お姫様と私、馬車のなか。
殿下が恋に浮かれてる、そう言ったのはお姫様だった。
恋に浮かれると、人は常識というものを見失ってしまうのだろうか。
「どこへ行くんですか?」
三度目になる問いかけにもやはり答えて頂けず、ただ沈黙する殿下を前に、私は途方に暮れていた。
二頭立ての馬車から見える風景は、すでに城下町の外れにさしかかっている。
わずかに揺れが強まり、道がゆるい上り坂に至ったことがわかった。おそらく周囲にある丘陵地帯のどこかに向かっているのだろうが、はたして何のためなのか。
気持ちよさそうな麗らかな陽気とは反対の空気がたちこめる車内に、私は内心でため息を吐くことを止められなかった。
その空気を作り出しているのは、私が文句など言えるひとではないのだ。
鳥のさえずりが、かすかに聞こえてきた。
「ねぇ、子犬ちゃん」
「…殿下?」
ようやく喋った殿下の声は、聞いたこともないくらい暗いものだった。
殿下の視線は、変わらずに馬車の外に向けられていて、できればそのまま外を見ていて欲しいと思った。こんな声で話す殿下の目が、どんな色をしているのか知りたくなかった。引きずり込まれてしまいそうな暗い色が、もしあのきらきらとしていた瞳に澱んでいたらと思うと、とても怖い。
「怒ってると思う?」
「いえ、」
「分かってるなら怯えないでほしいな。一応、これでも落ち込んでるんだ」
一度だけくすりと笑ってうつむいた殿下は、どこか淋しげで、居た堪れない気分になる。
つい先ほどまでは受け止めることなど不可能だと思った視線を、その瞳を今は見せて欲しいと思ってしまった。たとえそこに暗い深淵があっても、こんな殿下は見ていられない。
「それは、私のせいですか?」
「うん、どうだろうねぇ。自業自得でもあり、子犬ちゃんのせいでもある」
「えっと…?」
ことり、と首を傾げれば、殿下は苦笑して私のほうに向き直った。
その拍子にふわりとミントとカモマイルの香りが漂ってきて、一瞬だけ意識が会話から浮かんだ。
「ユネ家の求婚、それにローレルだって告白したんでしょ?俺がだらだら遊んだり仕事してる間に、子犬ちゃんがどっかに行く可能性をようやく思い出したよ」
「こっ…こくはく!?」
ご当主様の告白という、私が意識的に頭の隅に追いやっていた問題を突きつけられて、ただでさえ鈍っていた思考が完全に停止した。
ぴしっと固まった私を見た殿下は、面白くなさそうに呟かれる。
「やっぱりローレルは特別?」
「……いえ、そういう意味ではなく…あの。ひとつ確認してもよろしいですか?」
「いいよ」
「その、ご当主様が私に告白したというお話は、いったいどうして」
それ以前に、あのご当主様の発言が殿下の理解されている意味での告白だったのか疑問が残っているのだが、この疑問を今ここで云々することが有益ではないのはかわる。
とりあえずは、人払いした深夜の会話を殿下がご存知であるという件について問いたい。
答えはひとつかないと、理解はしている。
「そんなの、ローレル本人からだよ。まったくさぁ…俺が求婚騒ぎに右往左往してる隙に自分はさっさと家に帰るし、しかも子犬ちゃんに釘を刺した挙句に告白とか。どれだけ抜け駆けすれば気が済むんだろうねぇ、あのひと」
「は、」
「で?子犬ちゃんはローレルのものになるはずないとは思うけど、まさか平民にもう相手がいるなんてこともないんだよね」
殿下と私の間にあったひとり分の空間が、半分ほどに詰められる。
じりりと近づく距離と、笑う口元に反した真剣な瞳に、たじたじになってしまう。
「…そんな、恐れ多いです。結婚なんて私には現実味がなくて、」
大体において、もし殿下のおっしゃるような所謂イイヒトが居たら、貴族のお屋敷で住み込みの侍女などにはなっていない。基本的に、侍女とは未婚女性の行儀見習いのようなものなのだ。
現在のサーベルト家の預かり、という身分だって大きなくくりでいえばあまり変わらない。
「それって俺への牽制なのかな」
「えっ」
「これでも、子犬ちゃんにときめかれるように頑張ったんだけど?」
