婚約者が遠回しに「婚約解消しよう」と言ってきた
「レティ、僕はそろそろ違う花にしてみたいと思うんだ。……どう、かな?」
婚約者であるキール様は、半年程前から私とのお茶会の時見事な赤い薔薇を十一本くれるようになった。
赤く咲きこぼれる薔薇を、彼は赤髪を持つ私に例えているのだとずっと思っていた。その花を違うのにするということは――
「つまり、婚約解消ということですか? そして他の令嬢を選ぶということですか? 嫌です私だけ見ていてください。祟りますよ?」
「なんでそうなるの⁉」
どうやら違うらしい。
◇◇◇
私たち貴族の女性たちは、どんなことも遠回りに伝える。お手洗いに行きたいだって、かなり遠回りに言わなくてはならない。もちろん陰口だって。
だから、キール様もてっきり遠回しに「婚約解消しよう」と言ったのだと思ったのだ。
「――ここまでが私の見解ですが、違いましたか?」
「全然違う全然違う」
凄まじい勢いで首を横に振るキール様に、「あらぁ?」と返すとキール様が机に突っ伏した。
サラリと揺れる茶髪をつつくと、情けないうめき声がキール様から漏れる。
そんな私たちの間を通り抜けるように、サァ、と風が吹きキール様がくれた薔薇の花が揺れた。
彼が毎回くれるものだから、それ専用の花瓶が出来てしまいそこに薔薇は飾られている。レースのように波打つヒダがついた白い花瓶はとても美しい。
「……では、どうして花を変えたいとわざわざ言ったのです?」
「だって、レティは赤い薔薇が好きなんだろう?」
そのような事実はない。
首を捻る私に、のそりと顔を上げたキール様が不思議そうな顔をして言う。
「だってレティ、王家主催の夜会の時、必ず『お花摘みに行ってきます』と言うだろう? 王家の庭にはいつも赤い薔薇が咲いているからそうだと思ったんだ」
「王家の薔薇を摘むだなんて罰当たりなことはさすがの私も……」
「ああ、うん。レティは淑女だからしないって分かってるよ。見るだけに留めてるのかな、と思ったから王家のモノじゃないけど薔薇を毎回持ってきてたんだ」
なるほど、と私はひとりごちた。
「お手洗いに行ってきます」という意味の「お花摘みに行ってきます」をキール様は知らなかったのだろう。私の婚約者様はとても素直で可愛い人だから。
王家主催の夜会の時だと限定していたのは、王家の夜会の時は、女好きで妾が既に二人いる王太子の毒牙にかからないように片時も離れずにいるのに対し、それ以外の夜会ではお互い友人の所に行きその時に私がお手洗いに行っているせいだろう。
「キール様が赤い薔薇を毎回くれるのは、そういうことなんですね」
「うん。……そっか、全部僕の勘違いだったのか」
「はい」
ニコッと微笑みかけると脱力したようなため息をつきキール様が紅茶を飲む。
「冬になってから赤い薔薇を手にいれるのが大変だから、違う花にしたいと思ってたんだけど……。そもそも赤い薔薇自体が僕の空回りだったわけか」
「うふふ、私を不安にさせるなんていけない人」
「ごめん……」
しょんぼりと眉を下げながら「なんの花にしようかな」とキール様が呟く。
それから、妙案が浮かんだと言いたげに顔を輝かせた。
「あ、じゃあレティは本当はなんの花が好き?」
「ありませんわ」
きっぱり言えば、キール様の眉がもう一度下がる。
「じゃあ、赤い薔薇も迷惑だったのか……」
「いいえ、とぉっても嬉しかったですわ」
「へ?」
顔を上げたキール様を、そっと覗き込んだ。
「だって私は花が好きなのではなく、キール様が好きなんですもの。大好きな貴方が私を想って選んでくれた、その真心が一番嬉しいのです。
キール様が一生懸命選んでくれたモノなら私、たとえ虫食いだらけの花でも嬉しいですわ。むしろ虫を愛でます」
彼の鼻を、チョンと人差し指で押した。
「だから、私を沢山想って悩んでくださいね。貴方が私の為に費やしてくれた時間そのものが、途方もなく嬉しい贈り物ですから」
「……ああ、とびきりのモノを選ぶよ」
ようやく緊張が解けたように顔を綻ばせた彼が愛おしい。
しばらく見つめ合った末に、「あ」と声を私は上げた。
「そういえば、何故毎回十一本なのです?」
今日だってふんわり花弁を開かせた薔薇が十一本、きっかり花瓶に生けてある。
「――それはね、十一本の薔薇には『最愛』という意味があるからだよ」
真剣な顔をするキール様に、じわじわと私の胸に熱いモノが込み上がった。
好き。
貴方が一等好き。私をキール様にとっての唯一に選んでくれる、貴方が好き。
侯爵令嬢である私は、昔から既に女好きの兆候がある王太子の婚約者候補だった。出会った頃から王太子は「妾は五人は持つ!」と公言している人で、私はそれがたまらなく嫌だった。
私だけを特別に愛してくれる人が欲しかったから。
私が十三歳の頃、両親の愛は跡取りでもあり四歳という可愛い盛りでもある弟に一心に向けられていた。両親に特別愛されたいと願い続けても、顧みてもらうことはなかった。
そんな私には、妾や側妃を持つ気満々の――いや、むしろ私を妾や側妃にするかもしれない王太子を愛せる自信などなかった。
それでも断れるような理由も、私を庇ってくれる人もいないからなるべく存在感を消して、耐え忍んできた。
そんな時だ。キール様に出会ったのは。
