第二層
日の光。そして緑、緑、緑。
それが見渡したとき、最初にこの場に抱いた感想。今の俺にはそれだけ鮮烈な景色だった。
「……どうなってやがる。……出られた……のか?」
「……いや、そんなわけない。脱出できたはずがない……そのはずだ」
俺と同じように戸惑いを見せる狩屋に反論するが、返せたのは実に弱々しい一言のみ。
上から零れ差す陽光以外、生い茂る木々や植物に覆われる一面。どんなに浅慮な人間でも、ここが先日までいた地元であると断定できる者はいないはずだ。
先の階層にあった乾きとは違う、肌に絡みつくような粘り気のある熱気。
人工の光が必要なくらいの暗闇など微塵も感じられない、上から零れ差すだけなのに、肌を照りつける日の光。
そして何よりも違うのは臭い。最も嗅覚を刺激するのは、今まで欠片も感じなかった鉄臭さの混じった獣臭。
──植物どころではない。ここには間違いなく生き物が、それも命を取り合う肉食獣が確実にいる。
「……警戒しろよ。やべえぞ」
ゆっくりと剣を抜き、いつ襲われてもいいように神経を研ぎ澄ます。狩屋も俺に続くよう、懐中電灯を仕舞って木刀を握りしめる。
例えばここが外国のどこか──熱帯のジャングルに放り込まれたと言われれば、常識は疑うことなくそれを肯定してしまうことだろう。
それだけ先ほどまでの世界との差はとてつもない。外と中かで言えば外であり、あの迷路と違う場所であるかと問われれば、己の知識と経験はそれを是としてしまう。
だがほんの一握り。迷宮とおぼしき不思議な迷路で培ったカンが告げてくる。
ここはまだ迷宮の中だと。普通に危険な外のジャングルとは比較にならない、正真正銘地獄の続きであると。胸の内を異常なほどにざわつかせながら。
冒険者ですらない未熟な俺たちが、危機を察知してから構えたんじゃ遅すぎる。
だから、逃げるか抗うか。不意に訪れるであろう選択で迷わないために、最初から剣を持つことにしたのだ。
「……どっちに進むんだ? 左か右、俺は前を推すぜ」
「……どこ選んでも地獄、か。……あっ」
最初にして最も肝心、地図もなく目印もないこの空間をどう進むか。
迷路と違ってあてもない進路について狩屋と悩んでいた最中、ある存在を思い出し、懐を漁り目的の物を取り出す。
狩屋から借りていた方位磁石。返すのを忘れてポケットに放り込んでいたのだ。
「コンパスぅ? ここでも使えんのか?」
「……ちょい待ち」
怪訝な顔でこちらを見る狩屋を尻目に、方位磁石の赤い針が何を指している確かめる。
先の迷路では、方角ではなく上の隠し扉を示していた指針。もし特定の対象を示すのならば、もしかすれば切っ掛けになるかもしれない。そんなことを思いついたからだ。
もちろん、これが使えるなんて確信はこれっぽちもない。
所詮は既に役目を果たした物。あの迷路を抜けるためだけの道具でしかなく、役目を果たし壊れようとも、元の使い道に戻っていてもおかしくはないからだ。
──だがそれでも、少しの希望が抱いたのは事実。
頼れる物をなにか一つでもと。
そう考えて出てきたのがこれだけだったのは、残念ながら否定することは出来なかった。
方位磁石を持つ手を揺らさず力を入れ、ゆっくりと覗き込む。
「……お、おおっ??」
赤い針が向く方向を見た瞬間、思わず声が漏れてしまう。
針が示すのは、それだけ自分の考えを裏切る方向。──とはいっても、今回傾くのは良い方向にだが。
「真っ直ぐ……だな」
「ああ。どうやらまだ使えるらしい」
赤く塗られた針は上を指そうと浮くことなく、ただ真っ直ぐに正面を指していた。
……使えるのか、ここでも。
ということは、もしかしてこれは、迷路ではなく迷宮の道しるべなのか。
進路が決まって喜ぶ狩屋とは裏腹に、予想外の結果を前に言葉も思考も詰まってしまう。
「ん? どうしたぁ?」
「いや、こう都合良く行っていいのかなって」
「……いいんじゃねえか? 偶然攻略法を見つけた俺たちへのご褒美ってだけだろ?」
偶然だけどな、と付け加えながら豪快に笑う狩屋。
偶然。確かに狩屋の適当な思いつきで見つけただけで、他の奴がこれを発見出来るかと言えば難しいところだ。
だが、この方位磁石を見つけずに上を攻略することは不可能だろう。扉は周囲溶け込むように隠されており、場所に見当を付け、徹底的に探らなければ開けない仕掛けだったのだから。
そこまで考えて、これでは今までと変わらないと反省する。
これじゃあさっきまでと一緒、と全てを悪い方向に考える悪い癖を発症してしまっている。
恐怖で足を止めるのではなく、恐怖が起きてから自らを恨む。
狩屋には悪いけど、やっぱりこの方が性分に合っている。何も分からない場所であれば、なおのことその方が良い。
「……よし、時間もないし進むか」
「おっけい! 俺も飲みもんあとちょいだし、こんなの早う抜けてーからな!」
決断は迅速に、そして羽のように軽く。
暗闇迷路のときと同じよう、方位磁石を持つ俺が先で、後ろを狩屋が警戒しながら進んでいく。
