凛がいなくなったら困る
小三の時、涼風凛は誘拐された。
友達と遊んでいた時、何者かに誘拐されたのだ。
雨上がりの空に虹が架かる日。
「うふふ、きみかわいいからお姉さんのペットにしてあげる」
甘い声が聞こえた。
それからの記憶が凛にはない。
二年後、凛は帰ってきた。
街を二分割する葵川の畔に立っていた。
発見したのは幼馴染みの優椎世海。
凛が誘拐された日、一緒に遊んでいた親友。
あれからずっと探していた。
「りん……?」
「あ……」
五月。雨が降り続くのは梅雨の特権。
あの日のように、つかの間の晴れた日。
「りんー!」
「あ……、よ、世海……ちゃん?」
「どこにいたのー? なにしてたのー? 私、ずっと凛のこと待ってた! 私……私は……」
「あ……」
凛に抱きついた懐かしい少女の涙は、陽射しを遮る天気雨になる。
こぼれ落ちた水滴が頬を濡らす。
凛は我に返って気がついた。
「わかんない……」
凛には二年間の記憶がなかった。
誘拐されてからの日々。
どこに行って、なにをして、そしてどうやって帰ってきたのか。まるでわからない。
警察の事情聴取。公園の隣。コンビニの防犯カメラに映る「自分」と「犯人」の映像を見せられても、思いだせない。
――わからない。
「う……、うぅぅ……」
ぽっかり空いた穴のよう。
目を閉じると浮かぶ水色の思い出が、黒塗りされたように所々で暗転する。
人生を失った代わりに得た物は、心的外傷(PTSD)という障害。
PTSDの三大症状、回避、過覚醒、再体験。
数ヶ月後、小学校に復帰。
重度のPTSDを抱えた凛は、時々発作を起こす。
パニック状態になって大声をあげたり、幻覚に怯えて全力で走りだしたり。「敵」を見つけて血だらけになるまで壁を殴ったり、フラッシュバックに攫われて、気を失ったり。
精神科で治療を続けているが、具合は思わしくない。
好奇の目。
からかわれたり、虐めを受けたこともある。
子供たちの興味本位の狂気と、無邪気な悪意。
しかし凛は一人ではなかった。
優しい人が側にいた。守ってくれる彼女がいた。
――ある日の小学校。
六年生のトイレ――、
「……ッ、世海ちゃん! 着いてこないでよ」
「……? なんで?」
「こっちは男子トイレ!」
「うん。だから?」
「だからって……、世海ちゃんは女の子でしょ!」
「うん。でも凛が心配だから一緒に行くの」
「いや、だからここは男子トイレ」
「関係ないもん。いつ倒れるかわからないし、一緒にいないと心配」
「いや……、あのねぇ……」
「でもまた誘拐されたら困る。凛がいなくなったら困る」
「だから、トイレ行くだけだって」
「でもまた誘拐されるかも。あの日だってそうだった。私は凛がいなくならないようにしないといけないの」
「いや、ここ学校だし……、四階だし、トイレだし」
「でも誘拐されたら困る。もう嫌なの。凛がいなくなったら」
「いや……、でも……、トイレで誘拐とかないだろ」
「わからない。あるかも。でも私が側にいれば守れる」
「大体……、どうやって誘拐するんだよ。四階だぞ。入り口はここしかないし」
「うーん、窓とか」
「僕は映画の主人公かよ」
「ロープアクション、みたいな。凛を誘拐しに来るかも」
「僕は何者だよ」
「でもあるかも」
「ないない。国家機密かなんかでも持ってるのかよ、僕は」
「でもあの日だってそうだった。凛が誘拐されるなんて誰も思わなかった」
「それは……、そうだけど」
優椎世海は幼馴染みの少女。
美人だが無愛想な性格。感情が乗らない話し方やムスッとした表情は「人形のよう」と揶揄されることもあるが、本人は気にしていない。
小三の時、凛が誘拐された日からずっと、彼が帰ってくるのを夢みてきた。
「――神様に願いごとをするの。たくさんいいことをすれば、神様が助けてくれるの。だからいっぱい頑張らなきゃ。凛にまた会いたい」
事件の後、少女は毎朝の清掃ボランティアに参加していた。
葵川の畔で凛を発見した日も活動の最中だった。
「凛を守るのが私の使命。運命なの。神様は私の願いごとを叶えてくれた。だからもう失わないように、私は夢を守らないといけないの」
*
世海もまたあの日の心的外傷に苦しんできた。
幼馴染みがある日突然、いなくなった。一緒に遊んでいた休日、「トイレに行く」と公園から出たまま、凛は帰ってこなかった。警察の事情聴取。保護者への説明。学校の先生との面談。
