お姫様と私、とくべつな関係。
いつものお庭に平穏が戻ってひと安心した時こそ、油断大敵だと思い知ることになった。
季節の移ろいは風にまぎれて秘密の花園にも訪れる。
いろいろ忙しなかった夏が過ぎて、秋の気配を空の高さから感じつつある今日この頃、私たちのお茶会はいつものお庭で開催されている。
「ふぅ」
「レイチー疲れてる?」
まだ温かいショコラ入りのケーキをほおばって幸せを感じていたが、お姫様はまだひとつも食べていない。私はすでに三個目なのに。
あげくに、めずらしくもため息をついている。
「疲れているというよりも、少し呆れているんですの」
「あー、ガーランド殿下ね。遠まわしに断っても、あの方は納得しないんじゃないかなぁ」
「別にガーランド様はよろしいの。呆れているのは、他の方々の反応ですわ」
いつの間にか、ガーランド殿下とは名前で呼び合うほどに親しくなったようだ。いまだにシェリア殿下のことを殿下と呼んでいることを考えると、ちょっぴりどきどきしてしまう。
「私としては、またかって感じだけれど…王子様ってところが、みんな気になってるんじゃないかな。第二王子だから、殿下に匹敵はしなくても張り合うくらいはできそうじゃない?ガーランド殿下はシェリア殿下とはまた違った種類の美形で、目の保養にもなるみたいだし」
実際に、もしやガーランド殿下を好きになってしまったのではないか!という噂はかなり広まっている。しかも、身分が高いひと、つまりはお姫様や殿下の近くの方であればあるほど噂の信憑性が高く感じられているようなのだ。リアさんいわく、であるが。
普通は逆な気がするのだが、どうなのだろうか。
「目の保養、ねぇ…コニはどっちの殿下が好み?」
どうでもよさそうな表情を改めたと思いきや、そんな質問か。
苦笑いしてしまっても仕方がないような選択である。
ガーランド殿下は噂によれば、眼光鋭い偉丈夫で、ストイックな雰囲気なのに額にかかる髪のひと房が色っぽいらしい。しかしてその実態は、綺麗好きの天然系。
シェリア殿下は、輝く金髪と憂いにけぶる碧眼が麗しい美男子で、王宮のレディ好みのすらりとした体躯と柔らかな物腰が洗練された理想の王子様とのことだ。しかしながら、その内面はまったく窺い知ることのできない深淵のようで、少し怖い。
「えぇ?私はガーラント殿下を見たことないもの、わかんないわ。殿下は綺麗過ぎて少し怖いけど、」
「あらあら、殿下ったら怖がられてますわよ?」
「!」
お姫様の発言は、私を驚愕させる威力を十分に備えたものであった。
にこり、と笑っている場合ではない。
いや、お姫様は笑っていられるかもしれないが、私の背筋には冷たい汗が流れていてもおかしくない状況である。
「残念、俺は子犬ちゃんのこと気に入ってるんだけどな」
芝生にころされた足音を、今ほど恨めしく思ったときはない。
このお茶会に殿下が乱入されるのは今日で三回目であるが、もしやまたお姫様の動向を張っていたのだろうか。たしかに、最近の許婚にまつまわる噂は気になるものではあっただろう。そうだとしたら、よくよく浮気調査に鉢合わせるめぐり合わせにあるものだ。
完全なる、とばっちりだけど。
「でも素敵な殿方だと考えております」
「コニったらお世辞なんて言わなくても良いのよ?」
「レイチー!」
「はは、手厳しいなレイチェル。…俺にもお茶をもらえるかな?」
楽しそうなお姫様に、完全なるご自分の道を歩いていらっしゃる王子様。
相思相愛ではないものの、お似合いなふたりであることに違いはない。
「喜んで!」
「私が、」
お姫様が茶器を手に取る前に、我ながら普段の五割り増しな手際の良さで茶器を準備しはじめた。
今日は濃厚なショコラのお菓子だったので、東方特産の翡翠茶にミントで香りづけした爽やかなお茶である。じっとしていると肌寒いので、熱々のお湯で入れることが大切だ。
「レイチェル、せっかく子犬ちゃんが淹れてくれるんだから大人しく待っていようよ」
「…殿下、とっても嫌なことに、義兄上に似てきていましてよ」
「あのローレル卿に?やめて欲しいな、濡れ衣だ」