肌に滑りを纏わり付かせてくる、湿気の塊のような空気。
空気を裂くように歩を進めながら、一歩一歩の感触を感じながら地を踏んでいく。
暗闇迷路のような石に近い無機質さはなく、馴染んだ土の感触が足に伝わってくる。
空の太陽や広大な敷地に広がる大自然。ここが屋内ならこれらはどうやって維持されているのか。
結構移動に時間が掛かったとはいえ、階層ごとにここまでの変化をつける技術が現代にあるとは考えにくい。そうなればやはり、ここは迷宮で間違いはないのだろう。
「暑ーぃ。水補給してぇ」
「……俺もだ。川とか湧き水とかねえかね」
苦言を漏らしながら歩く狩屋に、俺もついつい願望を口に出してしまう。
動植物がいるのだから、ここに水分源になる物があるのは間違いない。
こんな所で汲める水が人に害のないかなんて知らないが、この際飲めるものなら我が儘言ってられないのが俺たちの現状だ。
乾燥しているよりかはましだが、落ちる陽光と熱気のせいで、体内の水分が減少していく速度は上がっていく一方。
上と同じ時間を掛ければ干涸らびて死ぬのは必定。そうでなくとも、次への余力を残すことは期待出来ない。そう考えれば、先ほどよりは可能性のありそうなここで補給できればと思ってしまう。
とは言っても、所詮は無い物強請り。
どれだけ五感を研ぎ澄ませようとも水のせせらぎが耳に届くことはなく、探すために道を逸れるわけにもいかない俺たちで、どうにか出来やしないんだけどな。
種類や細かな色合いは違えども変わりなく続く木々。
どこかでがさりと音が鳴れば、狩屋と背中合わせになり全身全霊をもって警戒し、何事もなければ息を吐いて再度歩き出す。
幾重にも繰り返し、数えるのも億劫になり、疲労は蓄積されていく。
まるで何かに弄ばれているようだと、腕で汗を拭いながら、心の中で現状に舌を打ちながら、着実に歩を進めていく。
「……あー、最後だぁ。高峯ぇ水あるかぁ?」
「ねえよ。だいぶ前に飲み干しちまった」
素っ気なく返せば、呻き声とペットボトルを潰す音が後ろから聞こえてくる。
どうやら狩屋も飲み干したらしい。……これでもう、まともな飲み物はなくなったわけか。
いよいよ後がなくなってきた。このまま森が続くなら、いよいよお陀仏目前だ。
木を切って水分が出るか確かめてみるか。それとも、いっそのこと大声で獣を呼びだして、狩って血を飲むか。……まずいな、水分欲しさに変な考えまで浮かんできたぞ。
「──おい、おいおいおいっ!! 高峯あっち、あっちから水の流れる音がするぜ!!」
「あ、おい、待て狩屋っ!!」
狩屋いきなり変なことを言い出してから、俺の静止も聞かずに走り出す。
いきなりすぎることに狼狽えかけるが、はぐれる訳にはいかない。そう考えて剣をしまい、必死に背中を追いかける。
今襲われれば碌な対処は出来ず、その間に狩屋を見失ってしまう。何て綱渡りな進撃だろうか。
狩屋は水と口にしていたが、そんな気配は微塵も感じなかった。
狩屋にしかわからない且つ、この状況を無視して駆け出す程の何かを見つけたのか。
……それなら信じよう。現状故に思い描いてしまった、都合の良い幻でないことを祈りながら。
走る、走る、ひたすら走り続ける。
少しずつだが息の荒みは激しくなり、少しずつだが足は重くなっていく。
既に分は超えた確信がある。不思議とまだ走れるが、それでもいつ力尽きるかはわからない。
前を行く狩屋の速度は依然衰えを知らない。
本当に俺と同じ量を歩いたのか、そう疑いたくなるくらいの速度を保ちながら進み続けている。
ふと、中学の頃にあった体育のマラソンを思い出す。
あの頃は突き放す側でピンと来なかったが、今なら食らい付いてきた後ろの気持ちを理解することが出来る。
──嗚呼、前を走る奴ってのはどうしてこう遠いんだろうな。
いい加減、止まって欲しい気持ちで心を満たしながら、それでも懸命に足を動かす。
距離を詰めることはなく、けれど離されはしないと死に物狂いの全力で。
それでも限界は来てしまう。意地が疲労に負け始め、狩屋の差は広がりだす。
だがそれと同時に耳に入ったのは、ピチャピチャと跳ねる小さな音。──水の流れる音のような何か。
「つっいたー!!」
森林が少し開け始めて少し経ち、狩屋は達成感を露わにしながら足を止める。
俺も少し遅れて到着し、狩屋の側まで絶え絶えの息で寄っていく。
「馬鹿、馬鹿野郎がっ……。狩屋てめぇ、いきなり、走ってんじゃ、ねえよ……」
「痛……って高峯。悪ぃ、何か聴こえちまってついよ」
頭をどつきながら文句を言ってやれば、狩屋は謝りながら前を指差してくる。
なにがあるかはわかっている。けれども少し息を落ち着かせてから、改めてその方向に目を向ける。
分かたれた大地、その境に流れる一本の清流。
水、水だ。透き通るほど綺麗な命の綱、あれほど求めていた潤す物が、抱えきれないほどの質量で目の前に存在していた。




