お姫様と私、立っている場所。
今日は、私の休日ではないにも関わらず殿下がサーベルト家にいらっしゃった。
またしてもご当主様がいらっしゃらない時であったのだが、どうやら先月の件でご当主様が居なくても私と会うことができると考えたようである。あれから二度目の訪問であり、今日は会わなかったとはいえ前回から二日と空けない訪問だった。
改めて考えると、少し間隔が狭すぎる。今日は、いつものような遊び以外の目的があったのかもしれない。最近は殿下に構われるのが当たり前のようになってきていたから、自意識過剰になってしまっているのかもしれない。そう気づけば、なんだかすこし恥ずかしかった。
もっとも、結局は王宮から急な呼び出しがあったということで私がお会いする前に帰られたのだが。あまりお姫様を怒らせていなければ良いと思う。
その知らせを持ってきた近衛のひとが乗ってきた馬を使って殿下が戻るということで、現在その近衛であるリアさんはサーベルト家で休憩中だ。
「よろしければ、お茶をどうぞ」
「おう、悪ぃな」
私はご当主様付の侍女なので、本来ならリアさんのおもてなしをする必要はない。ご当主様が居ない今のような時間は、部屋でのんびり休憩していても構わないのだ。
だが、あまりに同僚たちがその役目を争うものだから、執事さんの一存により私に白羽の矢が立ってしまった。まさに、漁夫や鳶に喩えられてしまいそうな状況である。
不可抗力だし私の意志ではないと言い訳めいた気持ちではあるが、休憩を返上して働いているのだから雑談くらいはさせて欲しい。
「リアさん、恋って何なのでしょうかね?」
内容が愚痴めいた相談になるのは、私の近況が近況だけに納得していただけるようだ。
何しろ、リアさんはオンジュの兄上でいらっしゃるし、殿下とのあれこれもある程度はご存知なのだ。
「おぉ、だいぶ参ってるな。オンジュのせいだけってわけでもねぇんだろうけど、悪ぃな」
そんな私に、リアさんは苦笑しつつお菓子をつまんだ。
その動作を見て、無理やりお菓子を口に突っ込まれたことを思い出す。さすがに働いている私にそんな悪戯めいたことをするつもりはないらしく、そのまま自分の口に運んでいる。
「や、謝ってもらうことは何もないです。オンジュの気持ちは嬉しいですし」
「そう言ってくれると助かる。どうも母さんが要らねぇことオンジュに吹き込んだせいもあるみてぇだからな」
「…はは、ミスリルさんなら仕方がないです」
おそらくは、リアさんやジノア隊長の噂のことだろう。だいぶ前のことではあるが。
ミスリルさんなら、ああいった噂をきっかけとしてオンジュに発破をかけることくらいしそうである。
「ところで、オンジュの話は殿下に伝えたのか?」
「まさか。そんな話、殿下としません」
当然のように聞かれたが、私にはなかった発想にふるりと首を振った。
「その返答ってことは、今日なんで殿下が来たのか分かってねぇな」
「…まさか、オンジュのことで私に会いに来たとでも言いたいんですか?」
もしそうだとすれば、ずいぶんと耳の早いことだ。
オンジュも隠すつもりはないだろうが、言いふらしたりするつもりはもっとないだろう。嫌がっているという誤解は解けたものの、まだ返事をしたわけではないのだ。
「コーネがどう思ってるのかは知らねぇけど、殿下は興味本位でお前を構ってるわけじゃねぇよ」
「じゃあ、」
「レイチェル様と友人だっつーなら、あの二人が恋愛関係なんかじゃないのは知ってんだろ?レイチェル様は全然そういう意味じゃあ殿下を相手にしてないからな。でも、あの二人があんなんなのはそれだけのせいじゃない」
私の言葉を遮るようにして、リアさんは一気に喋った。
何か、言うべきことを早く言ってしまいたいかのようだ。
「殿下だって、レイチェル様を女性として見ることはなかった…というよりも、今まで殿下の視界に女という意味で映る人間なんか居なかった。まぁ、簡単に言えば殿下は初恋もまだってことになんな」
「はつこい、ですか」
ずいぶんと真面目な顔をしたリアさんの話がどんな着地をするのかと少しどきどきしていたにも関わらず、なぜか殿下の初恋がまだであるという話になったことに、ちょっぴりついていけなかった。
きょとん、とする私の間抜けな顔とは対照的に、リアさんは真面目な表情を崩さない。
「だから正直、まさかお前が落とすとは思ってなかった」
「殿下は私を好きだとは、言ってません」
好きになる、好きになるって言ったでしょ、だから好きになるって思ったんだ。
私に会うたび殿下はそう繰り返すけれど、いまだかつて「好き」だとは言われたことはない。
「ああ。たしか…好きになる、だっけ?」
「!」
「勘違いするなよ?殿下から聞いたわけじゃねぇ」
「でも、」
リアさんの言葉を信じないわけではない。