たしかに、ご当主様と殿下は似ているところが多いかもしれない。
柔らかな物腰にどちらかといえば綺麗と称される容姿、それに反する苛烈な内面を隠し持っているところなどは似通っている。ただ、ご当主様のほうが苛烈な行動をされることを隠さず、殿下のほうが少し軽薄で高飛車ではあるような気がする。
まぁ、どちらも苦手な部類であることに変わりはない。
「お待たせしました」
保温のために厚手のキルトを茶器にかぶせていると、そっと腰のあたりに温もりがふれた。
目の前にはレイチーがいる。
ということは、この温もりの主は限られてくるわけである。ふれられたところは温かいにもかかわらず、そこからぞくりと寒気が広がっていきそうな気がした。もちろん気のせいであるが。
「全然待ってないよ。ほら、こっち座って」
「え、」
ぱちり、と瞬きしても現状は変わらない。
つまり見上げた先には微笑みを浮かべた殿下のお顔があり、隣に立っている殿下のお手はあろうことか私の腰に添えられているという状態である。まるで貴婦人に対するエスコートのような所作だ。
「俺の膝の上が良い?子供の頃に飼っていた犬も、俺の膝がお気に入りだったけど」
「失礼します」
恐れ多くも殿下と同じベンチではあるが、しかしベンチに座ることができるのならば多少のことに拘っている場合ではない。失礼にならないようにさりげなく、殿下の手を避けてベンチに座る。
「おや、残念。なかなか懐いてくれないものだねぇ」
「これだけ礼儀を無視したことをしておいて、コニに好かれようなんて虫がよろしすぎましてよ」
やはり殿下はお茶会に招待されたわけではなく、御身図から乗り込んでいらっしゃったようだ。
咎めるのが遅い、と感じるのは現状に関して多大なる不満と疑問があるからだろうか。
「いつまでたっても招待してくれないから、つまらなくって」
肩をすくめて笑う表情と、つまらないという台詞はまったく噛みあっていない。
とてもご機嫌麗しい殿下に、レイチーは少し表情を引きしめた。当然である。
「本当ならコニとお茶会することは在り得ないものですわ。招待状など初めからありません」
「でも、君が居る間は秘密の花園があるだろう?そして、現実に子犬ちゃんはここにいる」
「そうですわね」
「父上にも会ったというじゃないか!」
殿下の言葉に、お姫様の引きしめられていた表情が強ばった。どうやら、あの謁見は非公式かつ秘密裏ではあったものの、ご家族内においてはその限りではなかったようである。お姫様の予想とは異なってそうだということは、たしかにお姫様にとって顔を強ばらせるに値する誤算だろうな、と思う。
しかし、どこか他所事のようにふたりの会話は私をすり抜けていく。
「ご存知でしたの…」
「もう、コーネリア・シュミットは王宮に認知されてしまった。レイチェル、君やサーベルト家がいくら隠そうとしても、君が君である限り子犬ちゃんは王宮の手の内だ。望む望まずに関わらずにね」
「それでも、」
「往生際が悪いな、レイチェルらしくない。そんなに子犬ちゃんは特別?」
「ええ、もちろん」
なんだか随分とキナ臭い扱いをされているという自覚はあるのだが、いかんせん現実味がない。
だいたいにおいて、レイチーの個人的な助けになる以外に、私を手の内に納めていったい何の利害が発生するというのだろうか。あまりにも、大げさすぎる。
そして、もしレイチーを追い詰めるためだけに私を引き合いに出しているのならば、ちょっと黙っているわけにもいかないのが私のおせっかいなところである。
「それは君の生き方を捻じ曲げてしまうほど?もしそうなら、ちょっとがっかりしてしまうな」
「殿下」
「…子犬ちゃん?」
「ここは、のんびり楽しむお茶会です。ここにいらっしゃるのなら、それくらいは理解してください」
「そうだね。ここでする話じゃない…君も居るし」
ずいぶんと冷たい喋りかたをされるひとだな、と思った。
子犬ちゃん、と呼ぶときを春の木漏れ日だとするならば、これは厳冬の氷雨のようである。
「殿下…!」
「レイチー、事実だよ。でも、さっきレイチェルにがっかりするってことは取り消してください」
