帯が、まるでヴェールをかけたようにぼやけている。空と海の境界が曖昧になり、白いもやがゆっくりと広がってくるのが分かる。

「皆、霧が出てきたみたいだ。」


「えっ?この辺りで、こんな時間に霧なんて、聞いたことがないよ!」

ソニアが驚いたように声を上げる。


その間にも、霧は瞬く間に船を包み込み、辺り一面が真っ白になる。見慣れた空も、海も、仲間たちの姿すらも、白の中に溶けていく。


「気味の悪い霧ですわね...」

「どのみち、この視界じゃ、方向も距離もさっぱり分からないな。」

アデルとハウルが続けて声を上げた。


「この霧の中を、このまま進むのは危険ですね。」

私はそう言うと、片手を口元に近づけ、静かに息を吹きかけた。


すると、掌をすり抜けた風がぐるぐると旋回し始め、やがて暴風となって前方へと吹き抜けた。

風が霧を切り裂き、白のヴェールに空いた穴から、わずかに先の景色が姿を現す。


「なにこれ...すごい風!ルヴィ、これも魔法なの?」

リルが目を丸くして私に尋ねる。私は黙って頷いた。

そのとき、ソニアが悲鳴のような声を上げる。


「左から...なにこれ!?船!?逃げなきゃ!!」


私たちは一斉に左舷へと視線を向けた。

霧の切れ間から、巨大な船の船首が現れる。鉄で覆われたそれは、牙を剥いた獣のように鋭く、まるでこちらに体当たりしようとしているかのようだ。


「...海賊、か?」

ハウルが低くつぶやく。

誰も、すぐに答えることはできなかった。


先ほどの霧にタイミングを合わせて襲ってきたと考えるより、霧をまとって襲ってきたと考えるべきだろう。

そうなると、かなりの魔力を持った魔法使いが乗っていると考えた方が良い。それも、一人ではなく複数かもしれない。


私は改めて、巨大な船の甲板に目を向ける。しかし、そこには人影が一切見えない。不気味なほど静まり返っている。


今はまず、衝突を回避することが最優先だ。私たちの命を預けるのは、ソニアの操船技術だ。


舵を握るソニアは、すでに冷静に判断していた。帆と舵を同時に操り、進行方向を大きく右へと旋回していく。

おそらく、真正面をすり抜けるのは危険だと見たのだろう。


船は見事に敵船の船首をかわし、並走する形に持ち込む。


だが、ここで振り切れるかどうかはわからない。案の定、敵の船もこちらに舵を切り、じわじわと距離を詰めてきた。


それでも、こちらの小型船の方が機動力はある。ソニアは右、さらに右と操り続けている。

気付けば、進路はデネリフェ島の方角へ戻りつつあった。


それにしても...何だろう、この違和感は?

霧を発生させてまで接近してきたはずのあの船。だがその後は、攻撃してくる気配がない。ただ追ってくるだけ。


私はもう一度、敵船の甲板を見上げた。やはり、人影は見えない。これは本当に人の手で動いているのだろうか?もしかして魔法で動いているのでは...?


