船の上の少年
空は晴れ渡り、いくつかの雲がゆったりと浮かんでいた。左手には、果てしなく広がる海。波が静かに寄せては返し、陽光を受けてさざ波が銀色にきらめいている。
その光景に見入っていると、リルがぽつりと呟いた。
「本当に、この海の先に大陸があるの?」
その言葉に、誰もが同じ思いを抱いていることを感じた。確かに、目の前には空と海しかなく、水平線だけがその境を示している。
他には何も見えない。ただ、永遠に海が続いているような錯覚さえ覚える。
しかし、ここは北の中海で外海ですらない。群島に囲まれた内海の一つなのだ。
それでも、世界の広さが静かに胸に押し寄せてくる。言葉を失うとは、こういう瞬間のことだ。
しばらくの静寂のあと、アデルが穏やかな声で言った。
「私は、初めて街を出たとき、祝福の森に足を踏み入れたとき、いくつもの場面で胸が高鳴ったのを覚えています。
でも、今感じているこの気持ちは、それらすべてがまるで小さな出来事だったと思えるほどの高鳴りです。
お母様が『行ってらっしゃい』と送り出してくださった本当の意味を、今ようやく実感しています。」
その言葉に応えるように、ハウルも続けた。
「アデルの言う通りだ!なぜ親父が、オレにルヴィと一緒に行けって言ったのか...今、少しわかった気がする。
さっきまでは、これから旅が始まるんだって思ってただけだったけど、今はそれを体の全部で感じてる。ルヴィ、お前はどうなんだい?」
ハウルの問いに、私は少しだけ視線を遠くに向けてから答えた。
「私は二人のように、上手く言葉にできないほど心がいっぱいです。
ここがデネリフェ島で、目の前に広がっているのが北の中海だということは、知識として理解しています。
でも、実際にこの景色を見て、潮の香りに包まれて、波の音を聞いて...ハウルの言う通り、全身で感じているのです。これが冒険というものなのですね。」
そう言うと、リルが少し拗ねたように、唇を尖らせて言った。
「三人とも、お話が上手ね。わたしなんか『スゴイ』って言葉しか出てこないわ。」
その言葉に、ハウルがまた笑いながら返す。
「でも、それで十分だよ、リル。いろんな言葉を並べても、結局『スゴイ』って言葉に行き着くんだ。」
旅はまだ始まったばかり。海を初めて見ただけ、それだけなのに、これほどまでに心が動くのだ。
この旅を終えて戻ってきたとき、私たちはどれだけ成長しているのだろう。
そう思ったとき、私ははっきりと確信していた。この旅を始めたことは、決して間違いではなかったのだと。
私たちのそんな思いを知ってか知らずか、リッキとライズは、変わらぬリズムで蹄を進め、私たちをその先の冒険へと連れていくのだった。
海を眺めながら馬車を進めていくと、やがて小さな漁村が現れた。
馬車を停め、村の人に声をかけて宿があるか尋ねてみたが、この村には宿泊できる場所はないという。
ただし、少し先にある次の漁村には宿があるかもしれないと、親切に教えてくれた。私たちは丁寧に礼を言い、再び馬車を走らせた。
太陽は徐々に傾き始め、空が茜色に染まりかけたころ、ようやく次の村に到着した。
村に入って再び宿を尋ねると、海辺の小高い崖の上に一軒だけ宿があると教えられた。
その案内に感謝しながら、私たちは馬車をその崖の上へと向かわせた。
潮風にさらされながらも、どこか温もりを感じさせるその宿に、私たちは馬車を停めた。
馬車を降り、玄関の扉を開けると、年配の女性がゆっくりと奥から出てきた。
「おや、お客さんかい。ようこそ、こんな辺鄙な場所へ。旅の方かい?」
優しげな声とともに、その女性は微笑みかけてきた。
「ええ、そうです。こちらで一晩、泊めていただけますか?」
「もちろんですとも。私はこの宿の主人、カエラ・ブラッキオといいます。食事を用意しますから、それまでゆっくりしていってくださいな。」