「…殿下のなさることには、今もどきどきしています」
「でも俺を好きになってくれたわけじゃないんだ」
「殿下のおっしゃっているような好き、とはどういうことなのでしょうか?私は殿下とご一緒に犬と遊んだり美味しいお茶を頂くのはとても楽しいです。こうやっていきなり連れ出されたり、かんざしを髪に飾って頂いたりすると、どきどきしてしまいます。殿下が私をお気に召していらっしゃるというのも嬉しいと思ってます」
これは、私の正直な今の気持ちだ。
はじめこそ、あまりに高貴なご身分の殿下が親しげにされることで戸惑い、ちょっぴり迷惑だし面倒くさいと思っていた。からかうようなことや、意地悪なことも言われたし。
それでも、ずっと親しく接し続けられて鬱陶しいと思えるほど、私は非情にはなれない。
できれば面倒なことには関わりたくないし、関わらなければ良いとも思う。それでも、その関係に楽しさや喜びを見出してしまえば、私の心は簡単に傾いてしまう。
私は、レイチェルほどひたむきに自分の理想を追ったりできない。
「それって、俺が好きなことにはならないの?」
「わかりません。…だって、あの、失礼なことかもしれないのですが」
「なに?かまわないから、聞かせてほしいな」
「…それは、ご当主様とお茶をする楽しさやリアさんにからかわれたときのどきどき、それからオンジュに結婚してほしいと言われて嬉しいこととは違うのでしょうか?」
もし、そんな気持ちすべてが恋に繋がってしまうのなら、私はとんでもなく気の多い女ということになる。多情なひとが悪いとは言わないが、私はそこまで器用に恋愛を楽しめるとも思わない。
できることなら、たったひとりを好きになって、その好きなひとのたったひとりになりたい。そして、そのひとと二人で一緒に居心地の良い関係を築いていきたいと思うのだ。
「おそれながら、私は平民です。私が高貴な方々と、ずっと一緒に居たいと思えない、期待できないことはおかしいですか?……私は、ずっと一緒に居たいと思えるひとを、好きになりたいのです」
たどたどしい私の話を、殿下はじっと聞いていた。
こちらが逸らしそうになるくらい真剣な視線は、まっすぐ私に向けられていた。
「望むこともできない?」
私が話し終えた後、殿下は何事かを考えるかのようにゆっくり一度だけ目を瞑り、そのまま伏せ目がちに零された呟きはとても静かなものであった。
「え?」
「俺も期待はしていない。だって、子犬ちゃんはまだ平民だから」
リアさんに言われたこと、ご当主様に言われたこと、それからレイチェルのことが脳裏に過ぎる。
いつも、自分が使う言い訳。
殿下の口から聞いて初めて、それがとてつもない拒絶を含む可能性に気づいた。甘えなどではない、絶対的な線引きという拒絶は卑屈に聞こえるようでなんて傲慢なんだろうと思った。
たとえ、そんなつもりがなかったとしても、私はとても残酷だったのかもしれない。
殿下やご当主様、オンジュやリアさんはどう思ったのだろうか。今になって、ようやく不安になった。
レイチェルは、傷ついていないだろうか。
応える声がかすかに震えた。
「はい、」
「それでも、一緒に居たいと望めば変わることだってできるよね。レイチェルが良い例だ」
私の動揺に気づいたのか、気づいていないのかは分からない。
それでも、殿下にふわりと包みこむように握られた右手は温かく、明るい言葉は私の冷えた心に優しかった。
「私は、レイチーみたいな夢はないんです。地味でささやかな生活が、幸せだと思うんです」
平静を装って応えた声は、もう震えたりはしていない。
動揺は去ってはいないけれど、それはどこか心の片隅にそっと寄せられたように落ち着いた。
落ち着いてしまえば、愉快そうな殿下の態度に気づく。
「ふぅん」
「殿下?」
「ねぇ、子犬ちゃん」
きらきらと、それこそ面白い悪戯を思いついたような殿下の笑顔に思わず見惚れる。
今さら気づいてしまったが、私は殿下の子供っぽいところに弱い。寂しそうでも、楽しそうでも、なんだか目が離せなくなってしまう。
