祝福の森の出会い
気づくと、目の前に澄み切った青い空が広がっていた。
草の香りが鼻腔を優しく刺激する。
穏やかな日差しが、顔と体を暖かく包み込み、草原を横切る涼やかな風が僅かに火照った全身を心地よく撫でていく。
遠くで鳥たちのさえずりが聞こえ、この静寂な空間を心地よく彩っていた。
少年と呼ぶには少し若いかもしれない男の子が草原に横たわっている。
黄金色に輝く頭髪にやや色白でシャープな輪郭、均整の取れた顔立ちは彫刻の様に美しい。
男の子は、しばらく、こののどかな光景を堪能していた。
やがて、少年はゆっくりと上半身を起こし、右足を胸に引き寄せ、右腕で抱えた。
◇◇◇
見渡すと、一面に広がる草原がどこまでも続き、左手の先には樹木が茂る一角が見える。
再び横になると、この穏やかな空間に身を委ねたいという誘惑が、頭をよぎった。
ふと、身に着けているものが気になり、確認する。
服は上下とも上質の生地でできており、目立ち過ぎない程度の装飾が施されてる。
腰のベルトには、左に装飾された短剣が、右にはポーチが付いている。
ポーチは財布も兼ねているのだろう。
ポーチの中はコインが一枚ずつ収納できるポケットが幾つもついており、コインを取り出してみると、白金貨が24枚、金貨が36枚収納されていた。
金貨1枚で1年は不自由なく暮らせるだろう、白金貨に至っては1枚で十数年暮らせるような大金だ。
短剣も、ただの武器とは思えないほど美しく、精巧な宝飾が施されている。まるで工芸品のようだ。
再び周囲を見回し、頭の中に疑問がよぎる。
・・・ここはどこだろう?
そして・・・
私は、いったい何者なのだろう?
装飾された短剣を手に取ろうと右手を伸ばしたその瞬間、左手の森の方から不穏な気配が漂ってきた。
立ち上がって足早に森へ向かう。数十歩進んだところで、鋭く張り詰めた悲鳴が空気を裂いた。女性のものと思われるその声は、ただならぬ緊迫感を帯びている。
私は迷うことなく悲鳴の方向へ駆け出した。森に入ってしばらく走ると、木々の隙間から巨大なグリズリーの姿が見えた。
獲物を狙う獰猛な視線。その先には、小柄な少女が剣を構えて立ちはだかり、もう一人の少女が地面に蹲っている。グリズリーが咆哮を上げ、鋭い爪を振り上げた。
咄嗟に右手を突き出し、炎をイメージする。次の瞬間、手から放たれた炎の玉が空を裂き、グリズリーの左頬に命中した。
グリズリーはこちらを向き直ると、怒りに満ちた咆哮を上げ、地面を蹴って突進してきた。
私は逃げることなくその場に踏みとどまり、両手を前にかざす。頭の中で壁を強くイメージすると、目の前の地面が突如として盛り上がり、分厚い土壁が出現した。
その瞬間、グリズリーの巨体が勢いそのままに土壁へ激突する。
鈍い衝撃音とともに、グリズリーは壁の前で崩れ落ちた。しかし、即席の土壁はびくともしないまま、堂々とその場にそびえ立っている。
グリズリーは土壁の前にくずおれたまましばらく立ち上がらない。
その隙に、私は土壁の脇を回り込み、少女たちのもとへと走る。そして、二人の前に立ちはだかり、再びグリズリーと対峙した。
やがてグリズリーはゆっくりと立ち上がり、じっとこちらを一瞥すると、低く唸り声を上げながら森の奥へと逃げ去っていった。
突然の出来事に身体が勝手に動いたが、改めて自分の行動を振り返ると、頭の中には疑問が渦巻いていた。
自分の手を見つめ、今起きたことを整理しようとしていると、背後から少女の声が静かに響いた。
振り返ると、うずくまっていた少女が立ち上がっていた。私よりも一回り背が高く、長い赤茶色の髪を後ろでまとめた、とても美しい少女だった。
