第2話 昨日に取り残されたように
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「りんー、僕は世海ちゃんが大好きだけど恥ずかしいからおっぱいも太ももも揉みたいけど揉めないです、って、ほらー、早く復唱ー、ふくしょうー」
「そんなこと言えるか」
「けち」
「いや、けちじゃない」
「凛はわがままだなぁ」
世海は無愛想な顔を一層に歪ませる。頬をふくらませてふて腐れたようだが、凛以外には違いがわからない。
通学路唯一の信号機――、
国道沿い。校舎へ続く坂道の前で――、世海は道端に咲くきいろい花へかがみ込む。
「マリーゴールドだー」
笑わない笑顔。楽しそうには見えないが、凛にはわかる。世海は純粋な性格。だが不器用で所々、おかしい。
小さいころは、もっと素直だった。無邪気に笑うこともあった。今はなにをしても「棒読みの世海」
そうしてしまったのは、自分のせい。
凛は奥底に懺悔と負い目を感じていた。だが、言葉には出せない。
「りんー、復唱はー? まだー? ねー? みてみてー? 綺麗だねー。りんー」
振り返る世海の視線はまるで昨日を覗くよう。凛は過去に取り残されたように錯覚する。彼女だけが先に行ってしまったように、つい手を伸ばして世海の手を掴む。
「……? なに? 凛」
「え……、あ、いや……、別に」
「凛って、やっぱり、えっちだね」
「ち、違――! こ、これは……、つい」
「つい、女の子の手を握っちゃうの? 凛は」
「――ッ! わ、悪いかよ! 握ったっていいだろ。友達なんだから」
「いいよ」
「……っ」
「友達だもんね。大切な親友。凛と私はずっと一緒だもん。手くらい握らないとね。凛がいなくなっちゃったら困るもん」
――ぎゅ。
世海は凛の手を力強く握りかえす。華奢な体格。色の白い肌。だが凛の手を覆い尽くしてしまう大きな母性。手のひらを通して伝わる体温が、妙にむず痒くて、凛は言葉に詰まる。
「ところで凛、胸大きくなった?」
「……は?」
「なんか、おっきくなった気がする」
「な、なに言ってんだよ。世海ちゃん」
「なんか、胸元、えっちだよ」
「ど、どこがだよ。胸なんかない。僕は男なんだから」
「そうだけど……、えろいよ」
「変な言い方するな」
「じゃあ、セクシー」
「英語にしてもだめだ!」
「じゃあ、ゼクシィ?」
「結婚する予定はない!」
「じゃあ……、えっとフランス語だと……、なんて言うのかな?」
「知るか!」
「えー、おしえてよー、りんー、りんー」
凛は怒ったように踵を返すが、信号機は止まったまま。「りんー、まってー」と声がするが、まだ向こうへは渡れない。凛は立ち止まる。
路上に駐車された自動車に映る自分たちの姿。
ブレザーにブラウス、水色のリボンとミニスカート。世海と僕の関係は、どう見えるだろう。
「りんー、ぎゅうっ、だよ」
「――う、うん……」
手を繋ぐ仲良しの女子高生。問いかけた疑問を、凛はすぐに自分で答える。スカート履いた僕は、自動車に映る僕は、女の子に見える。「かわいい」かどうかは判断できないが、男には見えない。コスプレをしているようにも、自分の目にはそう思えない。背の小さい、発達の遅い、女子高生か中学生――、客観的に見たらそうだ。
「ねえ、凛。私ね、おっぱい大きくなった」
「……あぁ、そう」
「ほら、――ぎゅうぎゅう♪」
世海は凛の腕をつかんで胸を押し当てる。腕に挟んで寄せて上げて、谷間を強調する。
小柄だがよく発達した胸元は、確かに大きい。ブラウスがはち切れそうなほどに膨らんでいる。女性らしい体型に、豊満な乳房はもうすっかり大人の体。あのころとは違う。過去に取り残されてしまった僕とは違って。と凛は影を落とす。
「ほらぁー、りんー、ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうー♪」
「や、やめろよ。こんなところで」
「えー? なんでー? 好きでしょー? 大きいおっぱいー」
「ば、場所を選べ」
