幽霊たちは消えたがる
「お梅! お待ちな、お梅!」
突然後ろから呼び掛けられて、大きな風呂敷づつみを抱えたお梅は、振り返りました。
ぽつぽつ灯りのともり始めた表通りには、家路を急ぐ人の群れ。
「え……!?」
声を掛けてきた女を目にしてお梅は、ぎょっとしました。
病人のようなざんばら髪で顔を半分隠したその女は、この寒空に、透けるような単衣もの一枚。
小雪のちらつく、大寒の候です。
綿入れの襟元をかき合わせて白い息を吐きながら行き交う人々の中、そのいでたちは、どう見ても異様で、……そこだけ、切り取られて貼り付けられた、別の世界のように見えました。
「あっ!」
――この人、人間じゃない!
道の向こうを行き過ぎる夜泣きそばの提灯が、女の身体を透かしてすーっと移動していくのを見たとき、お梅はぞっとして、全身に鳥肌が立ちました。
よくよく見ればその女、膝から下のあたりはうっすらと煙のようにかすんで、そこにあるはずの足がない。
「ゆっ、……幽霊……!?」
「あれ、わかったの? さすが、あたし」
「ひゃっ!」
女はふわりと距離を詰め、お梅のかぶっている藤色ちりめんのお高祖頭巾の中を、ぐいと顔を寄せて覗き込んできます。
その白い顔と真正面から見つめ合った途端、お梅は驚きのあまり、悲鳴を上げました。
幽霊女の顔が、毎日朝晩に鏡で見ているお梅自身の顔と、瓜二つだったからです。
ただし、まったく同じではありません。
剃り落とした眉と痩せた頬のせいか、女の顔は、今のお梅よりも五つくらいは年上に見えましたし、目の下には殴られたような、紫色のアザ。
「待って!」
お梅そっくりの幽霊は、恐怖に後ずさろうとするお梅の腕を、体温のない手で、ぎゅっと掴みました。
「お梅、聞いて、あたしは、あんたなの。あんたは、今から三年後に、死ぬの。
それで、幽霊になって、ここに来たの。
お願いだから、聞いて。大事な話だから」
「い、や……っ」
まさか、幽霊なんて。
それも、自分の幽霊? 死ぬ? あたしが?
しかも、たった三年後!?
お梅の手足が、がくがくと震えだしました。幽霊が怖いのか、もう一人の自分が現れたのが怖いのか、死を予言されたことが怖いのか、いったい何が怖いのかもよくわかりませんが、とにかく、恐ろしさに声も出ません。
「あんた今、松吉さんとの駆け落ちを諦めて、もうあの材木屋の息子と一緒になろうかって、考えてたでしょ!」
強い口調でそう言われて、お梅は、おどおどと頷きました。
「なんで……そのこと……」
「全部知ってるわよ。
だってあたしは、三年後のあんた。
あたしも三年前にこの道で、同じことを迷って、そうして、……駆け落ちは、やめたんだ。
あたし、松吉さんと約束したお稲荷さんへは行かずに、家に戻っちまったのさ」
図星を突いてきた幽霊の言葉に、お梅は目を白黒させました。
お梅は十六。西町の、建具屋の娘です。
人が振り返るほどの別嬪ではないけれど、つぶらな瞳とツンとしたおちょぼ口の可愛らしい、ちょっと勝ち気な娘です。
実はお梅は、松吉という大工の青年と、恋仲でありました。
数年前、流行り病で両親を亡くしたまだ幼い松吉に、懇意の棟梁のとこへ弟子入りの口をきいてやったのが、お梅の父親で。
その縁で知り合ったふたりでしたが、それがいつしか深い仲になり、実は密かに、将来を言い交わすまでになっていたのです。
ところが、そんなことをつゆ知らない本家の大伯父がお梅に、材木商の木曽屋の息子との縁談を持ってきたのが、先月の話。
親から突然その話を聞かされて、最初お梅はただただびっくり、次には泣いてふさぎ込んでひとり悩んで、ついにそれを、松吉に打ち明けました。
なんと言ってもまだ若い恋人同士ですから、思慮分別が足りないのは常のこと。
額を突き合わせて思い詰めた末、こうなりゃふたり、密かに手に手を取り合って、誰も知らない土地へ駆け落ちでもするしかない、と話が決まり、いよいよ今夜、落ち合う約束をしたのです。
……だけど、実はお梅は、今になってやはり、駆け落ちが怖くなったのでした。
それでまさにそのために、さっきから、稲荷神社に続く道を、行ったり来たりしていたところだったのでございます。
この約束のことを知ってるのは、なにしろこの世で、お梅と松吉のふたりだけ。
ましてやそれをやめようかどうしようか迷っていたのは、自分の心の中だけのことなのに。
「……」
とすれば、それを知っているということそのものが、目の前の幽霊が未来から来たお梅自身であり、その言っていることが真実であるという、何よりの証拠でありましょう。
「わかってくれたなら、落ち着いて聞いて。
あたしはねぇ、別にあんたを脅かしに来たわけじゃないの。助けに来たのよ」
「あたしを、助けに……?」
「さあ、ついて来て。
悪いようには、しないから」
「ちょいと! ……ねえ待ってよ、どこ行くの!?」
すたすたと稲荷神社の方に向かって歩き出した幽霊の背中を、慌てて小走りに追いかけながら、さっきと逆に今度はお梅が、声を上げます。
「どういうことなの! ねえあたしは、なんで死んじまうの?
