海のモンスター
東の空が淡く明るみを帯び始めると同時に、これまで闇に沈んでいた海面が、少しずつその青さを取り戻していった。
空には雲ひとつなく、夜の静けさが薄れ、ゆっくりと朝の気配が広がっていく。
私はアデルと並び、移ろう空と海の色を見つめていた。
朝日が昇る直前、、楼からソニアが眠そうな目をこすりながら出てきた。
「ソニア、おはようございます。早いですね、まだゆっくり休んでいてもいいのですよ。」
「こんな遅くまで寝ていたら、お父様に叱られて、また洞穴に閉じ込められちゃうよ。あそこは狭いから嫌なんだ。」
それを聞いてアデルがやわらかく微笑んだ。
「そうですわね。ソニアと最初にお会いしたときも、洞穴から出てきたところでしたものね。」
ソニアは少し困ったような、でも照れくさそうな表情を浮かべ、アデルの言葉に軽く肩をすくめる。
ちょうどその時、朝日が昇り始めた。眩しさに目を細め、手で光を遮る。日の光に照らされた身体が、暖かさで満たされていく。
「今日もいい天気になりそうね。」
リルが声をかけてきた。周りが騒がしかったのだろう、ハウルも目を覚ました。
「おはよう、みんな。騒がしいけど、何かあったの?」
「おはようございます、ハウル。いえ、特別なことは何も。ただ、ちょうど朝日が昇ったところです。まだ少し休んでいても大丈夫ですよ。」
私がそう伝えると、ハウルは肩をすくめて笑った。
「みんなが起きてるのに、俺だけ寝てたら、あとで話についていけなくなっちゃうじゃないか。」
その返しに、皆がくすりと笑った。柔らかい笑い声が、朝の静けさをやさしく彩っていく。
保存食で簡単な朝食を済ませた後、リルはすぐに海へと向き直り、魔法の詠唱を始めた。
昨日はほんのさざ波しか起こせなかったはずなのに、今では小さな波をリズムよく生み出し、まるでそれを手のひらで弄ぶように自在に操っている。
なるほど...リルが夜の見張りで私とアデルを二人きりにしたのは、こっそり魔法の練習をしたかったからなのか。
ようやく、その意図に気がついて、心の中でひとり微笑んだ。
ソニアもハウルも、それぞれ自分の波を起こせるようになってきている。魔法の修行は、ようやく第一歩を踏み出したばかりだ。
大陸まで時間は十分にある。波をコントロールすることでマナの扱いに慣れ、精度を高めれば、様々な魔法を自在に扱えるようになる。
地味な方法だが、それに集中できるリルには、魔法の才能があるのかもしれない。
アデルも時々練習をしているが、リルよりも進んでおり、波を自在にコントロールしている。
一方、ソニアはやはり魔法よりも船を操ることの方が好きなようだ。
ハウルは新しいことに興味があるのか、魔法の本を開き、真剣な面持ちで読みふけっている。
それぞれが自分のスタイルで、船の旅を楽しんでいた。五人のうち、船酔いをする者もおらず、快適な航海だと言えるだろう。
昼を少し過ぎた頃だった。何かに気づいたようで、ソニアが急に帆の向こうを見つめ、声をひそめるように呼びかけてきた。
「ねぇみんな、あっちから何か来るんだけど...。」
指さす先は、進行方向の左側、ほぼ真北にあたる方角だった。
私たちは皆、視線を向けたが、何も見えない。だが、ソニアの言うことなら、きっと何かがあるのだろう。
しばらくして、ソニアが少し強張った声で言った。
「あれは...モンスターたちだと思う。普段乗ってる船なら振り切れるけど、この船じゃ難しいかも。避けられなければ、戦うしかない。みんな、大丈夫かな?」
その言葉に応じるかのように、遠くの海面に微かな波立ちが見え始めた。範囲が広い。どうやら、数がかなり多いらしい。
「大丈夫です。北の中海に出没するモンスターで、私たちが太刀打ちできない相手はいません。数が多いとしても、恐れることはありません。」
モンスターの群れが船に迫ってくると、ソニアが指示を出す。
「アデルとリルは船の中央に!前方から中央左はルヴィとハウルに任せるね。後方は僕が何とかする!」
ハウルと私は力強く返事をし、私は船の中央左に構え、ハウルはすばやく前方へと移動した。
「わたしだって!」
飛び出そうとするリルを、アデルが抱きしめて止めた。
私は魔法で迫るモンスターを次々に倒していく、ハウルは船に乗り上げようとするモンスターを切り落とす。
後方に迫るモンスターは、ソニアが左手で舵を操りながら、右手に持った短剣で切り裂いていく。
アデルが何かを呟いているが、聞き取れない。群れはかなり大きく、倒してもキリがない。
突然、アデルが両手を空に向け、大声で叫んだ。
「...集いしいかづちの子らよ、私と誓いし契約に基づき、我らの敵を撃ち滅ぼしたまえ!!」
次の瞬間、船の周りが暗くなり、雷鳴がとどろく。青白い稲光が船を取り巻くように走り、モンスターたちの頭上へ怒りのごとく落ちていった。
私は驚き、アデルの元に駆け寄り声をかけた。
「アデル!大丈夫ですか?身体に異常はありませんか?手足の感覚や意識は?」
「どうしたんだ?ルヴィ。アデルは何も変わらないじゃないか?」
ハウルが私の態度に驚いた様子で近づいてきた。
「そうだよルヴィ、モンスターは全滅しちゃったけど、アデルに何かあったの?」
ソニアも不安そうな表情を浮かべながら私の隣に立った。
私は皆に向き直って説明した。
「魔法には、学ぶべき順序というものがあります。
今のように周囲のマナに直接干渉するような大規模な魔法は、術者の身体に強い負荷を与えることがあるのです。ですので魔法を学ぶときは...」
