七、黒猫
「少し、楽になってきた気がする」
皇帝がそういったのは、彼が私を抱きしめてから、しばらくたった頃だった。
「良かったですね」
「李。頬が赤いよ」
「あ、貴方が急に抱きしめるからです。全く……」
呪いの緩和になったのなら、良かったですが。そう言って私が頬をふくらませると、皇帝は花がほころぶように笑った。
「李はかわいいね」
「なっ……!」
「そんな可愛い李に贈り物」
私が真っ赤になったのを横目に、彼は文机から書類を取り出した。
「これは……名簿、ですか?」
「正解。正確に言えば、過去三月以内に行商を呼んだ宮の名簿」
私は驚く。皇帝も裏で色々と調べてくれていたのだ。私としては、体調のほうも大事にしてほしい。だが、事件の解決が彼の生死に関わっているし、これで東区画で秘密に猫を飼っている妃がわかる。
この後宮に野良猫はいないため、どうしても猫は行商から買う形になるのだ。
とにかく、すごくありがたい名簿である。
「陛下、ありがとうございます」
私は名簿に手を伸ばした。皇帝がひょいっと高く名簿を掲げる。
「あの……陛下?」
皇帝は、私より背が少しだけ高い。年齢的には私が上だが、そうおかしいこともない。ただ、そのせいで名簿を掲げられると、届かない。
しょうがないので、私はぴょんぴょんと跳ねる。
「陛下!お戯れを!やめて!ください!」
「ふふ」
「何を笑っているんですか」
私にはその名簿が必要なのだ。怒りながら跳ぶ。そうすると皇帝は可笑しそうに笑った。
「じゃあ、李。これを渡す代わりに……友達になってくれない?」
「そんなもの!なくても!なりますよ!!」
私が跳ねながらそう言うと、皇帝は心底嬉しそうな顔をした。
月はない、新月の夜だった。呪いの発動まで、あとたったの半月である。
「ねえ莉莉、本当に行くつもりなの?」
翌日、皇帝からもらった名簿を見た私は、東区画に向かっていた。
急ぎ足で進む私を、おびえきった津津がなんとか止めようとしてきた。
「止めるな、津津。私は事件を解決せねばならないんだ」
「だからって、春妃様のもとに行くだなんて……」
そう。昨日貰った名簿を見たところ、三月以内に東区画では、行商の来歴がある妃は、東区一の妃、春妃のみだった。
これは、一つの可能性を導きだす。
【猫嫌いのはずの春妃が猫を飼っている?】
しかも、彼女が呼んだ行商人は南から来ている。これは雪朱様の猫の出身と同じである。
ばらばらだった物事が、春妃を中心にまとまってきている。
「とにかく春妃様に事情を聞くしかない」
幸いこちらには、皇帝の書状もある。これは皇帝にしか使えない紙に、「この者の言うことを聞くように」と書いてある。
これさえあれば、門前払いは無いはずだ。……多分!
「莉莉って、時々無鉄砲だよね……」
津津が呆れたようにつぶやく声が聞こえた。
「それのおかげで、この前私は、桃妃や夏妃とも仲良くなれたんだぞ」
「す、すごい!莉莉、その話詳しく……」
「すまないが、また後でな」
私は名残惜しそうな津津をおいて、春宮に向かった。
「春妃様はいらっしゃいません」
宮の前で二時間ほど待たされた後、私はそう言われた。がっくりくる。女官服が風に揺れて大変寒い。
居るかどうかの確認に二時間もかかるものか。
どうやら、ただで通してはくれなさそうだ。
「こちらには皇帝陛下の書状もあります。どうかお目通り願えないでしょうか」
「いらっしゃらないと言っております」
侍女は、書状を一瞥すると無機質にそう言った。
「でしたら、帰ってこられるのをお待ちいたします」
「春妃様はそういったことは好みません」
取り付く島もない。ここはいったんあきらめるふりをして、忍び込むか。
「わかりました。春妃様の猫について知りたかったのですが……」
「今、なんとおっしゃいましたか」
私が物騒な計画を考えていると、侍女が聞き返してきた。
「ですから春妃様の猫を……」
私がそう言うと、彼女は目に見えて青くなり、宮のほうにひっこんでいった。
しばらくして戻ってくる。
そして、唖然としている私に言い放った。
「春妃様がお会いになるそうです」
宮の奥に通されると、そこは月の都のようだった。磨かれた家具がきらびやかに並んでいる。
春妃は部屋の中央で、長椅子にもたれていた。一目で彼女が春妃だとわかるほど、美しい。透けるような薄青色の衣に亜麻色の髪が映えている。歳は18、19といった風情で、女性らしい柔らかな体つきをしていた。
「待たせてごめんなさいね。なにか行き違いがあったみたい」
ゆったりと、甘い口調で春妃が話す。
「いえ、それで春妃様にお話しを伺いたいのですが……」
猫のことで、と付け加える。
「あらあら、言っていなかったかしら?わたし、猫は苦手なの」
「そうですか……」
「だって、ほら。いっぱい鳴くじゃない。にゃあにゃあって」
そう言って可愛らしく笑った。彼女の柔らかい口調はつい心を許してしまいたくなる。それほどに魅力的だった。
でも私はこれで丸め込まれるわけにはいかない。雪朱様と皇帝を助けるためにも切りこまなければ。
「でも、春妃様は猫を飼っていらっしゃいますよね」
その途端、春妃の雰囲気が変わった。口元は相変わらず微笑んでいるが、目だけが笑っていなかった。一瞬の後、また元の柔らかい雰囲気に戻る。
「そうね。嫌いだけれど、飼っていないとは言ってないわ」
やはり推論は当たっていた。春妃は猫嫌いにもかかわらず、猫を飼っている!
「いつからですか?」
「ええと、三月前から」
私は推理を広げる。三月前から飼っている白猫を途中で猫鬼に使ったとする。しかし桃妃は今もくしゃみがすると言っていった。
となると、
【今飼っている猫は雪朱様の猫ではないか】
雪朱様に罪をなすりつけるためには、彼女の猫を行方不明にする必要がある。その上、自分の猫がいるという証明にもなるから一石二鳥だ。
「耳だけが黒い白猫ですか?」
「あらあら、怖い顔。でも残念。わたしの猫は黒い猫なの」
春妃は、侍女に何かを耳打ちする。どうやら猫を持ってきてくれるようだ。
しかし、本当に黒い猫だったとしたら、私の推理は外れたことになる。
奥から侍女が布を被せた檻を持ってきた。
その中にいたのは、
「……黒猫、ですね」
「ええ、黒猫ですわ」
春妃が勝ち誇ったように、微笑む。
猫の体は柔らかい黒色だ。春妃の膝に乗せられて、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
私の推理の勝ち負けは明確だった。
「話を聞いていただき、ありがとうございました」
「あら、もう行ってしまうの?ゆっくりしていけばいいのに」
「いえ、他にも調査がありますので」
春宮の廊下を渡る間、私は無言で下を向く。
私は甘かった。これからの作戦を練り直さなくてはならない。
だって
――犯人は春妃だ。