お姫様と私、そして闖入者。
私は今日もせっせと窓を拭いている。
昨日から王宮に滞在されている隣国の王族様は綺麗好きらしいから桟を拭く手にも力が入る。しかし、せっせと拭いているのは気合が入っているのではなく、急いでいるからだ。
まだお昼の鐘が鳴るには早いけれど、お昼過ぎにはお姫様といつものお庭でお茶会の約束がある。
手は抜けないが、さっさと仕事を終わらせて部屋に戻りたい。
いつもどおりに真っすぐ向かうならば急ぐ必要はないのだが、この前のお茶会でもらったケーキのお礼に作った匂い袋を部屋に忘れてきてしまったのだ。まぁ仕事中に落として同僚に勘繰られるよりはマシだったと思いなおしたが、私の部屋からいつものお庭まではちょっと遠い。
急ぐに越したことはないだろう。
「なんだい、コーネ?今日はいやにはりきるじゃないか」
「ミスリルさん!お疲れ様です。今日はちょっと用があって、」
洗濯番の責任者であるミスリルさんは、私のような下っ端中の下っ端にも親切な肝っ玉母さんな女性である。三十八歳にして四人の子持ちなのもうなずける、迫力ある怒声は何度聞いても心から謝りたくなるものだ。
やや人の恋路に興味を持ちすぎるというのが厄介なのだが、今のところ私に実害はない。
「へぇ?コーネにもついに春がきたって噂は本当だったんだねえ」
「…噂ですか」
ここで何の噂か尋ねるほど鈍いつもりはない。なんといってもミスリルさんだ。だが、なんでそんな噂が出回っているのかはとんと見当がつかない。
そんな噂、つまり私が誰かに恋してるって噂なんだろうけれど、思い当たる節がない。お姫様とのお茶会は王宮に上がってすぐ始まったから、私がたまに姿を見せないくらいで噂になるとは思えない。お姫様の片想い相手である近衛隊長を観察しすぎていたとしても、あんなに手の届かないお方に恋してるなんて噂どころか話のタネにもならないだろう。となると、レモーネのケーキを持ち帰ったことで、少し身分の高いひとと仲良くなったとでも思われたのかもしれないという線が一番濃厚だ。
「そうだよぉ、あんたここんとこ寝る間も惜しんで匂い袋なんか作ってるらしいじゃないか!うちの息子なんかそわそわしちゃって、おかしいったらないよ」
それか。
そういえば、匂い袋は好きな男性にプレゼントするには定番なアイテムだった。コストがかからず心を込めて手間暇かければかなりのモノができるから、経済格差のある恋愛が横行してる王宮ではさらに定番度合いが高まっている。たしかに、自分用にするには細かい刺繍をしていたし、匂いもミントとカモマイルという爽やか路線で若い男性に好まれるものだ。
しかしお姫様の好みがそうなのだから、仕方がない。
「あの…ご期待に添えなくて申し訳ないんですが、あれは幼馴染の女の子にあげるものなんです」
がっかりしたミスリルさんの表情は、感じなくてもいいはずの罪悪感のようなものを抱かずにはいられないくらいの落胆ぶりが表れていた。
そんなに私に恋をしてほしいのか、という謎の希望を知った瞬間であった。
「ってわけで、その匂い袋はとっても貴重なの」
「ふふっ、あは!それは大切にしなくてはいけないわねぇ」
ミスリルさんに教えてもらった噂とそれを否定した時の反応を聞いたお姫様は、それは楽しそうに笑った。いや、普段の微笑みを笑ったとするなら、これは爆笑に値する笑いかもしれない。
「もう、笑いすぎ。そんなに私に恋してほしい?」
「ふふふっ!もう、笑わせないでちょうだい。あのね、きっとみんな恋をしてほしいんじゃなくて、恋したコニを見たいのよ」
「恋をした私?なぜ?それって見ていて楽しいもの?」
「ううん、」
目尻に浮かんだ涙を指先でぬぐいながら、お姫様は瞳を煌めかせて私を見る。
そのいたずらっぽい視線はなんだか艶っぽくて、どぎまぎしてしまう。レイチーに恋してしまう男の人たちの気持ちが少しわかってしまった。
