お姫様と私、その心。
私だって、自分の気持ちのすべてを分かっているわけではない。
でも、それがひどくもどかしいとも思う。
「殿下がたまにサーベルトの屋敷に行ってるのは知ってたのよ…でも、まさか義兄上が不在のときにまで行っていたなんて知らなかったわ。しかも何度も」
「うん…」
王妃様のお茶会にご招待頂いたすぐ後の私のお休みに、お姫様は早速やって来た。
ご当主様が午前中の執務に出かける時刻にすでにお屋敷の応接間にやって来ていたから、王宮の門が開いたのと同時に馬車を飛ばして来たとしか思えない早さである。さすがのご当主様も何事かと思ったようだったけれど、お姫様の有無を言わせぬ勢いと執務の時間が迫っていたこともあり、後ろ髪を引かれる様子を隠せずに出かけて行かれた。
出がけに、後で何の用事だったかを教えるように念を押していかれたが、こんな話を報告することはできない。
どのように誤魔化すか、今から頭が痛い。
しかし、それよりも困るのは、まさに今現在におけるお姫様の尋問である。
「でも、本当にたまに、なんだけど」
「あら。重要なのは頻度ではなくて、それがどういう目的なのかってことだと思うんだけれど。コニはどう思ってるの?」
「えー…」
お姫様の問いかけに、言葉に詰まった。
その答え自体は簡単にも思える。ご当主様ではなく私に会いに来ていて、それはできればご当主様がいらっしゃらない方が望ましいというシェリア様の気持ちの表れだ、と断じることは難しくない。シェリア様が私とずっと一緒に居たいと思って下さっていると、私は知っているのだ。
しかし、それはお姫様の問いかけへの直接の答えにはならない。
一緒に居たいことは理由であって、目的ではないのだ。
答えの出ない質問に戸惑い、その間を誤魔化すように少しぬるくなった紅茶を口に含む。ふわりと香る花の匂いに少しだけ気持ちが落ち着くが、美味しそうな焼き菓子をほおばる気持ちにはなれない。
今そんなものを食べたら、喉に詰まらせてしまいそうだった。
いつもなら真っ先に手を伸ばす、レモーネのケーキなのに。
「ふふ、言えないってことかしら」
「…レイチー、なんだか意地悪じゃない?」
私の困惑を見透かしたように笑うお姫様に、ちょっとだけ面白くない気分になる。
「そりゃあ意地悪もしたくなるわよ。せっかくのコニの初恋が、私の知らない内に始まってるなんて…悔しいじゃない」
「初恋って、」
「だって本当に困ってたら、義兄上に言いつければ良かったんだもの。気づかなかったなんて、嘘よ。少しでも止めさせたいと思えば、すぐに気づくことですもの」
お姫様は、そう言って少しだけ真面目な表情を作る。
まるで、私の逃げ道を塞いでしまおうとするかのようだ。
瞳の奥が、かすかに揺れていた。何かを迷うように。
しかし、そんな表情も一瞬だけで、すぐに悪戯めいた微笑みを浮かべた。
「それって、殿下と二人で会うのが楽しかったということでしょう。会えなくなるのは、嫌だったのよ」
「…そりゃあ、楽しくなかったと言えば嘘になるけど」
「けど、なんですの?」
お姫様の言葉を否定する理由はない。
それは、恐れ多いことながら、私にとっての事実であったから。
「お会いするのが楽しくて、また会いたいって思うのが恋なの?私はレイチーにだってそう思うわ」
「もう!コニったら変なところで頑固なんだから」
「えぇ?」
私にとっては当然の疑問で、それは恋と好意や親愛の違いへの疑問にも通じるものだった。
ずっと心の中でぐるぐる考えていたことを、あっさりと変なところの頑固さで片付けてしまったことには不満と疑問があるのは当たり前である。
たしかに頑固かもしれないが、でも、それとこれとは別の問題ではないだろうか。
それとも、恋愛に慣れ親しんだレイチーには、本当に同じ問題に見えているということなのだろうか。
そんな私の不満さを隠さない相槌に、お姫様は呆れたように笑った。
「自分で言ってたじゃないの。めんどくさいって!あのね…自覚があるか分からないけれど、コニのめんどくさいはすっごく強力なのよ?私にだってそれを我慢してもらうのは大変なのに、」
「うん…」
これは、おそらくサーベルトのお屋敷に上がるときのことを指しているのだろう。
それから、王宮に一緒に上がるときのことも。
確かに私は様々な「めんどくさいこと」を避けるために、お姫様と色んな約束事をした。
その最大のものが、いつものお庭である「秘密の花園」であり、そこだけで開かれるお姫様と私だけのお茶会であった。小さいものなら、仕事のことや手紙のやりとりについて、私の実家とサーベルト家の関係についてなどたくさんある。
その理由はめんどくさいからというものだけではないけれど、それが主な理由ではあった。
私にとって面倒事を避けることは、何よりも大切な日常を守ることと同じだったのだ。
「もっとめんどうだったはずの殿下のことは、自然と我慢しているじゃない。ううん、むしろ面倒でも良いって思ってるみたいだわ。恋って、人を変えるのよ?」
「!」
そのレイチーの言葉は、私の心に真っ直ぐに飛び込んできた。
めんどくさい、それだけのことで関係を絶ってしまうのは寂しいと思うようになったのはいつからだっただろうか?