でも、他にそんなことを言う人がいるだろうか。
私と殿下以外に、その言葉を知っているのはご当主様くらいである。
初めてその言葉を頂いてから、数回お聞きした場へ他に同席していた人は居ない。そりゃあ使用人がまったく居なかったはずはないが、意識的に聞き耳を立てない限り聞こえないような距離感だったはずだ。
「コーネ、いくらサーベルト家の屋敷とはいえ、ここは貴族の領域だ。レイチェル様の秘密の花園でもない。一度言葉にしたものが絶対に秘されるとは思わないほうがいい…これが、今のお前の立場における最低限の義務だ」
そう言ったリアさんの表情は硬い。
おそらく私の友人としてではなく、セントリア国近衛兵アールメリア・ユネとしての言葉なのだろう。しかし、その分だけ忠告としての意味は重い。
つまり、殿下との会話は完全なる秘密というわけではないということだ。たとえサーベルトのお屋敷であったとしても、その内容は部外者であるリアさんが知りうる程度には表立って語られ得るということだ。たとえ殿下がその言葉を口にしたのが一度ではなかったとしても、リアさんの耳に入るだろうと私が思うような場面で口にされたことはない。
もし知られたくないのならば、もっと気を配るべきであったのだ。
リアさんの言うように、殿下との関係はお姫様やサーベルト家に守られたものではないのだから。
すっと血の気が引く。
「オンジュに応えるつもりでも、殿下やローレル卿を好きになるつもりでも、それは貴族の領域に関係するということだ。いつまでも、平民を理由にして逃げられるわけじゃない」
「リアさん、」
「庶民根性の据わったお前には、とんだ災難なんだろうな?それでも、俺はコーネには逃げて欲しくねぇって思ってんだよ」
リアさんの言うことは、わかる。
でも、今まで私がリアさんのいう貴族の領域に留まっているのは、レイチーがいるからだ。お姫様が望んでいるから貴族の領域に入り込んでいるのだということを理由に、私は貴族の領域で生活していながら平民の理で生きている。私は、お姫様やサーベルト家によって貴族の理から逃げさせてもらっているのだ。そうでなければ、私が貴族の領域に飛び込むことなどなかっただろう。
だから自分で望んだ境遇ではないのだから少しくらいルール違反をしても良いのではないか、そう考えていなかったとはいえない。
リアさんの言うことは、そんな私の甘えを指摘していることに他ならない。
もし、これから少しでも自分の意思で貴族に関わるのならば、逃げ続けるわけにはいかないのだ。
「そうですね。確かに、もし誰かに恋してしまったら…巻き込まれたからなんて言い訳、もう言えませんね」
「俺はお前を気に入ってるから、コーネみてぇな奴が家に居れば嬉しい。オンジュが駄目なら俺がもらってやったって良いと思うくらいには、気に入ってるんだぜ」
それまでの真面目な表情を崩して、にやりと笑ったリアさんに、私の強ばっていただろう口元が少しゆるむ。それでもまだぎこちなかったかもしれないが、笑顔を作れるくらいには緊張がほどけた。
「あはは、口説かれてるみたいです」
「冗談だけど、冗談じゃねぇよ」
「私にリアさんはちょっともったいないです。まだ、修羅場を乗りこえるのは無理ですし」
夜会のときに遭遇した、貴婦人たちの恋の鞘当を思い出す。
おそらく、あれは氷山の一角でしかないのだろう。まだまだ、私には荷が勝ちすぎるに違いない。
「はは!まだってことは、いずれ乗りこえられるようになれば良いってことか?」
「そうですねぇ…それくらい私が大人になったときに好きになっていただければ、良いかもしれません」
「ずいぶん気の長ぇハナシだな、そりゃ」
リアさんは呆れたように笑って、残りの紅茶を一息に飲み干す。
そろそろ王宮から代わりの馬が到着する時間だった。
「ふふ、失礼ですね」
「ま、コーネはそう簡単に誰かのものになるとは思えねぇけどな」
来たときと同じく颯爽と去っていくリアさんは、余裕のある大人の男のひとなのだろう。
私なんかが焦ってもたもたしているのは、ひどくもどかしいに違いない。それでも急かすようなことは何ひとつ言わず、油断するな逃げるなという忠告でさえ冗談に紛らわせてくれる。
余裕がある以上に、優しいひとなのだ。
そんなリアさんが、殿下がオンジュの求婚を知っているのかどうかを明言しなかったことに気づいたのは、リアさんが王宮に戻ってしばらくしてからだった。
リアさんの言うとおり、私から殿下に伝えるべきなのだろうか。
こういった場合の誠実さというものが、リアさんと違って、まだ私にはよく分からないのだ。
いっそ、誰かにこうするべきだと言って欲しい。
私がそう思うことを知っていただろうに何も言わなかったリアさんは、やっぱり意地悪かもしれない。