そのときだった。

「...なぁ、何か変な音がしないか?」

ハウルが不安げに声を上げた。


確かに、先ほどから耳にしていた。

木材が軋むような...いや、何かが崩れ、砕けていくような音。しかも、一つではない。複数の破壊音が重なり合っている。


「音が...どんどん大きく、激しくなってるわよ。」

リルもその異音に気付き、眉をひそめた。


「たぶんだけど...あの船の、どこかが壊れてるんじゃないかな?」

ソニアが舵を握ったまま、口にした。


明らかに、巨大な船の船腹側からだ。


「ソニア、もしかすると...この辺りに島があるのではありませんか?」

「島ならいくつかあるよ。でも、どれも小さな無人島のはずだけど...」

ソニアが舵を握りながら、少し訝しげに答えた。


「...その無人島に、何か『仕掛け』があるのでは?」


言い終えるか否か、唐突に大きな船の側面が爆ぜた。そして次の瞬間、白く巨大な『何か』が、うねるようにこちらへと迫ってきた。

私はすかさず魔法の障壁を展開し、その一撃を防ぐ。


「な、なにあれ...!?」

リルの悲鳴のような声が上がる。


「まだこっちに来るよ!あれ、イカの足みたい...えっ!?船の中から出てきたの?」

その動きに、ソニアが舵を握ったまま目を見張る。


「大きなイカって、もしかしてクラーケン?!」

リルが青ざめながら呟いたが、すぐにハウルが首を振る。


「いや、そんな魔物が内海にいるなんて聞いたことない...」

確かに私も、あのサイズの魔物がこの狭い中海に現れるとは考えにくい。


その時、ソニアが再び舵を切る。今度は船尾を目指して進路を変えている。


私たちの船を追い詰めるようにうねる触手、それは、あくまでもこちらを誘導しているように見える。


「リル、ハウル、ソニアの操船を補助してください。櫓で推進力を加えましょう。

 アデル、オケアニスさんから頂いた宝貝を...この状況を打開する鍵になるかもしれません。あの船尾の近くに投げてください。」


リルとハウルは即座に動き、両舷で櫓を取って漕ぎ出す。

アデルも静かにうなずき、掌に宝貝をのせると、狙いを定め、風を切って、船尾へと投げ放った。


宝貝が月明かりをかすかに反射しながら宙を舞い、船尾の影へと吸い込まれていく。


私はクラーケンの触手のようなものに集中し、魔法で攻撃を受けつつ、けん制の魔法を繰り出し、船に近づけないように尽力する。


「見えたよ!」

ソニアが叫ぶ。

「島だ!小さいけど...でも、島の周りに、船の残骸がいっぱい浮かんでる!こんな中、船で近づくのは危ない!」


夜のとばりがすでに下りているが、ソニアの目は暗がりにも強い。


そのとき、前を見ていたソニアが驚きの声を上げた。

「うわっ、なにこれ!?気持ち悪い...島から船が生えてるみたい...ルヴィ、これって何なの?」


「ソニア、もしこの大きな船が島と接しているのなら、その側を避けて、島の反対側に回り込めば、上陸できる可能性があります。」

「任せて。島の裏側に回ってみるよ。」


「ルヴィ、何かわかったのですか?」

アデルが櫓を漕ぎながら、こちらに顔を向けて訊ねてくる。


「確信はありませんが...」

私は慎重に言葉を選びながら続けた。

「大きな船も、あのクラーケンのような触手も、どうやら魔法で動いているように見えます。ですが、通常の魔法とは何か違う...。

 その答えは、島にあるかもしれません。そして...オケアニスさんも、何かを知っているような気がするのです。」


ソニアが指摘した『船が生えている』場所から距離を取ると、触手のような動きは徐々に遠ざかり、やがて届かなくなった。

その後も、時折小さなモンスターが海中から現れたが、魔法で対処できる程度で済んだ。


「島の裏側に接岸できそうな場所があったら、注意しながら上陸しましょう。」


「ルヴィ、上陸するの?クラーケンがいるかもしれないんじゃないの?危なくない?」

リルが不安げに大きな声を上げた。


「リル、心配しなくても大丈夫です。もしクラーケンがこの内海にいたなら、オケアニスさんが注意してくれていたはずです。」


「ルヴィ、あそこに上陸できそうな場所があるよ。どうする?」

ソニアが指差した先には、岩場の合間にぽっかりと小さな砂浜が広がっていた。

白い砂が波に濡れてきらめいている。船底を傷つける心配もなく、うまく接岸できそうだ。


「はい、あそこなら大丈夫そうですね。できるだけ岸に寄せて、船底が砂についたら歩いて上陸しましょう。

 島で安全が確認できれば、今夜は島で明かした方が良いかもしれない。」

そう言うと、リルがすぐさま反応した。


「えっ、こんな怪しい島で夜を明かすの?クラーケンがいるかもしれないのに、大丈夫なの?」

リルの声には、少し震えも混じっていた。


そんな彼女に、アデルが落ち着いた声で答える。

「リル、さっきルヴィが言ってたじゃない。クラーケンはいないって。それに、本当はイカやタコが苦手なだけなのではなくて?」

アデルの軽口に、ソニアが吹き出す。


「リル、もしかしてイカとかタコが嫌いなの?」

「嫌いよ!あのぐにゃぐにゃ、うねうね動くのが気持ち悪いのよ!」


その答えに、ハウルが耐えきれず吹き出した。釣られて、みんなの顔にも自然と笑みが広がった。緊張が少しだけ和らぎ、場の空気がほぐれていくのを感じた。


ソニアは舵を細やかに操りながら、慎重に船を砂浜へと近づけていく。リルとハウルは船の縁に立ち、警戒を怠らず周囲に目を光らせる。

私は背後の海を見張り、アデルは全体の動きを静かに見守っている。気づけば、私たちの呼吸はぴったりと揃っていた。


船が音もなく砂に乗り上げ、静止した。すぐにリルとハウルが飛び降り、周囲の安全を確認する。

私とアデルも続き、最後にソニアが船内を片付け、とも綱を引きながら砂浜に降り立った。柔らかな砂が足元に沈み、遠くの波音が静かに響いていた。


「みんな、船をしっかり砂の上に固定したいの。だから、この綱を引っ張ってもらえる?」

ソニアの呼びかけに、私たちはすぐに動いた。五人で綱を握り、息を合わせて引くと、船は砂に深く乗り上げ、右側にわずかに傾いた。


ソニアはその様子を確認すると、とも綱を近くの岩にしっかりと結びつけた。

そして、ようやく張り詰めていた糸が緩んだように、私の方へふらふらと歩いてきて、私の目の前に腰を下ろした。

乾いた笑みを浮かべながら、小さな声で問いかける。

「ルヴィ、さっきの...いったい何だったの?」


その問いに、私が口を開こうとしたとき...

「ちょうどいいタイミングでオケアニスさんたちも来てくれたみたいだし、一度みんなで情報を整理しよう。」

私がそう言って視線を船の方に向けると、波の音の向こう、月明かりの下に数人の人影が見えた。

海の中から現れたそれらは、静かに砂浜を歩いてこちらへ向かってくる。


そのころ、周囲を見張っていたハウルとリルが戻ってきた。

「このあたりにモンスターの気配はなさそうだよ。しばらくは安心できそうだ。」

リルが簡潔に報告すると、ハウルとともに持ち帰った流木や小枝を手早く組んで火を起こし始めた。


やがて赤々とした炎が砂浜に灯る。風に揺れる炎が、暗がりの中にいた人影をやわらかく照らし出す。


光の中に、次第に姿を現す十三人のセイレーンたち。月明かりと焚き火の光に照らされた彼らの顔が、ようやくはっきりと見えた。


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