【幕間】昔のふたり。
私とレイチーには、第一印象というものがない。
気づいたら、レイチーは私の隣で微笑んでいた。
きっとレイチーも、気づいた時には隣で私が間抜けに笑っていたに違いない。
そんな私たちの、人生の転換点は十三歳の時である。
「うわーん!コニ姉、コニ姉ぇー」
「きゃあ!…シシィ、まぁたレイチーに悪戯したの?」
腰に抱きついてきた弟は、レイチーのことが好きなくせに素直になれなくて悪戯を繰り返しては大人げないレイチーにやり込められ、いつも泣いて私のところに帰ってくる。
まだ十一歳になったばかりなのに美少女好きとは将来が思いやられるが、姉の贔屓目を抜きにしてもわりと可愛い顔をしているから大丈夫かもしれない。むしろお人形のようで素敵な組み合わせだ。
エプロンで滲んだ涙を拭ってやれば、さらにぎゅっと抱きついてくる。可愛い奴である。
「違うもん、レイチーがコニ姉をさらってくって嘘つくのが悪いんだもん」
「さらってくって、そんな人聞きの悪い言い方してないわよ」
「レイチー!もう、じゃあ何て言ったの?」
シシィが飛び込んできた扉から、レイチーが顔を出す。
どうやら、この二人はお店がある表で口喧嘩をしていたらしい。他のお客さんの迷惑になっていなければ良いのだが、と思ったけど、この二人は近所の人気者だから平気だろうと思いなおす。むしろ微笑ましく見守られていた可能性が高い。
その喧嘩の内容は、あまり穏やかではないようだが。
「コニは私がもらってくからって言ったのよ」
「もらってって、」
「嫌だ!お屋敷になんか、レイチーだけで行けばいいじゃないか!コニ姉は関係ないって近所のみんなだって言ってたんだからなっ」
にこにこと悪戯っぽく笑っていたレイチーが、このシシィのセリフでちょっとムッとした顔になる。レイチーは、シシィと違ってあまり機嫌が表情に出ることはないので、珍しい。
「私だって嫌よ、一人で行くの。あんたには父さんも母さんも近所のみんなも居るんだから、コニくらいくれたって良いじゃない」
しかも、シシィ相手にこんな話し方をするのも珍しいことだ。いつもはからかうみたいに笑って煙に巻いてしまうのに。
そんなレイチーにひるんだ様子もないのは、さすが喧嘩慣れしてるシシィというところだろうか。他の近所の子供たちだと、笑ってないレイチーはみんなちょっと遠巻きなのだ。美人の無表情やら怒ってる顔は、凡人の倍怖いらしい。
私が怒っても、みんな全然怖がってくれないが。凡人以下ということだろうか。威厳とか。
ちょっとかなしい。
「いーやーだー!レイチーは自分の母さん連れてけば良いじゃないか!」
「無理よ、仕事があるもの。コニなら、私は淋しくないし行儀見習いにもなるし、一石二鳥じゃない?」
「…う、うえぇーん!やだよぉ」
まったく、シシィも結局レイチーには勝てないのになかなか懲りない。
レイチーなんかは、私がその度に慰めて甘やかすのが悪いというのだけれど、そうなのだろうか?でも涙でうるうるとしたシシィの目を見てしまったら、そんな冷たくすることなんてできない。
「シシィ、もうそんなに泣いたら目がとけちゃうわ」
「うっ…やだ」
「でしょう?ほら、飴あげるから母さんにもあげてきて?」
「ん、」
こくり、と頷いて部屋を出ていくシシィに、レイチーはふん!と息を吐いた。
シシィとムキになって喧嘩してるレイチーはいつもより子供っぽくて、ちょっと可愛い。
「ほんっと、コニの言うことだ・け・は!良く聞くガキね」
「シシィはおませさんだから、好きな子には意地悪しちゃうのよ。可愛いでしょ?」
私が姉バカな発言をすると、レイチーはいつも呆れた表情を隠さない。
きれいな長い髪をかき上げて、私を流し見るレイチーはどきりとするくらい大人っぽい。さっきまでのレイチーとのギャップがすごすぎて、ちょっとどきりとしてしまう。
「私、コニとだけは好きな人がかぶらない自信あるわ」
「ふーん、そうなの?」
「絶対よ」
「レイチーがそう言うなら、きっとそうなんだろうねぇ…良かった!」
なぜシシィの話から好きになる人の話になるのかは良く分からなかったが、とりあえずレイチーと好みがかぶらないのならそれに越したことはない。
だって、勝ち目がないもの。
「ふふ…それで、私はコニをもらっていけるのかしら?」
「そのことなんだけど、やっぱり迷っちゃうわ。シシィはまだ甘えんぼさんだし、貴族様のお屋敷はちょっと怖いし、私が一緒じゃなくてもレイチーはきっと大丈夫だし」
「大丈夫じゃないわよ!」
遮るような声に、ちょっとびっくりした。
でも、私以上にレイチーは自分の声に驚いたように口に手を当てた。これは、レイチーが気まずいって思ってるときにする仕草の内のひとつだ。
癖ひとつとっても、レイチーはどこか可愛らしい。
