くじら餅
ある日、世界が「終わった」と分かった日から三日。
世界は相変わらず混沌の中に居た。都街中では当たり前のように田中商事を非難するシュプレヒコールが聞こえ、それは田舎町に住む自分でも耳にするくらいだ。
世界が滅んだ。「外国人」が居なくなる。それを恐れた人々の暴動。
悲しみ、憎しみ、焦燥、色々な感情が入り混じって人々は声を上げている。
そしてそれは当人たる外国人達も同様。彼等は田中商事の言葉を信じず、まだ自分達が「生きている」と思って行動を起こす。
しかしそれは無駄に終わる。行動を起こした国の人々が次々と消え、その国土を維持していた当人たる人々が消えた事で、街も焦土になった。
それによる恐怖と混乱による混沌。世界は混乱、混乱、混乱の中にある。
今まで繋いできた命も、歴史も、そんなものまるで無かったかのように、緩やかに世界は終わりを迎えている。
三日、世界は混沌に包まれた。一週間。世界は混沌から脱しつつある。1か月。
そう。
それから1か月経った。経った。経ったから。
皆慣れた。世界が壊れた事に慣れた。外国人が消えた。この世から消えた。人類はたった一種。人類一種我が国のみ。
それ以外は全て「電気羊」だったのだからしょうがない。
世界が消え、人類が消え、この世に生きる人々の9割が消えてなくなったが。
だが。
人はまだ生きている。
昼頃、田中は階段を降り、自転車の鍵を外した。少しさび付いた鍵穴は少々その動作を愚図られせたが、自転車は鍵から解放され自由自在に動いている。
そんないつもの変わらない日常の一コマ。その中の小さな…………いや、大きな変化。
ガチャリ。鍵が外される音。そして田中より随分小さな自転車を動かしながら、目の前の少女が田中に尋ねた。
「田中、今日はどこに行く?」
少女。顔は幼い頃の田中によく似ている。あまり可愛くはない。だが可愛くないのが良い。
少女はその微妙な顔立ちを崩しながら、田中の顔をじっと見ている。
「今日はドイツに行く」
「ドイツ、了解」
田中の声に答え、少女は自転車にまたがり田中より先に漕ぎだした。そして並ぶ自動車の隙間に片足を立てながら自転車を止め、田中が来るのを待っていた。
少女の名前は少女。名前は無い。
あまり感情移入をしたくなかった。本当に?
「田中、ドイツに行こう。ドイツ」
少女は笑顔でこちらに手を振りながら自分を呼ぶ。
それを見て高揚感、そして罪悪感。色々な物をないまぜにしながら田中は追従する。
「じゃあ、ドイツに行こうか」
「ドイツっ!」
自分がしている事に罪悪感を覚えながら、しかしどこか微かに幸福に。田中は自転車を漕いだ。
「ドイツだーっ!」
勿論行く場所はドイツでない。近所を回るだけ。
しかし自分がドイツだと言えばそこはドイツとなる。行った事がない、もういけない。
そんな夢の外国に行く事が出来るのだ。
「田中、ドイツって何が美味しいっ!?」
「なんだろう、くじら餅かな?」
くじら餅は地元にあるしがない銘菓だ。勿論ドイツにはない。
しかしもうドイツはない。ならば。
「ドイツの名産くじら餅っ!」
自分に似た不細工な少女が叫ぶ。そうドイツの名産くじら餅。かなりもちっとしてほんのり甘い。素手で食べたら手がべったべた。そんな素朴な銘菓。
田中の密かな好物だ。
田中に似た不細工な少女と田中は自転車を漕ぎだし、ドイツへと旅立った。
今は無き国家。かつてあった物。そんなかつてを懐かしみながら田中は家から離れている。
「ドイツの名産くじら餅っ!」
「ドイツの名産くじら餅っ!」
「あはは、ドイツの名産くじら餅――!」
楽しそうな少女な声。その声を聞きながら田中は進む。
少女は電気羊だった。作られた存在。それが電気羊。
それは「世界」を失った人々に対しての補填。なぜそれがあるか。理由は様々だ。
だが。
まぁ、今はそんな事より散歩に出かけよう。
今日の行先は。
「ドイツだ」
「ドイツの名産くじら餅――!」
少女の声が蒼天の空にこだましていた。