九歳の世海には詳しいことはわからない。だが、代わる代わるやってくる真剣な顔をした大人たちの様子に、なにかとんでもないことをしてしまった、という気持ちになった。
怒濤のように数日が過ぎた後、現実が遅れてやってきた。
日曜日――、
毎週欠かさず一緒に遊んでいた友達――、でも今は、いつもの公園に一人。ブランコに揺られ見あげた空は、先週と変わらない。
ベンチに座る老人のラジオから、梅雨明けのニュースが聞こえる。
「――ああ、そっか。凛は、いないんだ。どこにも」
自覚した時、世海は喪失感に連れていかれる。
中身が空っぽになったように、なにをしても楽しくない。公園に行っても学校に行っても、他人事のように、なにも感じない。心配した家族や先生が声をかけても、響かない。
「――私のせいだ」
喪失感はやがて自己否定に変わる。責任を感じ、自分を責めた。抜け殻のように、顔と心が一致しない。無気力な世海は半ば強制的に精神科を受診したが、変わらない。そんな時、記憶の中の友人が言っていた言葉を思い出す。
「神様はね、わがままなんだよ。だからね、ちゃんとご奉仕してあげないといけないの。ご機嫌を取って、ご褒美をもらうの。そうしないとね、夢は叶わないんだよ」
いなくなった凛を助けたい。でもどうしたらいいかわからない。助けてくれるのは神様だけ。
「凛を救いださないといけない」
世海は凛のために生きてきた。
*
「あの日だってそう。トイレに行ったら誘拐された。だから私も一緒に行く」
「……っ、だけどここは学校だし」
「関係ないもん。凛を守るのは私の使命。凛がいなくならないようにするの。困るの。いなくなったら」
「世海ちゃんの気持ちは嬉しいけど……、でもおかしいよ」
「おかしくない。決まってるの。凛を守るのは私の仕事なの。それが私の人生なの」
「変だよ、世海ちゃん」
「いいの。それでいいの。私は凛にいてほしい。ここにいてほしいの。それだけなの」
「誘拐なんてもうされない。大丈夫だよ」
「じゃあ、証明して」
「……? どうやって」
「私も一緒にトイレに行く」
「……っ、そ、それじゃ堂々めぐりだろ!」
「いいから早く行きましょ。漏れちゃうわよ?」
「う、うるさいな!」
*
中学三年生――、
凛は不登校がちだった。
医学や世海の助けによって学校生活を送ってきたが、不安定に変わりはない。
PTSDは、まだ治らない。刺激が多い外の世界は凛を痛めつける。
ひきこもりのようになった凛。だが、世海は見捨てない。
授業ノートを丁寧にとり、プリントを毎日、凛に届けた。放課後も休日も凛の家に行き、夜遅くまで他愛のない時間を過ごした。なんでもない会話も、凛となら楽しかった。
「――凛がいる」それだけで世海は嬉しかった。いなくならないように――、夜間も警戒する。二時間に一回は凛の家に行った。自宅と凛の家の距離は百メートル程度。なにもない――、それを確認するために、巡回に行った。
「通い妻」「愛の力」等とからかわれることも多いが、世海は気にしない。
だが、凛はいたたまれなかった。
ある日――、凛の部屋。
「世海ちゃん……、僕は……、そこまでしてもらわなくても、大丈夫だよ」
「大丈夫ってなにが? 昨日もうなされてた。私知っている。凛、最近薬飲んでない。吐いちゃうんでしょ? 全然、大丈夫じゃない」
「なんでそれを……、もしかしてまた……、巡回に?」
「外まで悲鳴が聞こえてた」
「もう巡回はやめてって言ったじゃん。世海ちゃん、全然寝てないでしょ? 世海ちゃんが壊れちゃう」
「ううん。壊れない。だって私の使命だもの。凛がいなくならないことが重要なの」
「僕はツチノコかなにかなのか」
「うん。ずっと探していた宝物。私の友達」
「世海ちゃん……、ありがたいけど……、でも――」
「だめ。凛は私が守るの。決まってるの。凛がなにを言ってもだめ。私はやめない」
「……ッ、僕が嫌がっても?」
「関係ない。だってあの日だってそう。凛が望んで誘拐されたわけじゃない。いつなにがあるかわからない。だから守らないと。凛がいなくなったら困る」
「それとこれとは……、違う話じゃ……」
「違わない。同じ。凛がいる。凛がいない。現実はその事実だけ。過程はなんでもいいの」
「世海ちゃんは……、やっぱりおかしい」
「おかしくてもいい。凛がいれば」
「……、やっぱり気持ちは変わらないの?」
「高校の話?」
「そうだよ。世海ちゃんは頭いいし……、美人だし、色んな未来があるだろうに、高校に行かないなんて絶対だめだよ」