「順序を守って、自分の力量を確認しながら、少しずつ高度な魔法を習得していく...ですね。」
アデルが、私の言葉を落ち着いた声で引き継いだ。
「そこまで理解しているのですね。しかし...今の魔法は、あの本の中では、かなり後半に出てくる魔法だったと記憶していますが...。」
私の問いに、アデルは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「先日、ソニアに出会った日、ちょうどその部分を読み終えたところだったのです。そして、魔法を試すために外に出たら、ルヴィがいらっしゃって...。」
「そうだったのですか。では、先ほどの魔法もすでに使用したことがあったのですか?」
「いえ、条件を満たしているか確認はしたのですが...使用したのは今が初めてでした...ごめんなさい。」
私は一瞬言葉を失い、そして静かに頷いた。
「いえ、謝ることはありません。アデルは、私が考えていたより、はるかにしっかりしているのですね。おかげで、もっと時間がかかると思っていた戦いが、あっという間に終わってしまいました。」
その落ち着いたやり取りを、ふいにリルが切り崩した。
「お姉様、ひどいわ!一人でこっそり練習してたなんて、私も誘ってくれてもよかったのに...!」
「ごめんなさいね。でも、リルはいつも気持ちよさそうに寝ているから、起こせなかったのよ。」
「そりゃそうだよね。リルが寝た後に本を借りて読んでいたんだから、起こせないよね、ハハハハハ。」
ハウルの冗談に、皆の表情がふっと和らいだ。
「リルも、今朝みたいに真剣に取り組んでいれば、すぐに追いつけると思いますわ。」
「そうですね。この本には、誰でも使える範囲の魔法しか書かれていませんから、努力を続ければアデルに追いつけるはずです。」
アデルと私がリルを励ましていると、リルがふと疑問を口にした。
「でも、ルヴィは詠唱なしで魔法を使ってるわよね。どうしてそんなことができるの?」
「そうですね。大事なのは、マナの扱い方を覚えることです。スペルは決まった言葉ではなく、マナを扱いやすいように言葉を当てはめているだけなのです。
マナをどう動かすかという感覚さえ掴めば、言葉に頼らずとも魔法は発動できるのですよ。」
「そんなの、簡単にできることじゃないでしょ?ルヴィ、ものすごく練習したの?」
「...記憶には残っていませんが、きっと、そうだったのでしょうね。」
「やっぱりルヴィってすごいのね。」
「リルは今さら気付いたのか...オレなんか、出会ってすぐにルヴィの凄さに気付いたよ。」
「だって、あの時ルヴィは迷子だったんだもの。そんな凄い人だとは思わないじゃない。」
「私はそんなに凄い人物ではありませんよ。記憶がないので分かりませんが、きっと頑張って練習をしてきたのでしょう。
それよりも、ソニアの方がすごいと思いましたよ。左手で舵を操りながら、右手だけでモンスターを対処していたのですから。」
「えっ?僕なんか全然だよ。いつもお父様に叱られてばかりだし、あの雷の魔法でモンスターを一掃しちゃったアデルの方がよっぽどすごいじゃないか。」
「フフフ、皆さん謙虚ですね。このまま話していくと、皆が素晴らしいと再認識できそうですね。それより、先ほどからお客様が話の終わりをお待ちになっていますわ。」
アデルの視線を追って目を向けると、海面から肩まで姿を現した男性が、静かにこちらを窺っていた。
波間にゆらめくその姿に、ソニアとハウル、リルは言葉を失い、その場で固まってしまう。
私はひと呼吸おいて、丁寧に一礼した。
「これは失礼いたしました。私はルードヴィヒと申します。こちらの皆は...」
名乗りながら皆を順に紹介していくと、男性は軽く笑みを浮かべて頷いた。
「僕のほうこそ、いきなりで驚かせてしまって申し訳ない。僕はオケアニス。見ての通りセイレーンだよ。
実は...さっきのモンスターたちに追われていてね。この船を見つけたときは、本当に助かった。ありがとう。」
「そうでしたか。あれほどのモンスターの大群に遭遇するとは...この中海も、想像以上に危険な場所なのですね。」
「そうなんだ。この中海にモンスターが増えていると聞いて調査に来たら、突然モンスターの群れに遭遇してしまってね。
街に戻ってこのことを報告し、改めて人手を集めて調査するつもりだ。何かあったら、君たちにも力を借りたいと思っているんだが...。」
「そうですね、もう少し大人になってからでしょうかね。」
「そのようだね。皆はどこに住んでいるのかな?」
「私たちはデネリフェ島に住んでいます。東沿岸にあるクレスという漁村をご存じですか?ソニアはその村の出身なんです。」
「クレスか。いい村だと聞いてるよ。漁師たちは腕がいいし、海の扱いにも長けている。その村のお嬢様なら、なるほど納得だ。」
ようやく我に返ったソニアが、ぎこちないながらも丁寧に挨拶をした。
「ぼ、僕がソニアです。お、お嬢様なんて、僕は...でも、お父様たちは良い漁師だと思います。」
「まだ少し驚いているようだね。無理もないさ。僕たちセイレーンは、普段あまり人の船に近づかないからね。
君たちが大きくなるのを楽しみにしているよ。このタカラガイを渡しておこう。僕らの仲間と出会ったら、この貝を見せれば分かるようにしておくよ。」
そう言って、オケアニスは掌を開き、小さな指先ほどの貝殻を五つ差し出した。淡い虹色の輝きを放つそれは、どこか神秘的な雰囲気をまとっている。
優しく微笑んだ彼は、海の方へと向き直ると、静かに波間へ身を沈めていった。