咎めるようなお姫様の声に、今は負けるべきではない。
私は、私の意志で王宮にやってきたのだ。それは、レイチーの価値を上げるためではないものの、けっして下げるためではないのだ。
なによりも、ここはお姫様の特別な「秘密の花園」である。
「なぜ?レイチェルが君を特別視しすぎるなら、俺は本音を取り消したりできないよ」
「…殿下は勘違いなさっておられます」
「ふぅん、俺は滅多に勘を違えたりはしないんだけど?」
私の言葉など取るに足らないと考えていることを隠そうともしない殿下に、ちょぴりむっとした。
そして、そんな私の気持ちの変化に面白そうに瞳をきらめかせているのにも気づいたが、一度流れ出た言葉たちは止まらないままに口へのぼる。
「それでしたら、言葉違いをなさっています。レイチェルは私を特別だとは言いました。でも、一番だと言ったわけではありません。このことを良く考えた上での発言でしたら、私にはこれ以上言うことはありません」
「特別と一番、ね」
殿下は、ゆっくりと咀嚼するように、ふたつの単語を繰りかえした。
「殿下が先ほどおっしゃったのは、そういうことでしょう?」
「なるほどね…子犬ちゃんの主張が正しいようだ。レイチェル、前言撤回するよ」
「あ、ありがとうございます」
殿下の言葉に、本当に珍しいことなのだが、レイチーは言葉を詰まらせた。
そして、言葉を詰まらせた自分に驚いたようにばちばちを瞬きながら口元に手を添えた。
「いやぁ、参ったね」
「ふふふ」
「君だけの子犬ちゃんにしておくのは、本当に勿体無い」
「殿下、」
「わかってるよ!あの父上が、まだ待つと決めたことを俺が撤回したりできないのは知ってるでしょ?」
「あれだけ牽制させて頂いた私にとっては、随分と不穏な言い様ですけれど」
「それは君も悪いと思うよ?あんまり牽制しすぎれば、逆に目立つ」
ごくり、と冷めてしまったお茶を飲む。
緊張のなか喋りつづけた喉が痛すぎたということもあるが、すでにふたりの会話にとり残されて手持ち無沙汰でもあったのだ。熱々でも美味しかったが、乾いた喉には冷たい方が沁みなくてちょうど良い。しかし、お姫様と殿下のお茶は替えたほうが無難かもしれない。
「私にも予想できないことはございます」
「へぇ?それこそ滅多にないことじゃないかな」
「恐れ入りますわ」
新しく茶葉を使おうと手を伸ばせば、横からその手を取られる。
「はは。子犬ちゃん絡みだと冷静になれないという意味なら、気をつけたほうが良い」
なにごとかと隣を見やれば、存外に真剣な表情を浮かべた殿下がいらっしゃった。
しかし、またぞろ飛びだした不穏な発言に、やや目を眇めてしまう。
「って、そんなに睨まないでくれるかな?可愛い目が半分になってるよ」
「しつれいしま…っ!?」
さすがに失礼な目つきだったかもしれない、と謝ろうとすれば、取られた手がゆっくりと殿下の方へ引き寄せられた。
自分の手の行方を目で追えば、なんと指先が殿下の唇にふれているではないか。
殿下の、唇に。
私の、指。
「あれ、今度は目が落ちちゃいそうだね」
「なな!おやややめ」
「これが噂に聞いていた和むという気持ちかなぁ?」
指先から指の背に唇の感触が移動し、くすくすという笑い声とともに温かい吐息が指をくすぐっている。
あまりの驚きと慣れない状況に、指を引き抜くことも忘れる。しかし、万が一にも引き抜いた拍子に殿下の唇を傷つけてしまってはいけないのだから、通常の防衛本能が働かなかったのは良かったのかもしれない。ああ、思考回路がおかしい。
自分の指から目が離せない。
「殿下、それ以上のお戯れは御止め下さい。コニの目が零れ落ちてしまいますわ」
「そうだね、ごめんね?子犬ちゃん」
「は、」
頬にひんやりとした人肌が触れたと感じた瞬間、耳元でちゅ、という音が間近に聞こえた。
「殿下っ!」
「ははは!あんまり可愛いから、つい」
殿下の唇が触れた左耳だけでなく、首から上があつい。
そろそろ結婚適齢期を迎えようという年齢ではあるが、戯れにしても私には刺激が強すぎる。
あらためて、自分のお子ちゃまっぷりを痛感した。