お姫様と私、花匂う丘で。
緑と白、それに黄色が一面に広がっている。
カモマイルの花畑である。
「王家の薬草園だよ。といっても、俺だって来たのは初めてだけど」
シェリア様の言葉によく見れば、たしかに植えられているのはカモマイルばかりではない。そこかしこに、ピンクや薄い紫の花や変わった形の葉っぱが見える。遠くに見えるのは早咲きの薔薇だろう。
それでも圧倒的に視界を覆うのは、カモマイルの花たちである。
花園という閉じられた空間に囲われた花々にはない、どこまでも広がる花たちの姿はとても美しい。薬草園というだけあって煌びやかではないけれど、風に吹き上げられた花びらが空に散る様は何にも勝る魅力があった。
ずっと、いつまでも見ていたくなる光景だ。
「あぁ、匂い袋に使っているときとは少し香りが違うね」
さっと風が吹けば、カモマイルの爽やかな香りに包まれる。
それは匂い袋から香るような雅やかでひっそりとした匂い方ではなく、全身をその香りで洗われるような気分になるものだ。
「乾燥させて使いますから」
乾燥させることで香りは濃密になり、少量でもよく匂うようになる。その代わり、こうやって生えているときの瑞々しさを失ってしまうのだ。水の匂いにも似たこの青々とした香りはあけっぴろげで庶民的であり、貴族的なしとやかさとはかけ離れたものである。
私は、土の匂いが混じったこの香りが好きだ。
「うん。こうやって生えているのも悪くない」
「ふふ、元気になりますか?」
にこり、と気分良さそうに笑う殿下に私も嬉しくなった。
そしてカモマイルの花にまつわるあれこれを思い出し、笑いながら殿下を窺えば、少し訝しげな表情になりつつも頷かれた。
「ん?まぁ、そうだねぇ…」
「カモマイルは、他の植物を元気にさせる力があるそうですよ」
「へぇ、伝説か何か?」
いつのことかは覚えていないが、実家近くに住んでいた庭師のおじさんに聞いた話である。
カモマイルの株をいくつか分けてもらった際に秘密めかして教えてくれたのだ。そのときは、まるで魔法の花を手に入れたようで嬉しくなったことを覚えている。
「違うみたいです。実際に、虫がつかなかったり花が咲きやすくなったりすると聞いたことがあります。なんでも、カモマイルに虫が集まって他の花は助けられるとか」
「それは少し気の毒だね」
その種明かしは、サーベルト家のお屋敷に上がってからお屋敷の庭師さんに聞いた。
シェリア様の感想が、そのときの私のものと似ていて、失礼ながら少し意外だった。せいぜい便利な花なんだね、くらいのセリフを聞くことになると思っていた。
「強い花だから平気、なんだと思います」
可哀そうじゃないか、という私に返された言葉をそのまま言ってみた。
それに私自身がどのように返したのかは忘れてしまったが、シェリア様がどのように応えるかは気になった。
「ふぅん……苦難に耐える、だったかな?」
「親交という意味もあるそうですよ。私は、こちらの意味のほうが好きです。友達のために頑張るのなら、可哀そうではないと思いませんか?」
花にまつわるメッセージは、貴族の間では教養として学ぶことのひとつである。表の意味と、裏の意味、それを読み違えることは礼を失することにつながるのだ。
殿下のおっしゃったのが表の意味で、私が応えたのが裏の意味である。裏の詞を知れば、表の詞もまた違った意味を帯びて面白い。
「それでレイチェルに?そういえば、ミントも虫除けの効果がある。花詞は美徳だけど、それもまた彼女らしいかな」
「あ、そういうわけではないです。ミントとカモマイルの組み合わせは、レイチーの好みなので」
「はは!そんなところまで、彼女は凛々しいんだねぇ」
「そんなこともないのですが…」
ミントの裏の意味は、また愛を希うというものだ。
