お姫様と私、苦手なもの。
私には、世の中に苦手なモノが三つある。
「では、噂のレイチェル手製の紅茶でもいただこうかな?」
ひとつめは、ピーチェの皮。
ピンク色の可愛い見た目も甘い香りも瑞々しい果肉も大好きだけれど、皮ごと食べると口がちくちくして台無しなのだ。貴族様たちは皮を剥いた状態で食べるのが一般的みたいだけど、庶民は丸かじりが普通である。初めてかぶりついたときの、あのなんともいえない気分は忘れがたい。今は、ちょっと手間がかかるけど自分で剥いて食べている。
ふたつめは、哲学書の朗読。
本当なら私のような下町娘には、まったく必要ないどころかその存在さえ知らないで一生を終えるのが当然な書物である。不幸にも、レイチーの勉強に付き合って出会ってしまったが。その内容の難解さもさることながら、それ以上に朗読が苦手だ。哲学書っていうのは、つまるところ思想の流れを研究者が語ってるようなもので、結構恥ずかしい表現が目白押しなのだ。たとえば「薔薇に宿る妖精が流した涙を掬うが如くに私の思考の欠片が女の眼に映る様は儚くも雅やかであり云々」って黙読する分には問題ないけれど、先生やレイチーの前で朗読するのはちょっと遠慮させて頂きたい。なんで女に教えることは楽しいって書かないのだろうか。
そして、最後がサーベルト公爵家ご当主様その人である。
その名もローレル・サーベルト様。
お姫様の義理の兄上であり、レイチーをお姫様としてお屋敷に引き取ることを画策して実行した、貴族様におけるお姫様信者の第一号である。
その言動は、一見して丁寧で穏やかかつ優しげで美しい。容姿も女性的ではないが、どこか典雅な美しさが目映いばかりの典型的な貴族様である。だが、それはすべてご当主様の表面的な部分でしかない。
丁寧で穏やかな口調で吐き出すセリフは、毒々しい嫌味と反論の余地のないが言われたくない事実である。さらには優しげで美しい微笑のまま、言い寄ってきた(私ではない)侍女をお屋敷の外に叩きだすのである。
これはもう、裏表のある性格などというレベルではない。美しい薔薇にある棘のように、その鋭い棘をまったく隠すそぶりもないのだ。それでも騙される人間が後を絶たないのは、変な魔力が作用しているとしか思えない。
そんな魅力たっぷりで恐ろしいご当主様は、レイチーにだけは例外的に優しい。
というか、レイチーに嫌味を言われるような部分や、言われたくない事実を悟らせるような隙がないだけかしれないが。
しかしそんなレイチーの隣にいつもいる私には、当然そんな部分も隙も存分にあるわけで。
初対面の時から意地悪で嫌味っぽくてひたすらに正しく厳しいご当主様が苦手になるのに時間はかからなかったのも致し方がないことであろう。うん。
「もう、義兄上ったらコニをいぢめないで下さいな」
「ん?僕は何も意地悪なことなんてしていないだろう?…コニも後ろ暗いことがないのなら、僕の笑顔くらいで怯えないで欲しいな」
「ふゎ!ゼヒ!私にお茶を入れさせて下さい!」
レイチーにお茶を淹れてもらってるのを信者様に見られるという、いつぞやの杞憂と同じ状況である。やはり許されないことだったか。わかっていたことであるが、ちょっぴり期待してしまった。
お姫様の紅茶は美味しくて、こんなときじゃなければ飲めない。残念。
「…もう、コニの紅茶を飲みたいなら素直におっしゃればよろしくってよ」
ころころ笑ってるお姫様とご当主様は、さながら一枚の絵画のようである。
緑あふれる庭園に麗しい貴族の男女、そして私。傍から見たらどんな状況なのか、ってそりゃあ貴族の恋人同士とその侍女に見えるだろう。私がお茶を淹れているわけだし。
ああ、この茶葉はお湯を注ぐ前から良い香り。さすが特上品。
「なんのことかな、ただ僕はレイチェルの手が火傷しないか心配だっただけだよ」
「あら、私はそんなに不器用ではありませんわ」
「それは、薔薇以外の刺繍をしたハンカチをもらえるようになったということかな?」
「ふふふ…義兄上には薔薇がお似合いですわ」
そう、薔薇といえば、薔薇の花茶が作られたという噂だけれど、王宮で流行しそうな品物だ。きっと庶民には手の出ないお値段なのだろうが、一度くらい嗜んでみたい。
しかしながら、とりあえずは目の前のお茶だ。さっきのお湯の温度は大丈夫だっただろうか?
