春の花
女の子視点
「サク、ラ……?」
春の花だと、そう教えてくれたのはとある街の果物屋の店主だった。初めて見る果実にを眺めながら私の手を引く彼と店主が話している内容に耳を傾ければ、それがもうすぐで満開に咲くと話していた。私には何の花なのかは分からなかったけれど、彼は何か知っているようだった。
「見に、行くか?」
深々とフードをかぶる私を覗き込むように彼は尋ねてくる。はっきり言うと私はどうでも良かった。見たい、とは思わないし見たくない、とも思わない。
でも、彼のその問いかけに私はひっそりと頷いた。気になっていたはずの果実も、もう目には入らなかった。
自分でも、自分が不思議。
彼に手を引かれ、そのままついて行くのはいつものことなのに今はどうしてかいつもとは違うと思える。それが何故なのか分からなくて、それでも何故か足取りが軽くなるのを感じる。
彼が連れてってくれる。彼が私が見に行きたいと思ったところに手を引いてくれる。それが不思議なくらい、胸がいっぱいになる。それがどうしてなのかは、やはり分からないけれど。
たどり着いた先は一面に木々が立ち並ぶ場所だった。花壇などはなく、どこにも花は咲く様子はない。不思議に思って彼の顔を振り向くが彼は真っ直ぐ木々を眺めていた。彼に習うように私も気を見つめるがそれはただの木だった。
どうしても彼が何を見ているのかが分からなくて、私は彼の手を引いた。彼はちらりと私を横目に見たけどすぐに目をそらした。不思議に思っていると彼はゆっくりともと来た道を引き返した。
場所を、間違えたのだろうか。こっそりと彼に手を引かれながら後ろを振り返る。もう暖かくなる季節にも関わらず、木々には葉の一つさえなかった。
彼に手を引かれながらさっきの場所を思い出す。どこにも、花なんて咲いていなかった。地面は緑に覆われていたけれど、どこにも蕾一つなかった。
春の花。春に咲く、サクラという花。それが見れなかったことに、何故か残念に思う自分がいる。
何でだろう?
花なんて、普段なら何とも思わないのに。あの花ぐらいしか、目に留まらないのに。
ずっと、ずっと前に彼が見せてくれたあの花以外。
「キレイ」
あの花を見ると、いつもあのときの言葉を思い出す。他の花は気にもならないのに、あの花だけは忘れられない。今の彼が、今よりもずっと小さい姿で言ってくれた言葉。あの言葉だけはきっと、ずっと忘れない。…………でも。
「見に、行くか?」
何故か、今はこっちのほうが気になる。彼が、私が見たいと思ってると思って、連れて行ってくれたサクラがある場所。そこには何もなかったけど、私は何も気にならなかったけど。
………………彼は、どう思っているんだろう?
気にしてる?残念がってる?それとももう何とも思ってない?
分からない。何も、分からない。私は気にならなくとも、彼がどう思っているのかが、それが気になって仕方ない。
そんな自分がやっぱりちょっと不思議。
「行こう」
突然そう声をかけられたかと思えば、彼はまた私の手を引いて歩き出した。「どこに行くの?」と声に出して尋ねても、彼は何も言わなかった。私の手を引く彼の手は、いつもより少し強かった。
彼に連れられ、たどり着いた先はこの前の木々が立ち並ぶ場所だった。でも前とは違う。
そこは見渡す限り一面真っ白な場所だった。地面も、そして上を見上げても真っ白だった。
…………まるで、雪みたい。
そう思った。地面も空もいつか見た雪景色と同じだった。でも、やっぱり不思議。
彼に握られた手を握り返して思う。冷たくないそれは、まるで春の雪だった。
日に照らされても溶けない雪。上からも下からも覆い包むような雪。それは雪のように空から降ってくるのに、雪とは違うとわかる。
春の雪は、木に咲くんだ。
「……キレイ」
自然と、そう声になった。かつて彼が言った言葉が自然と自分の口から漏れた。不思議、でも胸がいっぱい。
「キレイだな」
私の言葉に彼が重ねてくる。真っ直ぐ私を見て、あの時よりも低くなった声で繰り返す。久しぶりに彼から聞くその言葉は、やっぱり変わらない。
「キレイ」
と私もまた言葉を繰り返す。あの時は何も言えなかったけど、今なら彼の言葉に返すことができる。
あの時から変わらない彼に、安堵を覚える私はきっとあの時から変わってる。
それはきっと良いことで、きっとそれは嬉しいことなんだと、今の私には少しだけ分かる。
「キレイだね」
変われた自分に、密かな安堵を覚えているのはまだ私は気がついていなかった。
変わらない彼に安堵して、変われた自分に安堵した。
それに気づくとき、きっと私はまた胸がいっぱいになるのだろう。
「行こう」
彼に手を引かれ、私もまたそれに続く。
サクラ。初めて見た春の花の名前を、きっともう私は忘れられない。
もう満開