カエラの言葉は、どこか懐かしさを感じさせる響きだった。
宿屋の中は古風で、落ち着いた雰囲気が漂っていた。木の温もりが優しく空間を包み込み、旅の疲れをそっと癒してくれるようだった。
「厩は自由に使っていいですよ。お部屋は奥にありますから、荷物を置いて少し休んでおいで。夕食の時間になったら声を掛けますからね。」
そう言って、宿の女主人カエラは微笑みながら厨房の奥へと姿を消した。
私は馬車に戻り、ハウルと一緒にリッキとライズの馬具を外した。そのまま厩へと連れて行くと、そこでは既にアデルとリルが飼葉の準備をしてくれていた。
四人で並び、大きな馬体をそれぞれ優しく拭っていく。
リッキもライズも気持ちよさそうに鼻を鳴らし、ゆっくりと瞬きをしていた。
リッキとライズをねぎらうと、カエラの言葉通りに荷物を部屋へ運び入れ、それぞれの時間を過ごすことにした。
私は窓際に腰掛け、静かに広がる海を眺めていた。今日一日の出来事が、穏やかに心を満たしていく。
しばらくすると、カエラが夕食の準備が整ったと知らせに来てくれた。ダイニングルームに入ると、そこには豊かな海の恵みが並んだ食卓が用意されていた。
「これは...すごいご馳走だ!」
ハウルが目を輝かせながら声を上げる。
「どうぞ、たくさん召し上がって。ここは魚介が豊富でね。取れたてだから、味は保証するよ。」
カエラが笑顔でそう勧めてくれる。
私たちは揃って感謝を伝え、食卓についた。
並べられた料理はどれも新鮮で、魚や貝、海藻をふんだんに使った素朴で温かな料理だった。一口食べるごとに、旅の疲れがふっと軽くなっていく。
食事の間は、海の話やこれまでの旅の話で自然と会話が弾み、笑顔が絶えなかった。
やがて食事が終わると、私たちは再びカエラに丁寧にお礼を伝え、それぞれの部屋へと戻った。
旅の疲れもあって、そのまま静かに眠りについた。
◇◇◇
翌朝、目を覚ますと、外はようやく明るみを帯びはじめていた。目が冴えてしまい、もう眠れそうにない。
そっと立ち上がり、ハウルを起こさぬよう静かに部屋を出る。
宿屋の戸を開けると、潮風が優しく肌を撫でていった。
ひんやりとした空気が心地よく、私は何度か深呼吸をしてから、海が見える場所まで歩みを進めた。
広がる海は、どこまでも穏やかで、波ひとつ立っていない。岸辺に寄せるさざ波すら、朝の静寂を壊すまいと気を遣っているようだった。
その静けさを破ったのは、思いがけない声だった。
「おはようございます。ルヴィはずいぶんと早起きなのですね。」
振り返ると、アデルが本を片手に、こちらへゆっくりと歩いてきていた。
「アデル、おはようございます。」
そう応えると、彼女は私の隣に並び、軽く伸びをひとつ。
「...とても雄大な景色ですわね。」
それきり、言葉は途切れた。
すると、そのときだった。
東の水平線に、光の点が現れる。ゆっくりと、その点は光を増し...朝日が世界を照らし始めた。
陽光が私の体を包んだ瞬間、胸の奥に、あたたかく力強い何かが宿るのを感じた。
次の瞬間、島陰から一艘の小さな船が飛び出してきた。
ぐんと速度を上げ、そのまま朝日が昇る方角へ、迷いなく突き進んでいく。船は小型のものだが、操っているのは少年...それも、たったひとりのように見えた。
まるでこの穏やかな海を自分のもののように自在に駆け抜けるその姿は、どこか眩しく、力強かった。
やがて、船は別の島陰に消えていった。
アデルと私は顔を見合わせる。彼女が小さく呟いた。
「今の船を操っていた方...」
「...そうですね。あとで、みんなで会いに行ってみましょう。」
そう応えると、二人で宿に向かい歩き始める。すでに朝日は、水平線を高く離れていた。
宿に戻ると、ハウルはすでに顔を洗っていた。リルの姿は見当たらず、アデルが彼女を呼びに部屋へ向かう。