「やっぱり恋は、恋してるひとが一番たのしいわ。それでもコニの恋が見たいのは、コニが好きだからよ」
「へぇ!俺のライバルはこの可愛い子犬ちゃんなの?」
何の前触れもなく落ちてきたセリフに、私はベンチから飛び上がった。
「!?」
「殿下!」
今まで、このお茶会を始めて一年以上になるけれど、このお茶会に私たち以外の人間が現れたのは初めてである。たしかに全く人の気配がなかったわけではないが、それでもお茶会に闖入者は現れたことがなかった。
いちおう秘密の花園なりに、「秘密」を守る仕掛けがあるのだという。決まったルートとか音の鳴る罠とか一方的な視界の悪さだとか、そういうささやかで単純なものだけど、そういうものが一番避けにくくて厄介らしい。それでも懲りずに人の気配が近づくのは、誰もがセントリア王宮一の華であるお姫様の秘密のお茶会に興味津津な証拠なのだ。
なんにしても、私が姿を隠す暇もないほどの唐突さで現れたのは、この人が初めてだ。
「レイチェル、ずいぶん楽しそうだったねぇ…俺も一緒にいいかな?」
「お断りですわ。ここは秘密の花園、いくら殿下でも許せません」
私が驚きすぎて呆けている間に、レイチーの機嫌は急転直下の勢いで悪化していた。
この機嫌の悪さは、初めて出た夜会で実の両親をバカにされたときに次ぐほどの不機嫌ぶりだ。それほどまでにこの目の前の男が嫌いなのか、それとも私との時間を邪魔されたことが腹立たしいのか。
自惚れるわけではないが、後者な気がする。
何と言っても、レイチーが本当に嫌いな人間は、まるで空気のように扱われる。レイチーは自分の嫌いな人間には、感情の一端さえ見せたりはしないのだ。
となると、この男はお姫様の取り巻きそのいち的な立場の人間なのだろうか。
確かに身分の高そうな身なりをしているし、態度もどこか傲岸不遜な雰囲気を漂わせている。へらりとした微笑みや軟派な言動で甘く見ていたら、私などぱくりとひと呑みにされてしまいそうだ。
いまだって、お姫様に向かっているが、さりげなく私のことを視界に納めて外そうとしない。
「レイチー」
だがしかし、そんなことは関係ないのである。
ここは私とレイチーの「いつものお庭」であり、秘密の花園でもある。私はうっかり殿下と呼ばれるような高貴な身分の人間に話しかけたりはしないし、自分の正体を晒すようなことも言わない。それなら、ここに居る間は私には何の危険もないのだ。
「今日は帰る。またね」
長居をして、このどこの誰とも知れない殿下に顔を覚えられてしまわない限りは、ここを出たって私は安全だ。
お姫様や殿下が通ってきたルート上に殿下が居て私を捕まえる気満々であろうとも、お姫様が慌てるそぶりをしていないということは、私のルートは安全なのだ。
「またね」
「え!?」
愉快そうな笑いを含んだレイチーの声と驚いたような殿下の声を背中に負って、私はいつも通りの生垣にいつもより勢い良くもぐりこんだ。
「うぅん、このルートも通り納めかなぁ」
馴染んだけもの道も、これっきりだと思えば名残惜しい。
しかし、とっつかまってお姫様と自分の関係を探られるのは比べ物にならないほどイヤなのだ。
なんのために侍女ではなく下女として王宮に上がったのか。ばれてしまっては意味がない。
私は、過去レイチー絡みで起こっためんどくさい出来事を思い出して、ふるりと頭をふった。二度とあのような人間関係の修羅場に放り込まれたくはないものだ。心臓がいくつあっても足りない。
さきほどの殿下を思い出す。
「あれは、絶対にめんどくさい」
美しくて強かな賢い人間は、弱者にとっては天で燃える星のようなものだ。
遠くで見るにはよいが、近くにあれは身を滅ぼす。
どうしても近づきたいならば、強固な仕掛けたとえば「秘密の花園」のようなものが必要だ。
それでも、私にはレイチーだけでいっぱいいっぱいなのだ。
といっても。
二度と会いたくないものだ、という望みはかなえられなかったが。
その星々は、私の予想をはるかに超えてやってきた。