それを意識したわけではないが、或る意味においてお姫様にはそちらが相応しい。
もちろん、こんなことをシェリア様に言うつもりはない。
「でも、レイチーはたまにちょっぴり男らしいんです」
「たまに、ちょっぴり?ずいぶん控えめな表現だと思うよ、俺は」
「…そんなにレイチーはシェリア様に厳しいのですか?」
盛大に、わざとらしいほどに眉を顰めるシェリア様は少し子供っぽい。まるで厳しい教師のことを話すような表情に、くすりと笑いが洩れた。
「そりゃあ、もうね。筆舌に尽くしがたいよ…最近は、特にね。まったく、八つ当たりも良いところだと思うんだけど」
「ふふ、八つ当たりですか?」
「もちろん自業自得という見方もできるだろうけどね。子犬ちゃんと仲良くなっていくことが、レイチェルにとっては面白くないって知っていながら…俺はこうやって」
悪戯めいた笑いを浮かべたシェリア様が、私に向かって手を伸ばした。
「わっ」
「連れ出してる」
ぐいっと引かれた手につられて、私は体ごとシェリア様の腕の中に飛び込んでしまった。
じゃれるような抱擁は初めてではない。
「で…でん、」
「また?」
「シェリア様、お戯れが過ぎます…!」
初めてではなくとも、そう慣れるものではないのだ。
レイチーの腕と同じように温かいのに、その柔らかさの代わりに感じるのは男のひとの固い体だ。それなのに居心地が悪いわけでもないのだから、本当に戸惑わずにはいられない。
困った表情を隠さず見上げれば、愉快そうな視線と行きあい、さらに困る。
「あはは!ねぇ、子犬ちゃん」
「はい」
「なぜローレルが子犬ちゃんを、俺や他の貴族に渡したくないと思ってるか知ってる?」
「…私が、平民だからです」
楽しげな表情のまま問われたそれは、その表情に似つかわしいものではなかった。
少しだけ離された距離にほっとしつつ答えれば、再び距離をつめられた。見上げれば、口は笑んだまま真剣な瞳をしたシェリア様がいらっしゃる。
今なら、この腕を解いてくれるかもしれない。
自由なままの左手を動かそうとすれば、それを邪魔するかのように言葉が返された。
「それは正しい。でも、全てではないってことにも気づいてるね?子犬ちゃんは、意外と聡くて賢い」
「買いかぶりです」
「そうかな?本当に?」
耳元で囁かれる声音は睦言のように甘いのに、その内容は詰問でしかない。
「ご当主様は、私が高貴な方々の価値観に慣れることはできないとお考えなんです」
「自分だって名乗りを上げているのに?」
「あ、あれは…そのような身分でいらっしゃる中では、私の考えを最も理解してくださっているという意味だったのではないでしょうか」
「へぇ?」
そう返すシェリア様の表情は、面白がっているようにも嘲っているようにも見える。
そんなシェリア様を見るのは久しぶりで少したじろいでしまうが、一度言葉にしてしまったものは取り消すことはできない。もちろん私だって、ご当主様の言葉に全くの好意がなかったとは思っていないのだ。
ただ、それだけだったとも思わない。
ご当主様の、平民に嫁ぐなら祝うという言葉に嘘はなかった。ご当主様の考えは複雑すぎて私などが推し量れるものではないが、少なくともあれは愛の告白などではなかったはずである。
馬車の中ではうやむやにしてしまったが、この際はっきり言ってしまった方が良いのかもしれない。
「ですから、シェリア様のおっしゃるような…告白というような意図は、なかったのだと思います」
腕を突っ張ってできた距離に、ようやくシェリア様の顔をまともに見ることができた。
先ほどまでの距離はあまりに近くて、顔を上げることもはばかられたのだ。
「…まぁ、別にローレルの想いを子犬ちゃんがどう受け取っていようと俺には関係ないけどね。でも、自分の価値くらいには気づいているだろ」
