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一、事件

「行くな」


私の裾をつかんで、まだ年若い皇帝は呟いた。


後宮の一室。用意された部屋には、私と彼しかいない。


彼の寒月を思わせる白銀の髪が、さらりと揺れる。その前髪の奥の瞳は、珍しく熱を帯びていた。薄氷のような水色の瞳は、いつも不思議と陽だまりの猫を思わせる。しかしそれは、彼が今まで優しい笑みを浮かべてくれていたからだと気づいた。


真剣な表情の彼は、冷たく、熱く、少し、怖い。


「は……?」


思考が混乱する。


貴方もこういう顔が出来るのか、とか。


意外と男の人の手なんだな、とか。


借りた男物の服がよれてしまうからやめてほしい、とか。


そういうどうでもいいことを考えそうになる。


ただ、


――行くな


告白のような、子供の我儘のような言葉が、私の頭を甘く痺れさせた。


何をボサっとしているのだ。私は。


流されそうな自分を強く律する。そうだ、冷静にならなければならない。


だってこの逢瀬は……『期限付き』なのだから。


そもそも、一商家の娘である私が、夜中に皇帝と二人で会っていることがおかしいのだ。そこには、深淵なる事情と、私の杜撰な計画が関係している。


これは猫と後宮、そして呪いの物語。


全ては、ひと月前に遡る。




皇帝陛下には、愛猫がいたらしい。


その噂を聞けたことは、後宮に捨てられた私にとって良いことだった。


猫は好きだ。母上が死んだ日も、義母に追い出された日も、父上が後宮行きを命じた日も、猫たちは静かに私のそばにいた。


どうせここから出られないのなら、皇帝は猫の温かさを知っている人だと思いたい。


「莉莉、眉間にしわがよっているわよ?」


「は、はい。雪朱様。」


私が考えこんでいると、お仕えしている雪朱様が頬をつついてきた。


「貴女は私つきの女官なのよ。もっとほわほわ笑って頂戴な」


「ですが、私にゅ」


私などが笑ったところで……そう言おうとしたとき、雪朱様が私の頬をぱしっと掴んだ。


「いつ、皇帝陛下のお渡りがあるかわからないの。今はまだお越しにならないけれど、その時は莉莉にも機会があるかもしれないのよ」


利莉は可愛いのだから!そう力説する雪朱様は私よりも高位の雪妃である。わざわざ北の国から招かれただけあって、今いる部屋は広く、調度品も高そうだ。雪朱様の薄墨色の髪に刺さっている簪だけで、一生暮らせる者もいるだろう。


貴族相手の書舗(本屋)であった私の実家にもなかった希少本も多くある。


そんな彼女は、何かと私を目にかけてくれているのだ。そのことには本当に感謝をしている……が。


「……女官である私よりも、雪朱様のほうが皇帝と、その、機会があるのではないですか」


「こんな美女を一年も放っておくような殿方、こちらからお断りだわ」


「せ、雪朱様!」


北の戦闘民族の出であることもあり、かなり彼女は奔放だ。ただ、彼女のいう通り、皇帝は即位してから一年、どの妃のもとにも渡っていない。政治は順調であるし、まだ15と年若いため、女性に興味がないのであろう。


「そのぶん、莉莉は好きよ。強い人は好きだわ」


雪朱様は私のうねった茶髪(雪朱様は亜麻色と褒めて下さる)を手に絡める。


ちなみに瞳はそれより黄色がかった茶色(雪朱様は琥珀色とおっしゃる)である。


「父上からは、男勝りだと散々嫌がられましたけどね」


「そんなことないわ。莉莉は可愛いわよ。まるで……」


「まるで?」


カラカラと笑っていた雪朱様が急に押し黙る。


「何でもないわ」


雪朱様はたまにこういうことがある。大抵その目は少し沈んでいるのだ。


「ねえ、莉莉はいなくならないでね」


「私は……」


と、その時、血相を変えた宦官が飛び込んできた。




「――雪妃様!皇帝陛下が!皇帝陛下がいらっしゃいました!」


「はぁ!?」


雪朱様はすっとんきょうな声をあげた。私は無言で彼女を庇い、後ろに隠す。本来ならそのようなことをする必要はない。ただ、皇帝が妃のもとに足を運んだ、それだけだ。本来なら。


「ただ、ご様子が!」


宦官が大声でまくしたてる。


私にははっきりと聞こえていた。その後ろから来る、たくさんの武器と防具のこすれる音が。


「私は逃げない。やましいことなんて何もないもの。ね、莉莉」


そういう雪朱様の声は震えていた。


確かにここで逃げるのは悪手だ。こちらにやましいことがないかぎり、逃げる必要はない。どうせ相手は大国だ。今逃げたからといって安全の保障はないのである。


騒ぎたてる宦官を外においやり、他の女官とともに雪朱様の支度を行う。私達自身も飾り立てる。ここは後宮、美しさは武器だ。


ややあって、多くの宮兵をともなって、皇帝が現れた。といっても、本人らしき人物は見えない。宮の前に停まった、馬車の中にいるのだろう。


私達の前には、体格の良い宦官が一人立っていた。何度か見たことがある。後宮のまとめ役をやっている人物だ。


彼は、怒りで顔を赤黒くしながら、雪朱様に言い放った。


「雪妃、いや唐雪朱、貴様皇帝陛下を


――呪ったな」


は?


呪った?雪朱様が、皇帝を?


あまりの言葉に、驚いて雪朱様を見る。


雪朱様は予想外の言葉に呆然としているようだった。その姿を見て、私は頭に血がのぼっていくのを感じた。


「恐れながら!」


「なんだ貴様は?」


男がじろりと私を見る。私はひるまない。こんな視線、義母の恐ろしさに比べればなんてことない。


「雪妃様つき女官の文莉莉と申します。雪妃様が呪ったとおっしゃる、そのいわれはなんでしょうか?」


「文……ああ、書舗の娘か。生意気な。しかしいいだろう。教えてやる」


男が、奥の宮兵から木箱を受け取る。両手で持ってちょうど良い大きさの箱には、びっしりと、皇帝への呪いの文言が刻まれていた。


「これが、皇帝陛下の通られる廊下の下にあった」


私はすごく嫌な予感がする。箱の中を見てはいけないと、体中が警戒を発している。母上が私の手の中で冷たくなっていった恐怖と悲しみが、ぶり返そうとしていた。


だってその箱を知っている。その箱の中身を知っている。


その箱の中には――


――小さな猫の死体があった。


私の母上は猫を使った呪い、『猫鬼』によって義母に呪い殺されたのだ。


「ひゅっ」


小さな声が隣であがる。雪朱様の目が見開かれていた。その目から涙が零れ落ちる。


「白っ……!白っ……!」


小さく猫のものだと思われる名前を繰り返す。私が後宮に入ったのは、一月前。それ以前に飼っていた猫なのだろう。ただ、猫の死体は綺麗なものだった。白い毛並みもほんのり黒い耳も一か月前のものだとは思えない。しかし『猫鬼』とはそういうものなのだ。


「やはり貴様の猫か。『猫鬼』にはよくなついた猫が必要だという。この……悪女めが」


「わ、私じゃないわ!私がこんな、こんなこと!」


雪朱様が叫ぶ。


耳鳴りがする。雪朱様を庇う言葉を言ったが、聞き入れてもらえない。


またか。また私は、大切な人を失うのか。


全ての声が遠くに聞こえる。ひと際若い宮兵のひとりがじっとこちらを見ていた。



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