目を離したすきにどうなってしまうのか、気になってしまうからかもしれない。
「俺とだって、地味でささやかな生活を楽しめると思えない?」
「えぇっ?」
「さっき子犬ちゃんが言ったんだよ。仕事の合間に美味しいお茶を楽しんで、天気の良い日には犬と庭で戯れる。こうやって、たまに出かけるのも悪くない」
「はい…あ、いえ!それはそうかもしれません、でも」
あまりにも楽しそうで、つい頷いて、それに気づいて慌てて首を振る。
ここで頷いてしまったら、まるで殿下とのささやかな生活に賛成しているみたいになってしまう。
「ふは!」
「……殿下?」
「そんなに真剣に悩んでくれるなら、望むだけじゃなくて期待してしまいそうだと思ってね」
「あの、」
「期待することは、苦手だったんだけど…困るなぁ」
殿下の伏せられてしまった眼の色を窺うことはできない。
でも、急に色を失くした声は、先ほどの暗い声とも違う印象を受ける。
どちらかといえば、いつかの冷たい声を思い出すものだった。あのときのように軽蔑や侮りによって冷えたのではなく、困惑や戸惑いが強く滲んでいることは分かるのに、思い出すのはいつかの氷のような声なのだ。
今の殿下は、迷子になったのに、それを悟られないように周囲を拒絶する子供のようだ。
「殿下?」
「…」
黙ったままの殿下に、またしても沈黙の時間が続くのかと焦る気持ちが募る。
失礼ながら、隣に座る殿下を覗き込むように身を屈めて呼びかける。
「で、殿下?」
「それ禁止にしようかな」
ちらりと殿下の目線が動けば、私のものとゆっくりと合わさり、何とはなしにお互い微笑み合う。
それから急に明るく色を取り戻した殿下のきらめく笑顔に、目をまばたいた。
「へっ」
少し遅れて発した声は、間抜けなことにやや裏返ってしまった。
「好きになってくれないなら、せめて呼び方くらい俺の好きにさせてほしいな」
「いや、そんな…殿下の」
「シェリア」
「シェリア殿下のことは、」
「殿下はいらない」
「そそそんなことできません!」
ぶるぶるという音が聞こえそうなほど首を振って、気づいたら両手も振っていた。
よく考えたらかなり失礼な仕草だったのだが、言葉だけでは済まされない気がしたのかもしれない。無意識だったので、自分でも良く分からないが。
慌てる私に苦笑した殿下は、その案を取り下げるのかと思いきや、ぱっと楽しげな笑みを浮かべた。
「…シェリーって呼ばせてもいいんだけど、」
「シェリア様!シェリア様と呼ばせてくださいっ」
「うーん、シェリア様ねぇ…」
「お願いします」
このときの私は、いつになく真剣な表情だったと思う。
だって、シェリアもシェリーも、王様と王妃様の他に呼んでいる方を見たことがないのだ。いや、もし仮に居たとしても、私が王太子殿下のことを呼び捨てることなど不可能なのだけれど。
「…ローレルのこと、なんて呼んでるんだっけ?」
「ご当主様ですか?ご当主様です」
「なら、シェリア様でも特別に妥協してあげようか」
私のそんな様子に心を動かされたのか、もともと冗談だったのかはわからない。
とりあえず、ご当主様のことをご当主様とお呼びしていて良かったと心底思った一瞬である。
「ありがとう、ございます?」
「はは!子犬ちゃんは、本当におひとよしだねぇ」
「…殿下が強引なのです」
「殿下?」
つい、呼びなれた言葉が口をついた。
これはもう、仕方がないことだとは思うのだ。
片眉をぴくりとはねさせた殿下もといシェリア様に、慌てて言葉を重ねた。
「シェ、シェリア様のせいです!」
「あはは、それ、良いね。俺のせいって、何か良いなぁ」
機嫌良さげに笑うシェリア様は、どこか幼い。
もともと子供っぽい傲慢さや悪戯めいた行動は良く見受けられたが、この目の前で笑うシェリア様は無邪気ともいえる雰囲気なのだ。
窓から射しこむ光りが、シェリア様の金髪を蜂蜜色に輝かせている。
なんだか、シェリア様の秘密の顔を知ってしまったみたいだと思った。