「私の価値なんて、そんなの」
これが、以前のお姫様をめぐる私の価値という意味ではないことは分かる。
そしてきっと、王妃様に目をかけられているという意味でもないだろう。
「いや、気づかないはずない。気づいていて、それを認めないのは何故?関わらないでいられるなんて信じているわけではないよね?それとも、すでに覚悟を決めてるって思ってもいいのかな」
「覚悟?」
「こっちの世界で、生きていく覚悟さ。リア、アールメリアの言葉が、子犬ちゃんに響かないはずないよね」
「リアさんの…シェリア殿下は、ご存知だったんですね」
ご当主様がリアさんは殿下贔屓だと言っていたことを思い出す。
もしかしたら、と勘繰りそうになったところでシェリア様の言葉がその考えを打ち消した。
「誤解しないでやってほしいな、リアが俺に報告したわけではない。もちろん俺が言わせた言葉でもないよ?確認しただけ…あいつが子犬ちゃんと喋ったなら、言わないはずがないと思ったからね」
シェリア様の軽い口調に似合わない真面目な顔に、こくりと頷く。
殿下と近衛という関係以上のものが、どれほどシェリア様とリアさんの間にあるのかは知らない。それでも、こうやって互いを思いやろうとする関係は私にとって馴染み深いものだ。
「ねぇ、俺たちは強者ではないんだ。もちろん弱者でもないけれど」
「それは、知ってます」
「ふふ、そうだろうね。子犬ちゃんは、あのレイチェルの友達だ」
「はい」
シェリア様の言葉にしっかりと応える。
この言葉にだけは、迷うことはしないだろう。
私の返事に微笑んだシェリア様は、ゆっくりと視線をカモマイルの花々に向ける。眩しげに細められた目は、目の前の花畑を見ているようでもあり、どこか遠くに向けられているようでもある。
「この花みたいに、寄り添ってくれる存在が欲しいと願うのは我儘なのかなぁ?もちろん花のように犠牲になって欲しいわけじゃない。一緒に居てくれるだけで、心地好いんだ」
「一緒に居るだけで、ですか?」
「そう、子犬ちゃんの気配は俺を癒してくれるよ。あの匂い袋みたいに。いや、それ以上にね」
外されていた視線が、ゆっくりと私の元へ戻ってくる。
陽の光はあいかわらずシェリア様の髪を蜂蜜色に輝かせ、碧い瞳はそれに負けないくらい強く煌めいていた。王宮の人工的な灯りよりも、ずっとシェリア様を魅力的に見せていた。
「ずっと傍に置いておきたい」
どくり、と胸の奥で心のふるえる音がした。
秘密を打ち明けるような、声だった。
「シェリア様」
「まだ愛の告白は、しないでおくね?だって、ここでしてしまったら焦ったみたいで癪に障るし…何より子犬ちゃんを追い詰めてしまいそうだ。それで捕まえられるなら本望だけど、無理そうだねぇ」
初めて会ったときから、もう一年が経っている。
まだ、一年なのかもしれない。
それでもこの一年という時間は、あの秘密の花園で感じたシェリア様の冷たさを陽の光に負けないほどの温かさに変えるほどのものだった。改めて、その変化に気づく。
鮮やかなまでに優しい微笑みを浮かべ、シェリア様は私の手をとって囁く。
「だから覚えておいてよ、コーネリア。俺がずっと一緒に居てほしいって思ってるってね」
それが、私にとって何よりの愛の囁きに聞こえるということをシェリア様は知らない。
私の好きの形とシェリア様の願いの形は、とても似ている。
「…はい」
それでも、私の気持ちという応えを求めていないのだから、こうして頷く以外にできることはない。
シェリア様は私に愛の告白をしたわけではないのだ。
恋が遠いものだと思ったことはない。
けれど、それはいつまでも今の自分のものにはならないと思っていた気がする。
今、少しだけ心が熱いのは気のせいだろうか。