やがて、目をこすりながらリルがアデルに連れられて現れた。まだ少し眠たげな顔をしている。
食堂で四人そろって朝食をいただきながら、私は先ほどの出来事を、ハウルとリルに話して聞かせた。
「それでさ、その船を操船していた少年を探して、どうするんだい?」
「そうですね。まだ分かりませんが...もし可能であれば、大陸へ渡る船の操船をお願いできるかもしれないと考えているのです。」
「なるほど、それはいい考えかもしれないね。まずは探して話をしてみよう。」
ハウルが頷いてくれたことで、話はまとまった。
カエラの手料理による温かな朝食をいただいた後、私たちはそれぞれの支度を整え、四人で宿を出た。
この漁村は、百数十人が暮らすだけの小さな集落だった。
しかし、聞き込みを始めても、なかなか少年の情報は得られなかった。
「ルヴィもお姉様も、朝から寝ぼけて夢でも見てたんじゃないのかしら。」
村の人々の話では、船はたいてい日の出前に漁を終え、岸に戻って道具の手入れに入る。日の出の時間に出ていくような船は、まず見かけないという。
ましてこの小さな村では、人手が常に足りず、誰かひとりで悠々と船を出している暇などないらしい。
「この村の子ではないのかしら...?」
アデルが呟いた。
この先の漁村となると、馬車でも少し時間がかかる。すでに昼に近く、私たちはいつの間にか村の外れに来ていた。
「引き返して、馬車で隣の村に行ってみましょうか。」
そう私が言いかけたその時、どこからともなく、ドンドンドン...と、扉を叩くような音が響いた。
「そこに誰かいるのかい?お願いだから、ここから出してくれないか!」
叫ぶような声が、続けて聞こえてくる。また、ドンドンドン...と、強く扉を叩く音。
リルが首をかしげながら、海の方を指差した。
「こっちじゃない?」
彼女に導かれるように歩いていくと、崖の縁まで出た。音は、どうやら崖の下から響いているようだった。
崖下に降りられる道を探すと、漁村の方から浜沿いに歩いて行けそうだった。
私たちは村を回り込み、崖下へ向かおうとした...そのとき、一人の男が私たちの前に立ちはだかった。
「娘を助けに来たのかね?」
突然の問いに少し戸惑いながらも、私は礼を尽くして答えた。
「私は旅をしていて、今日この漁村で宿を借りたルードヴィヒと申します。
娘さんかは分かりませんが、どなたかが『ここから出してほしい』と叫んでおられたので、確認に来たのです。」
男は少し驚いたような顔をし、それから軽く頭を下げた。
「そう言うことでしたか、失礼しました。私はラファエレ・ジュゼッペと申します。この村で漁をしております。
あれは、わしの娘でして。仕事をサボって遊んでいたので、罰として崖の横穴に閉じ込めておったのです。お恥ずかしい話です。」
少し気になったので、私は丁寧に尋ねた。
「もし差し支えなければ伺いますが、娘さんが『遊んでいた』というのは、どういったことだったのですか?」
ラファエレは一瞬躊躇したような表情を見せたが、すぐに静かに言った。
「...では、ついて来てくれますか。」
促されるまま、私たちは彼のあとに続いた。崖の横穴の前まで来ると、扉の内側からまた声が上がった。
「どこのどなたか分かりませんが、この扉を開けてください!お願いします!」
扉は頑丈な木板で作られ、外側から三本の木の棒で固定されていた。内側から開けるのは、まず不可能だろう。
ラファエレが低く、しかしはっきりと問いかける。
「おまえは、どこの誰かもわからず、声をかけているのか?」
「あっ、その声は...お父様!?ごめんなさい!!ごめんなさい!!明日からは、ちゃんと真面目にお手伝いしますから、ここから出してください!!」
少女の声は、どこか必死で、そして正直だった。