「ううん。私の未来は凛だけ。高校に行ったら時間なくなっちゃうし、凛のこと見ていられなくなる。だから進学はしない」
「無職ってこと? そんなのだめだよ」
「凛だってそうじゃない。不登校のひきこもり」
「……ッ、僕と世海ちゃんは違うよ。僕はメンヘラだし……、真っ当には生きられない。こっち側の人間だから」
「じゃあ私もそっち側。凛は通信制に行くんでしょ? 私も一緒に行く」
「世海ちゃん!」
「凛がいるところが私の世界。どっち側でもかまわない。決まったの。あの日に、私の人生は決まったの」
「おかしい……、よ。世海ちゃんは」
「おかしくしたのは凛。あなた」
世海は学業の成績がいい。運動も得意。無愛想だが美人。スタイルもいい。地頭も優れている。根気もある。可能性は無限大。何者にでもなれると凛は思う。だからこそ、僕なんかのために人生を捧げるのは、才能をドブに捨てるのと同じ。勿体ないと思う。
「凛がいなくならなかったら、私も違ってた。きっと」
「……ごめん」
「でも、あるのは事実だけ。言ったでしょ? 現実はひとつ。凛がいるかいないか。私たちにはどうしようもない」
「……、ごめんね。なにも思いだせなくて」
「思いだしたところでなにも変わらない。犯人が捕まったら、凛はなにか変わるの?」
「……それは……、わかんないけど」
「一緒よ。過去は変わらないし、凛はここにいる。それだけ。それだけよ」
「かも……、しれないけど……、世海ちゃんには変わってほしい。でも……、そのためには僕がPTSDを乗りこえて、真っ当にならなきゃだめなんだってわかってる……、けど」
「けど?」
「……、ごめん」
凛は言葉に詰まった。
精神科の治療は何年も続けている。認知行動療法の一環で、日記を毎日つけている。こもりがちにならないように、刺激が少ない夜に散歩もしている。一日、誰とも話さない、ということもない。世海のおかげだ。世海には感謝している。もどかしいが、世海がいてくれるおかげで、息苦しい世界が少しだけは晴れやかになる。まるであの日の午後みたいに。
だからなにかを返したい。世海のために、できることをしたい。僕も、頑張りたい。それが少しおかしくても。
「世海ちゃん……、行きたい高校あるって言ってたでしょ? 聖愛学園……、だったっけ?」
「……? うん。昔の話しだけど。今は関係ない」
「確か、カウンセラーになりたいから、専門科目がある聖愛学園がいいって」
「そうね。その時はそうだったかも」
「僕が……、一緒に行くって言ったら世海ちゃんは行く?」
「え?」
「僕……、これ以上、世海ちゃんを縛り付けられない」
「ううん。それは私が望んだことだから凛はなにも――」
「そう。世海ちゃんはそう言う。だから、僕が進むしかないと思うんだ」
「進む?」
「うん。世海ちゃんは僕に着いてくるんでしょ? 僕が心配だから、僕が進むところに世海ちゃんは来てくれる。そうでしょ?」
「凛……、変なこと考えないで」
「いいんだ。僕は世海ちゃんにたくさん優しさをもらった。僕はそれでもこんなだし、情けないって思うけど……、でも、少しでも世海ちゃんになにかを返したいって思う」
「いらない。凛がいてくれたらいい。それだけでいいの」
「でも、世海ちゃんは拒否できない。だって僕の人生は僕のものだから。世海ちゃんの人生が世海ちゃんのものなのと、同じように」
幼馴染みのために決意したのは踏み出す勇気。
世海の居場所が自分の隣なら、僕が動けば彼女の世界も変わる。世界は変えられる。必要なのは、ただ歩くこと。がむしゃらにでも前に進む気持ちなのだ。
「僕、聖愛学園に行くよ」
「凛」
「世海ちゃんがどうするかは、世海ちゃんが決めたらいい。とにかく僕は行く。高校に行くんだ」
「凛」
「止めても無駄だよ。僕は決めたんだ。今、決まったんだ」
「凛」
「僕は行く。前に進む――」
「――凛、あたま大丈夫?」
「うん? ああ、僕はおかしいかもしれない。でもいつまでもこのままってわけにもいかないし――」
「ふうん。まあ、いいけど」
「そうだよ。僕は風。あの空を飛んでいくんだ」
「でも凛、いいの?」
「……だからいいって――」
「だって聖愛学園って、女子校だよ?」
「え?」
中三の夏。夜風が窓から攫うのは、逃げ腰の心。
凛と世海は風に乗っていく。
夜が明けた朝日を受けて、晴れ渡る明日を飛んでいくために。