彼女は愛嬌のある口元をほころばせ、優雅に一礼すると、丁寧な口調で言った。
「私はアデルと申します。危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました。」
その透き通るような声に思わず聞き惚れ、私は言葉を失った。
すると、アデルの隣に小柄な少女が並び、頬をぷくりと膨らませながら不満げに言う。
「あのくらいのグリズリーを追い払うだけなら、わたしでもできたのよ!あのお肉が欲しかったのに、逃がしてしまっ...」
言い終わる前に、アデルが小柄な少女の頭を軽く叩いた。
小柄な少女は、赤茶色の髪をショートカットに整えており、顔立ちはアデルによく似ているが、よりシャープで鋭い目をしていた。
「それは申し訳ないことをしました。狩りがお望みなら、何か得物を探しましょうか?」
私がそう提案すると、少女はぱっと笑顔を浮かべて言った。
「そうね、大鹿なんかが良いわね。」
「ちょっと、リル!調子に乗らないの。私たちは山菜を摘みに来ただけでしょう?」
アデルがたしなめるが、リルと呼ばれた少女は気にする様子もなく、話を続ける。
「いいじゃない、手伝ってくれるって言うんだから。フランツおじさんも喜ぶでしょ?」
二人のやりとりを聞きながら、私はようやく状況を理解した。
おそらく、彼女たちは山菜採りの最中にグリズリーに遭遇したのだろう。
「せっかくですし、大鹿なら、この様な森であればすぐ見つかるでしょうから、お手伝いしますよ。」
そう言った私には、なぜ見えるのか分からないが、私たちが立っている場所から十数歩ほどの場所に大鹿の通り道が見えていた。
「お二人とも、足元に気をつけて、ついてきてください。」
私はそう注意を促しながら、大鹿の通り道へと足を踏み入れた。
僅かに風の流れを感じたが、運よくこちらが風下に位置していた。慎重に足を進めながら、周囲の気配を探る。
数分歩くと、微かに獣の気配が漂い始めた。私は獣道を右手へ折れ、しばらく進んでみたが、特に何も見つからない。
そこで、再び元の獣道へ戻り、今度は反対側へ向かうことにした。
やがて、獣たちの足跡が無数に刻まれた、やや広めの道へと出る。その間、二人の少女は一言も発さず、静かに私の後ろをついてきていた。
私は小声で二人に指示を出し、獣道の脇にある木陰に身を潜めるよう促す。そして自分も同様に木陰に隠れた。
そっと空へ向かって両手をかざし、風の流れを意識する。イメージを両手に伝えると、掌から風が生まれ、樹間を縫うように駆け上がっていく。
しばらくすると、遠くの樹々がざわめく音が僅かに聞こえてきた。
私はじっと息を潜める。すると、ほどなくして、鹿の群れが獣道をこちらへ向かって駆けてきた。
鹿たちが目の前を通り過ぎようとした瞬間、私は両手をかざし、一頭の大鹿の前に突如として土の壁を出現させた。
驚いた大鹿は避ける間もなく土壁に衝突し、その場に倒れ込む。
すかさず私は片手を土壁に向け、必死に立ち上がろうとする大鹿の額に、拳大の土の塊を作り出し、勢いよくぶつけた。
大鹿は抵抗する間もなく意識を失った。
しかし、他の鹿たちは気に留めることなく、そのまま疾走し、森の奥へと姿を消していった。
鹿の群れが去ったのを確認した後、私たちは気絶した大鹿に近づき、小柄な少女の持っていた剣を借りて、大鹿に止めを刺すことにした。
私は手早く大鹿の首筋を切り、後ろ足をツタで縛った。それから、土の壁に大鹿をしっかりと括り付け、血抜きを始めた。
血が抜ける間に、私は大鹿の倍ほどの長さの枝を切り取り、周りの邪魔な枝葉を取り除いていった。
二人の少女はその光景に驚き、しばらく無言でこちらを見て固まっていた。