その日は王太子の誕生日の夜会で、色々な貴族が大きなホールで戯れていた。
そんな中で、私は水色のドレスを弄びながら壁の花になっていた。王太子とダンスをする時まで待機していたのだ。王太子の婚約者候補の中でも暗黙の了解といえど序列があり、上の者から先に王太子と踊る。
真ん中辺りの私は、自分の番が来るまで一人寂しく待つのだ。
「あの、レティシア嬢。僕と踊っていただけませんか?」
「……はい?」
ジュースを喉に流し込んだ所で、公爵子息であるキール様に声をかけられた。王太子の婚約者候補にダンスの誘いをかけるだなんて普通ならあり得ない。
それに王太子は婚約者候補は全員自分のモノだと思っている節があるから、誘いを受けるだなんてと断ろうとした。
だけどキール様の真剣な眼差しに喉が詰まった。……いつぶりだろう。私をこんなに真っ直ぐに見つめてくれる人は。
「今日、レティシア嬢をこの夜会で見て、なんて綺麗な子なんだって見惚れてしまったんです。一目惚れです。
こんなことを言うのは、あまりにも礼儀がなってないと分かっております。だけど、それでも抑えきれない程にレティシア嬢に惹かれているんです。好き、なんです」
彼は跪き、私にもう一度手を差し出した。
「どうか一度だけでいいので、僕の恋心に報いてはくれませんか?」
「――私で、いいのですか?」
「貴女だから、いいのです」
私と同じ十三歳の彼が、必死に言葉を紡いでくれる。顔を真っ赤にしながら、たった一つだけの特別なモノを捧げてくれる。
どんなに大粒で美しい宝石よりも、お茶会で出る甘いクリームやチョコレートが載ったケーキよりも、その言葉は美しくて甘かった。
気づけば、彼の手を取っていた。
「……どうか、私の手を離さないでキール様」
「……? うん、レティシア嬢」
『貴方のお嫁さんになりたい』と暗に言ってみたが、彼はよく分からなそうに頷いている。
ああ、言葉とは彼のように真っ直ぐに言わねばならないのだと、私はようやく分かった。
「私と結婚して欲しいという意味です」
キール様の顔が真っ赤になり、首まで色づいている。
愛おしさが一層込み上げた。
そしてホールの真ん中まで、音楽に誘われるように来た私たちはお互いの手を取り目を合わせ踊った。周りの人の驚愕に満ちた視線なんて、ちっとも気にならなかった。
脳が痺れるくらいジンジンとして涙が出てしまいそうなくらい、この時間が愛おしかったから。
ようやく、痛くて痛くてたまらなかった心が満たされたから。
そして曲が一つ終わった後も、心地良い熱に身を委ねながら私たちは見つめ合っていた。
「おい、俺という婚約者がいるのになにをやっているんだ!」
そこに、王太子が割入ってくる。
なんて言おうか、と悩んでいる所で王太子から私を庇うようにキール様が前に出た。
「僕がレティシア嬢にとっては迷惑だと承知の上でお願いしたのです。すみませんでした、殿下」
「フンッ。レティシアには俺がいるんだ。パッとしない奴が出しゃばるな」
その言葉に触発されるように、私は強くキール様の手を掴んだ。
「キール様はとても格好いいです。チョコレート色の髪は触ってみたいくらいサラサラですし、瞳だって夏の空のように澄んでいてとても綺麗」
「なっ……」
絶句する王太子を私は強く見据える。
「申し訳ありません、殿下。私は真に愛する人を見つけてしまいました。
お願いします、婚約者候補から私を外してください」
――この波乱に波乱を呼んだ夜会の後、国王陛下や王妃様、そして両親に「あんな公の場で……!」とキール様と一緒に散々叱られた。
でも国王陛下も、「妾が欲しい!」とよく言っていた王太子に思う所はあったようで、最後に「すまなかった」と私に言い婚約者候補から外してくれた。
王太子は逃げるモノは追いかけたくなるタチのようで未だに夜会などで「やはりそんな男より俺の方がいいのでは?」と言ってくるが、その度にキール様があしらってくれるから怖くない。
懐かしいなぁ、と私は軽やかに笑う。
そうして笑ってから、十八歳となった彼の髪に私は花瓶から抜き取った一本の薔薇を水気を拭き取ってから挿した。私が怪我しないようにと既に棘は取り除かれているから、彼はキョトンとしながらも痛がっている様子はない。
「……レティ、なんで薔薇を僕に?」
「いえ、昔ある本で一本の薔薇を捧げる意味を読んだことがありまして。それを思い出したんですわ」
きっと彼は十一本以外の本数の薔薇を贈る意味も知っているだろう。
……ほら、すぐに顔が真っ赤になった。
「レ、レティ……」
「愛していますわ、キール様」
貴方が私を唯一にしてくれたように、私の唯一もキール様。
あの日手を差し伸べてくれた時、キール様だけではなく私も恋に落ちた。
「キール様に出会えて、私はとっても幸せです」
空色の瞳が見開かれる。ポロポロと美しい雫がキール様の頬を濡らした。
「……僕は、どれだけ頑張っても誰にも認めてもらえなくて、それがたまらなく苦しかった。そんな僕にとってレティは、光そのものだ。
僕の方こそ、沢山の幸せをありがとう」
その姿に、言葉に、胸が苦しいくらい締め付けられ、私はもう一度「大好きです」と言った。
いつの間にか、私の頬にも涙がポロリと転がっていた。
一本の薔薇の花言葉
『一目惚れ』『貴方しかいない』