三、契約
「それで君は、僕を殺すつもりなんだ?」
「こ、殺す?」
皇帝の言葉に、私は面食らう。彼のあまりの美しさに呆けてしまっていたのも関係しているだろう。あるべきところに、あるべきものがある。この世のものと思えないほど整った顔立ちは、少しの幼さと微笑みで、かろうじて優しい印象を帯びている。
天女。そういえば、初代皇帝は月から来た天女を娶ったという。
私は一つ息を吐く。落ち着け、私。
「殺すつもりはございません。むしろ皇帝陛下をお助けするために参りました」
スッと居住まいを正す。蜘蛛の巣が頭に絡まっている姿だが、多少はましだろう。
「へえ、助けてくれるの」
皇帝は一切表情を変えない。柔和な笑顔のままだ。まるで、陽だまりの猫のようにあたたかい笑み。不審者だと声をあげ、逃げることもしない。
自分の生き死にが他人事であるかのようだ。
私は続ける。
「私は後宮で働く。宦官でございます」
ふーん、と興味があるのかないのかわからない返事を皇帝は返す。
どちらにせよ、話すしかない。
「――以前見つかった『猫鬼』の犯人は別におります」
猫鬼の名前をだしたとき、初めて皇帝が表情を変えた。ただ、一瞬のことだったので感情までは読み取れない。
私は丁寧に、以前読んだ書物のこと、それによると術者は言い当てられると呪いが返ってくるはずであることを伝えた。特に雪朱様は犯人ではないことを強調する。
「そういうわけで、まだ皇帝陛下の呪いは解けておりません。真犯人を言い当てなければ――」
「ねえ」
そのとき、黙って聞いていた皇帝が口を開いた。
「君、名前は」
「はい?り、李とでもお呼びください」
本名を明かすわけにはいかない。後宮から抜け出してきたこともあるし、雪朱様と仲の良かった女官だと知れたら、発言を信用してもらえない。
「じゃあ、李」
皇帝はふわふわと楽しげにこちらに近づく。跪いて話していた私の顎をそっともちあげた。薄氷の瞳に呆けたような私が映る。
「君が犯人を見つければいい」
「私が、ですか」
思わず息を飲む。
「李は雪妃を助けたいんでしょ?いいよ、信じてあげる」
彼の目の光が消える。底が見えず、怖い。真意まで見抜かれていたようだ。
皇帝は、スッと目をそらして、呟いた。
「ついでに僕も助けてよ」
その声音が、表情が、傷ついた猫のようでなぜか胸が苦しくなった。猫は死に際を見せない。弱った体を引きずって、いつの間にかいなくなるのだ。
少年の姿はまるでいなくなる前の猫だ。
「失礼いたします」
だから私は衝動的に
――皇帝の頭をなでた。
「は」
皇帝が固まる。彼が動揺したのは、これがはじめてだ。部屋に私がいた時も、呪いの話をしたときも、目に見えて動揺することはなかった。
それなのに、今は固まっている。
その間にも私は彼の頭を優しくなでる。銀の髪が私の手からこぼれた。猫よりも毛並みがいい。いや、毛並みというのは失礼か。
「……どういうつもり」
「え、えーと」
私も自分がわからない。正直皇帝本人よりも混乱している自信がある。こんな畏れ多いこと。でも、今はこうしなければ、彼はどこかに行ってしまう、そんな気がした。
「以前、別の本で読みました。猫鬼は殺された猫の悲しみからきているため、それをなぐさめると症状が和らぐ……と」
本当である。しかし、そこまで信憑性の高い本ではなかったが。
しかし、我ながらこれはひどい。
「申し訳ありません。今やめます」
私が手を放そうとしたとき、
「待って」
「え!」
皇帝が私の手をつかんだ。そしてまた、自らの頭に私の手を乗せる。そのまま独り言のように続ける。
「……痣が薄くなってる」
皇帝は袖をまくって見せた。上質な絹で出来た袖の向こうを見て、私は絶句する。
「呪詛……」
それは、猫鬼の箱の表面に書かれていた呪詛の言葉だった。それが皇帝の腕に痣のように浮かび上がっている。
「さっきまではもっと濃かったんだ」
「そんな」
そんななんでもないことのように言うな。言葉が喉まで出かける。
ここまで強い呪いの効果が、痣が出来るだけではないはずだ。もっと辛い症状も抱えているだろう。皇帝はそれでも笑っていたのだ。まるで猫鬼に侵されているのを隠していた母のように。
(母の苦しみに気づけなかった私に、何の生きる意味があるのか)
幼い頃の叫びを思い出す。私は泣き出してしまいたいような気持になった。
――皇帝はあと一月で呪殺される。
その事実に気づいてから、私はどうやらおかしくなってしまったようだ。
私が、後宮に入ったのが一月前で、猫鬼が仕込まれたのが推定二月前。猫鬼の発動条件の三月まで、あと一月かそこらしかない。
「……」
私は無言でなでるのを再開する。
しばらくそういう時間が続く。月夜の晩に囁きながら頭をなでる。見た目だけだと少年同士で睦あっているようにしか見えない。しかし、私は実は女であるし、そこに甘い感情はない。
ただ、切実さはあった。
「ふふっ」
しばらくなでていたら皇帝が目を細めた。本当に猫みたいだ。
「君は撫でるのが上手いね」
「……猫を撫でると、すぐ腹を見せると評判でしたので」
どうか、殺された猫の、この少年の、癒えない傷が癒えますように。そう念じながら優しく、撫でる。
月が目に見えて西に落ちたころ、私は手を放した。皇帝はじっとこちらを見つめたが、私も後宮に戻らなければならない。その旨を伝える。
「私も後宮での務めがあります。それに、猫鬼の犯人を捕まえなければならないですし」
「そう……」
すると彼は、しばらく思案した。
そして
「良いことを思い付いた」
そう言って手をたたく。ほころんだ花のような笑みは、見ていると心がじんわり暖かくなる。
彼は私の手をそっとすくいあげた。
「李、僕と契約を結ばない?」
「契約?」
彼の瞳に私が映る。
「君が猫鬼の犯人を見つけられるよう、僕から書状を出す」
「良いのですか」
皇帝からの書状があれば、一女官であっても行動しやすくなる。特に目上の妃に対して話を聞きやすい。
「その代わり5日に一度、こうして会って欲しい」
「会う?」
私は驚いて、聞き返す。むしろ、事件の調査報告が出来るぶん、私としてはありがたいが。
「君はこっちに来づらいだろうから、僕のほうから後宮に行く。だめかな?」
彼は命令してこない。本当に、想像していた皇帝像とはかけ離れている。
もしかしたら、心細いのかもしれない。呪いにかかっている15歳の少年なのだから、当たり前だ。
……安心させてやりたい、そう思った。私は17歳。彼より二つも年上なのだから。
私は、笑って答える。
「わかりました。お待ちしております」
「良かった。じゃあ、約束。」
「約束です。また5日後に」
こうして、私は皇帝と契約を結んだ。嘘と真が入り混じった期限付きの契約。
その約束を知っているのは、私達を除いては満月だけだった。
……そういえばあの化け猫は何だったのだろう?