それは、殿下との距離がだんだんと近くなってきた頃からではないだろうか?
そんな自覚が、レイチーの言葉が沈んだところから、じわじわと心に広がっていく。
私は、そんな心の動きを自分がそこまで薄情な人間ではないからだと思っていた。もちろん、それだって嘘でも勘違いでもないと思う。しかし、それでもこんなに容易くめんどくさいことを許容したりする人間ではなかったのだ。それこそ、大切な幼馴染のためだって簡単に諦めたりしないくらいには。
レイチーの言葉で、それを思い出す。
めんどくさいという判断は、私が何よりも大切にしているものを守る気持ちの表れであったのだ。
それだけのこと、そう無意識にでも考えるようなものではなかった。
そのことこそが、大切だったはずなのだ。
私の考え方、気持ちの在りようは変わってしまったのだ。
私自身さえ気づかない間に。
顔が熱い。
そのきっかけが、殿下…シェリア様との出会いなのかもしれないのだ!
恋。
私の変化。
それは、私の初めて。
「ふふ、あは!コニったら、顔が真っ赤よ」
「だって!」
お姫様が吹き出すのも無理はない。
鏡など見なくても、自分の顔が赤くなっているのが分かる。頬だけではない。耳も目の周りも、鼻のあたりだってむずむずとした熱が集まっているのだ。
しかも、治まる気配はない。
「その表情が見られたことで、今まで内緒にしていたことは忘れてあげるわ」
「はぁ…もう、やめてよぅ」
なんだか、ものすごく恥ずかしい気がする。
それは自分が恋をしたという自覚のせいではなくて、ましてやシェリア様を好きになったせいでもない。恐れ多いし、まさかとも思うけれど、それは恥ずかしいわけではない。どちらかといえば、このむずむずとした熱のようにくすぐったいけれど、どこか嬉しい気持ちに似ている。
だから恥ずかしいという感情が生まれてくるのは、別の場所からだ。
つまり、ずっと気づかないでシェリア様と過ごしていたという事実が、ものすごく恥ずかしい。
すごく間抜けで鈍い人間みたいではないか。
「お義兄様にも、しばらくは黙っていて差し上げてよ?」
「へ?ご当主様?…怒られるかな」
今度は恥ずかしさでぐるぐるしていた私に、お姫様の言葉はひどく唐突に感じられた。
しかし、そういえば貴族や王族のものになることは反対されているのだった。怒られるだけなら良いが、失望されたり呆れられたり、傷つかれたりされるのはものすごく嫌だ。
ご当主様のせっかくの理解と厚意と親愛を、裏切りたいわけではない。
「そういうことではないのだけど…そうね、もとから私が口を出すことではないわね。そこは自力で頑張ってちょうだい」
「うん、」
お姫様の言葉に頷きつつも、その具体的なご当主様の行動が想像できない私には、今はあまり現実感がない。
となると、私の頭の中は再びもとの悩みで占拠されてしまう。
「どうしかした?」
上の空な私に気づいたお姫様は、不思議そうに私を見ている。
しかし、私の悩みは至極単純なものだった。
「もう、シェリア様のお顔が見られないわ…」
次に会うのがいつなのかは、分からない。
しかし、おそらく、いや確実に近い未来にシェリア様との邂逅は到来するのだ。
好きになった人と、会う。
苦しくなるほどの鼓動は決して嫌なものではなく、浮き立つような心と期待と不安が入り混じった不思議な予感のようなものだ。今までの平穏な、平常な生活にはなかったものだ。
それがこんなにも心を占めるものになるとは、知らなかった。
恋が、ひとりではできないのだということは知っていた。
でも、ひとりが、こんなにも恋を感じるものだとは知らなかった。