秋の暮
男の子視点
「やぁ、そこの坊っちゃん。お前さん文字は読めるかい?」
彼女を連れて港町を歩いていると、突然軽薄そうな男に声を掛けられた。とっさに彼女を隠すように背後に引っ張ったけど、彼女は何とも思っていないようだった。
「文字が読めるんだったら、オレが良いもんやるよ」
何も答えていない俺に対して、相手は勝手に話を進める。だが、男が大量に抱えている代物と周囲の通行人たちが片手に携えたり、立ち止まってじっと眺めている様子を見ると、今から勧められるのが何かは簡単に予想できた。
「読めない」
そう小さく否定しても、相手は素知らぬ顔で話を進める。
「いやいや坊っちゃん。今どき文字も読めなきゃ損だよ?後学のためにもさ」
大体何を言われるのかは想像ができるが、何故か目の前の相手から逃げようとは思えない。
後ろに隠している彼女の顔が見られる前に早くしなくては。そう思うのに足は動かない。
いかにも身軽そうな喋り方をする眼の前の男が彼女の素顔を見たら、どんな態度になるかも理解できるのに。
何故か、俺は男の言葉の続きを待った。
「金をくれとは言わないさ。コイツを持って歩いてくれるだけで万々歳だよ!」
しかし、いつまでも足止めを食らうかという予想は呆気なく崩れた。
男はその腕に抱えていた一つを俺に手渡すと、スゴスゴと何処かに行ってしまった。
「持っているだけでいい」と言われ、大人しく持つ訳にはいかない。どんな罠かもしれないのだから。
捨てればいい。今すぐに手渡されたものを捨て場に向かって投げればいい。そう考えるのに、俺の足は動かない。渡されてものを持って立ちすくむばかり。
「どうしたの?」
後ろでやり取りを見ていた彼女にさえ声を掛けられる始末だ。
早く、これを捨てないと。この場から離れないと。
焦りが身を蝕む。やらなくてはいけないことはわかっているのに動けない。
「………………?」
不思議そうな彼女が、繋いでいた手を握り返してくる。そこに込められた小さな力に、俺はやっと足を一歩動かすことができた。
一歩前に出たら、あとは二歩三歩と続いて足が動いた。
そのまま勢いで宿まで戻れば、俺もようやく落ち着けた。
「どうか、したの?」
未だに、不思議そうに彼女が俺を見つめてくる。
俺のことをおかしなヤツとも思わない顔で見つめてくる。
「……何でも、ない」
俺がそう答えても、飽きずに俺を睨む。
睨む、なんて表現が彼女に似合わないことは、分かっているはずなのに。
結局、俺は誤魔化すために夕飯の買い出しを理由に宿を出た。彼女を無駄に外に出したくないので、一人宿においてきた。
でも、どれほど歩いても頭が回らない。さっきの優男の顔がチラついて離れない。
買い出しもろくに出来てない。
結局、適当にぶらついても考えは纏まらなかった。
妙に胸が詰まって、自分が何を焦ってるのかも分からなくなった。
宿に戻って一言彼女にいきなり一人置いていったことを謝ればよかったのに、それもできなかった。
彼女と目を合わせる気力さえなかった。
けれど、当たり前だけど彼女は怒ることもなく、ただ俺を見つめるだけ。
自分が何を悩んでいるのかさえ分かっていない情けない俺を、彼女はただ見つめる。
本当に、情けない。
それから会話をするでもなく、俺は今晩の飯を彼女に差し出して部屋から出た。
部屋の外に出てそのまま扉を背に蹲ると、本当に情けなさで一杯になった。
どうして今日はこんなにやるせない気持ちになるんだ。
どこか他人事のようにムカつく自分もいる。
とにかく早く寝よう。寝れば明日になる。明日になれば気分も変わる。今日のことも忘れる。
そう無理やり自分を納得させて、俺は強く目を瞑った。移動の疲れがきっといつものように俺を眠らせてくれると祈りながら。
翌朝、寝ぼけ頭をどうにか起こそうと水浴びをしていた俺に、誰かが後ろから声を掛けてきた。
ぼやけた視界のまま振り向けば、その眼の前に何かよく分からない物体が広がっていた。
驚いた俺はうっかり後ろに倒れ込んだが、至近距離だったそれから離れたことで、ようやくそこにあったものが何かが理解できた。
「脅かすなよ」
倒れ込んだはずみで手のひらについた砂粒を払いながら、恨めしさでそれを両手に広げて突っ立っている彼女に文句を言うが、何かが返ってくるはずもなかった。彼女はそれを両手に広げたまま、更に俺に押し当てようとする。
濡れた顔面でそれを受け止めてしまえば、凄惨な状況になることは嫌でも理解できた俺は、慌ててそれを押し留めた。
彼女が何をしたいのかは分からないが、だからといって受け止める気力もなかった。
「……何だよ」
昨夜のやるせない気分が、今も引きずっていることを自覚しながら俺は彼女に問いかける。
彼女は何を言うでもなく上半身裸の俺の横に腰を下ろした。
何か、言いたいことでもあるのか?