「えー? でも何カップか知りたくないの? 揉みたい? 触りたい?」
「え、えっちなのは世海ちゃんのほうだ!」
「えっちな女の子の方がすき?」
「言わない!」
「なんか冷たいー」
「普通だろ。こんな人目につくところで。世海ちゃんの方がおかしい」
「謝って」
「え?」
「傷ついた。謝れ」
「え、な、なんで?」
「女の子がこんなにも迫ってるのに、冷たい態度をとったことを謝罪して」
「……っ、い、嫌だ」
「だめ。謝って」
「断る」
「謝れー、あやまれー、りんー、あやまれー、謝罪ー」
「誰がするか」
「りんー、謝罪しろー、あやまれー、変態ー、女装男子ー、謝罪謝罪謝罪謝罪ー」
「う、うるさい」
「じゃあ、早く謝って」
「わかったよ。ご、ごめん……」
「だめ」
「はぁ?」
「そんなんじゃだめ。もっと丁寧に、真摯に、想いをこめて」
「……っ……、も、申し訳ございません。でした」
「だめー」
「どうしたらいいんだよ」
「そうね。愛が足りない。私のおっぱいに対しての愛情がなさすぎる」
「元からないし」
「はいー、また言ったー。今の言葉分、また謝罪ね」
「面倒な女だな」
「僕は世海ちゃんのおっぱいを無下に扱ってしまって後悔しています。これからはもっとおっぱいに愛をもって、興味を持って暮らします。はい、復唱」
「長すぎる!」
「ほら、はやくー、復唱ーふくしょうー、ふくしょうーしろー」
「はいはい! 僕は……、えっと、世海ちゃんのおっぱいにもっと興味を持って愛情深く暮らします……、だっけ? これでいい?」
「だめ。適当すぎる」
「どうしたらいんだよ、僕は」
「凛は愛が足らなすぎる。私に対して」
「そんなこと言われても……」
「大体、凛のことを想ったおかげで大きくなったおっぱいなのに、凛は私のおっぱいを大事にしてない」
「いや、成長ホルモンと遺伝のおかげだろ。想いとかじゃなくて」
「ううん。愛。愛の力なの。おっぱいは愛が詰まった塊なの」
「あぁ、そう」
「バカにしてるでしょ? またオカルトだって。世海ちゃんのメンヘラ話が始まるって」
「そんなことは……、思ってないけど」
「嘘だ。凛は嘘つきだもん。嘘ばっかり。さいてーだ。さいてーさいてーさいてー」
「世海ちゃんは……、子供のままだ……」
淡々と子供じみたことを言う世海に安心する。見た目は大人になっても、やっぱりあのころと変わらない。わがままで頼りない世海ちゃん。凛は地に足が着く。
「凛だってそうでしょ。成長ホルモンのおかげなら、じゃあ、なんで凛は大きくならないの?」
「男だから」
「それはおっぱいのことでしょ? この手も。身長も。顔も。声も。凛は変わらないじゃない。あのころから、なにも」
「それは……、う、うぅ……」
「愛がないからよ。そうよ。凛は愛がないの。だから大きくならない」
凛には大きな悩みが二つあった。
一つは、心的外傷のせいで、一人では生きられないこと。常に誰かの助けが必要な人生。多くの人に迷惑をかけ、心配をさせていること。だから逃げてばかりではなく、自分も勇気を出して前に進もうと決意し、高校へ進学した。
もう一つは、二次性徴がきていないこと。
「凛はずっと一緒。三年生のあの日から、なにも変わらない」
誘拐された日から、凛の体は成長がとまっていた。
身長一四〇㎝。体重三一キロ。足のサイズ二十一㎝。女性と間違えられる高い声は変声期を未だ迎えていない。ムダ毛は生えず、艶々の肌にはシミひとつなく、ニキビができたこともない。線は細く筋肉はなく、弱々しい骨格は男性のそれとは違う丸みを帯びている。スカートを履いて、女子高生の制服を着ても違和感がないのは、そんな体型のおかげだった。
あどけない顔は男性とも女性とも区別がつかないほどに、未成熟。ショートのボブカットの黒髪がよく似合う愛らしい顔は、「かわいい」と頻繁に言われる。
「なんで?」
「それは……、うぅ……」
凛は自分の姿が嫌いだった。
この体を見る度に、まるで自分だけが過去に取り残されているように感じて、あの日を思い出さずにはいられない。
誘拐されたその日を――。