「レイチー…?」
「あのね、コニって私にとって、コニが思ってる以上に大切なのよ。これは誰が何と言おうと本当のことなの」
「うん…」
レイチーの真剣な眼は、大人のような静かな強さを秘めていて、ちょっぴり遠い人みたいだ。
まるで、とっても賢いお姫様のように。
「ま、良く考えてちょうだい」
そんな風にレイチーは言ってくれたけれど、私はちょっと嫌だなぁと思っていた。
このすぐ後に、思わぬ訪問を受けるまでは。
「君がコーネリア・シュミットだよね。…ふぅん、近くで見てもやっぱりこまねずみのようだね」
第一印象は、美麗。
その一瞬後には意地悪。そして最後には、怖いひと。
サーベルト家のご当主、ローレル様である。
この顛末に関しては、ちょっと思い出したくない。
レイチーのお屋敷行きをちょっとした幸運くらいに考えていた自分が情けなくなるような、自分の世界の小ささを思い知らされた出来事だった。ご当主様は、ただの下町娘に気を遣って話すような方ではないし。でも、その分だけ、レイチーの現実が厳しいということが真実として聞こえた。
ご当主様は、私たち庶民がいかに無知であるかを思い知らせに来たとしか思えなかったが、しかしながらその裏にはレイチーに対する深い思いやりがあった。
ひとりきりで、貴族社会に乗り込もうとしているレイチーへの気遣いが。
それは、私に強い印象を与えた。
簡単にいえば、私はお屋敷に上がる決意をしたのだ。
「シシィ、だってレイチーが本当は家族やみんなのこと大好きなの知ってるでしょ?みんなと離れてお屋敷に行くのはレイチーが決めたことだけど、ただ単にお姫様になりたいから行くわけじゃないの」
「…うん」
「もしレイチーがご当主様の言う通り王様のお気に入りになることができれば、王様もこの街を好きになってくれるわ。そしたら、高いお金を払わなくてもきれいな水が使えたり、壊れかけた橋で子供が怪我したりしなくなるかもしれないんだって。そういうことが大切だって、偉いひとに分かってもらいたいから、寂しいけどレイチーはお屋敷に行くのよ」
ご当主様に言われたことの受け売りで、説明されたことの半分も上手く言えていないけれど、ゆっくり思い出しながらシシィに話す。話しながら、自分でもやっぱりそうだよぁと再び思う。
レイチーはひとりでも頑張りたいって思ってるだろうけど、やっぱり大変なことなのだ。
「…でも、コニ姉は関係ない。レイチーだけで良いでしょ、お屋敷に行くのはさ…」
「シシィ!関係ないはずないでしょ、私だってこの街が大好きだもの!シシィがいるこの街が、もっときれいで安全になればいいって思ってるもの」
「うん、」
一生懸命に説明しているのだけれど、ご当主様が言うみたいには、なかなかいかない。
私はもう頷くことしかできなかったけれど、シシィはやっぱりどこか不満そうだ。
「私が隣にいれば、レイチーが淋しくてやっぱり街に帰りたいって挫けちゃいそうなときに怒ったり慰めたりできる。そういうひとが、貴族様たちにはいらっしゃらないんだって。それって、とってもかわいそうでしょ?そんな風にレイチーにはなって欲しくないの」
いつか、貴族様たちの中にもレイチーが隣に居て欲しいと思える人ができるまでは、せめて私くらいはレイチーの隣に居たい。生まれたときからの付き合いだもの。
「だって、でも…じゃあ、コニ姉が淋しくて街に帰りたいときは?レイチーは忙しいから慰めてくれないよ!そんなの、」
「あら!私にはシシィがいるじゃない。十日に一回は戻ってくるもの、そのときにへこたれていたら叱ってね?」
腰に抱きついていたシシィの腕を外し、膝をついてシシィの伏せられていた目と視線を合わせる。
目を合わせるのは真剣に話すときの、シュミット家のルールである。
「…うん」
「ふふ!ありがとう!!シシィならわかってくれるって思ってた、大好きよ」
抱きつけば、陽だまりの匂いがする。
このささやかな幸せがあれば、私はちょっぴり怖いお屋敷でも頑張れると思った。
「俺もコニ姉大好き」
「シシィ」
「だから、もしへこたれてたら絶対お屋敷には行かせないからね!お屋敷に行きたかったら元気でいてくれなきゃ、ゆるさないんだからね」
目はうるんだままであるが、シシィの口元にようやく笑みが戻った。
精いっぱいの譲歩なのだろう。これ以上反対しても意味がないと悟ったゆえの譲歩だとしても、この小さな弟には笑顔で送り出して欲しかったから嬉しい。
「あは、それは困るね。うん!がんばるよ。後悔なんてしない」
それから、お屋敷でのあれやこれやの連続に、やっぱりちょっと後悔したのはシシィには秘密だ。
お屋敷に行く前のふたり、とその周囲(主に弟)でした。
弟視点の番外をもうすぐあっぷする予定です。