普段ではあまりない彼女の様子に疑問を感じていると、そんな俺を知ってか知らずか彼女はゆっくりと口を開いた。
「どうしたの?」
ゆっくり、淡々と。彼女は疑問を口にした。
「何でもない」と、俺が答えたはずの疑問を、また口にした。俺の横に座って、横目に俺を見つめながら。
彼女は二度も、同じ質問を口にした。
そのことに呆気にとられた俺は、無意識に一晩頭と胸の奥で渦巻いていたことを口にしていた。
「俺、文字が読みたい」と。
俺は文字が読めない。数字は普段遣いだから分かってなくてはいけないけど、言葉は読めない。
昨日あの優男から押し付けられた流行りの新聞には、俺の読めない文字の羅列でいっぱいだった。その事実がずっと、俺の胸中を燻っていた。
「俺、文字が読めるようになりたい」
また、勝手に言葉が口から漏れる。引きずり出される。
「文字の、勉強がしたい」
ワガママなことだって分かってるはずなのに。
勉強なんて、簡単にできることじゃない。
お金も時間も食われるだけで、文字が読めないからと食うに困るわけでもない。
勉強する間、絶対彼女を一人にしてしまう。
俺が彼女をずっと引っ張って歩いてきたのに、あまりに勝手すぎる。無責任だ。
「うん」
けれど、まるで彼女の許しを請うように黙ってしまった俺に彼女はただ一度、頷いた。
そこにどんな感情があるのかはわからないけど、俺はまるでその頷きに背を押されたように感じた。
「俺、字の勉強がしたい」
確かめるように俺が同じことを繰り返しても、彼女はまた「うん」と頷いた。
勉強する、なんて簡単なことじゃない。金も時間もかかるし、人とも関わりを持たなくちゃいけない。
なにより、今のようにあちこちを転々と移動する生活じゃ、絶対に無理だ。
彼女はそれが分かっているんだろうか?
文字が読めなくても、困ることなんてそうない。
今までみたいに、適当にその場その場でやっていけばいい。
文字が読めない人間なんて、町や村なら普通だ。
街にだって、多い方じゃないとも聞いた。
港や城下は情報や商品の扱いで自然と使うだけで、それ以外の地域では読めないことになんの問題もない。
それでも。
「俺、勉強がしたい」
何か、新しいことを身に着けたい。
冬になれば、海の水が凍り、船は出ない。
新しい土地に向かうこともできず、この港で留まるしかなくなる。
冬が来る前に、貨物船に乗って遠くに行かないと、逃げることもできなくなる。
それでも、ここなら文字が読める人がたくさんいる。
俺は、初めて寄り付いた土地に留まることにした。
同じ場所に居続けるのが危険なことだと分かっていても、俺はそう選択した。
自分がやりたいことをするために、彼女を巻き込んだ。
その分、絶対に彼女を守ると誓って。
お付き合いくださりありがとうございます。
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