夏の陽ざしのせいだけではない汗が滲みそうである。
「ねぇ、コニもそう思うでしょう」
「う、うん?はい、ご当主様は薔薇みたいに綺麗です…!」
今は話しかけてくれるな、という勢いを殺しきれないまま良く分からない賛辞を送ってしまった。
しかし、この紅茶の蒸らし時間は繊細かつ慎重な見極めが必要なのだ。下手に渋いお茶など出そうものなら、ご当主様にどのようなお叱りを頂いてしまうかわからない。
ふるふるしている手を叱咤しつつ、茶漉し器をポットにセットする。
「へぇ?コニからそんな風に褒めてもらえる日が来るとはね…王宮にやってみるものだね」
ぽそりと呟いたご当主様の表情は柔らかく、とんちんかんな私の発言を嘲ったりする様子はない。
どのような賛辞でも、心からのものなら嫌味返しをされないということを学んだ。
「お茶がはいりました!」
「ありがとう」
「さて、侍女もやっていないらしいコニのお手並み拝見というところだね」
「…」
それは、あれですね。
お屋敷の方に、さも侍女をするようなことを言って、違う管轄で働いていることに関する不満を駄々漏らししているわけですね。なんというか、しつこいですご当主様。
「ちょっと薄い」
「すみません…」
「屋敷にいたときはもっと美味しかったのに。コニだけでも、また屋敷に戻るかい?」
「へ?」
もう一度修行し直せということだろうか。
だが、今はお掃除係なのでお茶を入れる技術はそこまで磨かなくても問題ない。それとも、この信者様はこのお茶会のためだけに修行しろとおっしゃっているのだろうか。
無茶です。
「義兄上、じゅうぶん美味しいですわ」
「はは、冗談だよ。コニ、あいかわらず紅茶を淹れるのは上手だね」
多少の嫌味な言い回しも、ご当主様だと思えば気にならない。
むしろ、これは一応褒めてもらったと解釈しても良さそうな雰囲気だ。
「ありがとうございます!ご当主様にそう言って頂ければ、王様にだって出せますね」
「…そんな予定があるのかい?」
「あら、いやですわ義兄上ったら…ものの喩えではありませんか。ねぇ、コニ?」
「紛らわしくて申し訳ありません」
「ああ、そんなにしょんぼりしなくて良いよ、コニ。今のは僕が少し穿ちすぎだった」
や、優しい。ご当主様が、私に優しい言葉をかけている。
珍しいというよりも、初めての出来事ではないだろうか。浮かべている笑いも、嘲笑や悪だくみの雰囲気のない、普通の苦笑いだ。
「ご当主様、」
ちょっと、いやかなり感動した。
ずっと威嚇どころか歯牙にもかけてくれなかった猛獣が、少し歩み寄ってきたかのような感動を覚えた。もちろん、まだまだ触らせてくれたりはしないレベルだが。
「先日、いきなり殿下がいらっしゃったときは驚いたよ。しかも、コニと知り合いとはね…」
「そのことに関しては、私から窘めさせて頂きましたわ。あんまりにも礼儀知らずですもの」
「うん。レイチェルの言うことなら耳を傾けて下さるだろう」
「そうだとよろしいですわね」
私がささやかな喜びをかみしめている間に、いつの間にかお二人の会話は先日の殿下による突撃お宅訪問の話題になっていた。
あのときのレモーネ・ケーキはホイップが崩れかかっても美味しかった。さすが王太子殿下の専属料理人製のことはある。またお相伴にあずかりたいものだ。
まぁ、だからといって再び同じ状況にならなければいけないなら食べられなくても問題はない。
「変に気に掛けられても困るし」
「あら、それが本音ですの?可愛らしいですわ、お義兄さま」
「…ふ、レイチェルがお義兄さまと呼んでくれるのは、久しぶりだね。嬉しいな」
「だって普段のお義兄さまったら堅苦しい愛想笑いばかりで気持ち悪いんですもの。そう思わない?コニ」
この会話の流れで私に振るとは、お姫様にまで意地悪病が感染したのだろうか。
切実にやめてほしい。
ここで下手に否定しても虐められるし、だからといって肯定するのはもっての外だ。ご当主様との会話のおかげで、貴族様や侍女さんたちとの会話には困らないが、一番どきどきするご当主様との会話にはいつも困らされるのだから意味はない。
「えっと、今日のようなお顔はとっても素敵だと思います」
なんだそれ。
いや、正直な気持ちなのだが。
「…ふぅん」
「ふ、ふふふ!」
「あは…」
とりあえずレイチーにならって笑ってみたが、ご当主様に睨まれたので慌てて笑いをひっこめた。
それを見てお姫様はますますご機嫌麗しい。
ちょっぴりイレギュラーな、いつものお庭でのお茶会だった。
この時にうっかりスルーしてしまったご当主様の懸念は、まさかの事態になって私に降りかかってくることになるのだが。
それはお姫様もご当主様も予測できないことだったのだから、もちろん私が想像できるはずもなく。
私を巻き込む嵐は、どんどん大きくなっていくのだろうか。