血抜きが終わった後、私は大鹿の前足と後ろ足をそれぞれツタで縛り上げ、切り取った枝をその間に通して、前後で担げるように準備を整えた。
「私が後ろを担ぐので、お二人は前を担いでいただけますか?」
私が尋ねると、二人の少女は慌てて返事をしてくれた。
「では、お二人を家までお送りしますので、道案内をお願いします。」
まだ日は高く上がっておらず、広いけもの道でも地面には日の光が届いていない。それでも、森の中では光が木々の間を通り抜け、緑が鮮やかにきらめいていた。
大鹿を担ぐために、私は少し工夫を凝らした。
肩に枝が直接当たらないように、柔らかい木の皮を数枚剥ぎ取って重ね、ツタで縛り、クッションのようにして肩にかかる圧力を和らげた。
重心が後ろに来るように調整したので、前を担ぐ二人に過度な負荷はかからないはずだった。
しかし、アデルとリルの身長差を考えると、負荷はおそらくアデル一人に集中することになるだろう。
三人で大鹿を担ぎ、ゆっくりと歩き始めた。
リルと呼ばれた少女は、自分の上着を巧みに丸めて、それを頭の上に載せた。
その上にさらに枝を載せ、しっかりと支えた。その瞬間、アデルへの負担が軽減されたようで、アデルはわずかに振り返り、微笑みを浮かべた。
後ろからその光景を見ていると、二人は実に似ていることに気づく。明るい赤茶色の髪、長い手足、そしてその歩き方までがまるで一人の人間のようだ。
会話の仕方や性格は全く異なるが、容姿はまるで姉妹のように見えた。いや、姉妹なのかもしれない。
森から出ると、遠くに街が見えた。
緊張から解放され、安堵したのか、アデルが静かに口を開く。
「改めてですが、私はアデル・フェルステルと申します。この子は私の妹で、アヴリルと言います。
危ないところを助けていただいただけでなく、このような大鹿まで捕まえていただいて...何とお礼を言ったらよいのか...」
「わたしのことはリルって呼んでいいわよ!」
アヴリルがすかさず補足する。
私が苦笑するのを意に介さず、彼女は勢いよく話しかけてきた。
「そうだ、お兄さんの名前は?旅をしてるの?旅人にしては荷物が少ないけど、あの森には何しに来たの?」
矢継ぎ早の質問に言葉が詰まる。
「リル!」
アデルがたしなめるが、リルはお構いなしだ。
「さっきの魔法でしょ?どうやって使うの?わたしにもできるかしら?」
私は意を決して、事情を話すことにした。
「実は、私は自分が何者なのか、どこから来たのか、何も分からないのです。」
「お兄さん、冗談が下手ねぇ。少しも面白くないよ。鹿の群れのことも知ってたし、近くの村の猟師さんじゃないの?」
「リル!」
再びアデルがたしなめる。
そして、今度は優しく私に問いかけた。
「では、お名前も覚えていらっしゃらないのですか?」
「はい。先ほど近くの草原で横たわった状態で目覚めました。
自分の身元が分かるものがないか探していたところ、森から悲鳴が聞こえたので、急いで駆けつけたのです。
すると、あなた方がいらっしゃった...」
今回はリルも黙って聞いていた。
「それでは、これから行く当てもないのですか?」
アデルの問いかけに、私は喉を詰まらせる。
「でしたら、私たちの街でしばらく療養しながら、記憶を思い出されてはいかがですか?」
「ありがたいお申し出なのですが、ご迷惑ではないでしょうか?」
「迷惑だなんて!先ほども申しましたが、私たちは助けられてばかりですから。少しでもお役に立てることがあるなら、喜んでお手伝いいたしますわ。」
「そうね、わたしも魔法を教えてほしいわ!」
アデルの申し出に、リルが笑いを添える。
ふと気がつくと、先ほどまで遠くに見えていた街が、すぐ目の前に迫っていた。