あんたは一体、なにをしようとしてるのよ!」
恐怖よりも、好奇心が勝りました。
確かに、相手は自分自身と思えば、怯える理由もないはずです。
幽霊のお梅は立ち止まって、振り返りました。
「あたしはね、今夜、あんたと松吉さんを、なんとしてもくっつけるために来たんだよ!
そうすることであたし自身が、あんなむごい死に方をしないで済むようにね」
「はぁっ!?」
お梅は、ぽかんと口を開けて幽霊を見返します。
「あたしと、松吉さんを、……っていうか、……むごい死に方って、どういうこと……?」
「あたしだって、まさかこんなことになるなんて、思わなかったのよ。
降って湧いたこの縁談、はじめは泣いたけど、……落ち着いて、よぉく思案してみたらさ、相手は大店の跡取り息子、しかもなかなかの男前。
実は言っちゃあ悪いけど、あの垢抜けない新米大工の松吉さんに比べたら、よほどいい相手にも思えてきたのさ。
ね、そうでしょ?」
「……」
胸の中で密かに弾いたそろばん、打算的なあれこれを、あけすけに口にされてお梅は、恥ずかしさに顔を赤くしました。
「そっ、……それで、いったい全体、なにがあったのさ?」
「あたしはその夜無情にも、あんなに好いていたはずの松吉さんとの待ち合わせを、すっぽかしちまった。それきりもう、会うこともなかった。
あとはとんとん拍子に日取りも決まって、万事めでたく滞りなく、木曽屋さんにお嫁入りしたの。
婚礼はとっても豪華に仕立ててもらって、大店の暮らしはさすが、食べるものも着るものも贅沢でさ、ああ幸せだ、やっぱりこれで良かったんだ、って、あたしは毎日、自分に言い聞かせてた。
なにより若旦那も、役者みたいな男前。
ちょいとぶっきらぼうで気難しいとこも、なんだか男らしく、頼りがいがあるって感じたの」
「うわぁ」
「だけどそれが、生き地獄の始まり!
あの色男の本性は、とんだ外道だったんだから!」
幽霊のお梅は突然、すごい剣幕でまくし立てはじめました。
「間もなくあいつは、仕事もしないくせに遊び歩き、ほうぼうに女を囲うようになった。
それを咎めりゃ、すごい剣幕で怒り出し、殴る蹴る。それを舅様に泣きついても、嫁のお前さんが至らないせいだと、逆にあたしが叱られるばかり。
そんな八方塞がりの中で、唯一あたしに同情してくれたのが、手代の嘉助だった……嘉助には、悪いことしたよ……ほんとに真面目な男でさ、……実は少しだけ、松吉さんに、似てたんだよねぇ。
あてつけのつもりで誘ったのは、あたしの方。
人に言えない関係は三年くらい続いたんだけど、……ある日とうとう、若旦那にバレちまってさ。
あいつ、てめえのことは棚に上げて、怒り狂った。
さんざん殴られ、思いっきり蹴り飛ばされて、あたし、縁側から転がり落ちた拍子に、庭の踏み石に頭をぶつけて。
……打ちどころ悪く、あっさり死んじまったんだよ。
ほらね」
「……きゃあっ!」
一気にそこまで語り終え、ざんばら髪を掻き上げた幽霊の後頭部には、痛々しい傷跡が、ぱっくりと。
「そんな……!」
いきなりぶち込まれた衝撃的な情報が、お梅の頭の中、ぐるぐると渦を巻きます。
嫁入りの話が来てから一度だけ、木曽屋の店先にいるとこを遠くから、あれだよと指さして教えられただけだけれど、あの爽やかな男前の若旦那が、まさかそんな。
……信じたくはありませんが、しかしなにしろ語っているのは、あわれその男に責め殺されて幽霊となった、三年後のお梅、本人です。
「死んでしまってから、やっと気づいたの。
あたしは、間違った道を、選んでしまったんだって。
そして、いったいどこが分かれ道だったのか、いつが間違いの始まりだったのかを考えて、……三年前の、この夜に来たのさ」
幽霊はぴたりと立ち止まり、お梅を振り返りました。
そこはまさに、お梅が恋人の松吉と落ち合う約束をしていた、稲荷神社の前です。
「ねえ、確かに松吉さんは見た目も中身も、あまりぱっとしない。
人柄の良さで好いてたけど、こんないい縁談を蹴って、駆け落ちをしてまで一緒になるほどの男じゃないかなって、あのときは思っちまった。ね、そうでしょ?」
「うーん、まぁね……」
確かに松吉はおとなしい性質で、荒っぽい大工仲間に揉まれながらも、喧嘩ひとつした話を聞きません。
でもそれは裏を返せばつまり、気弱で頼りにならないってことのようにお梅には思えて、まさに駆け落ちの決心をぐらつかせた、一因でもあったのですが。
「それがあたしの、大しくじりだったのよ!
あのねえ、こうなりゃ、家柄も財産も男振りも、二の次、三の次。
とにかく、女房を大事にしてくれる優しい男と添い遂げるのが、結局は一番いいんだって!」
「……」
「ずっと、悔やんでた。
……もしもあの夜、松吉さんを選んでいたならあたし、たとえお金の苦労はしたって、きっと、今よりは幸せになれてたはずなのにって。
だからお願い、あの人を、信じて」
「わかった。
……松吉さんに、賭けてみる」
幽霊の必死な様子に気圧されて、お梅は頷きました。
信じられないようなことが起こり、あまりにも恐ろしい話を聞かされたので、まだ頭は混乱していますが、なにしろ未来の自分自身の言うことですから、嘘はないように思われました。
「それ、ほんとかい? ……あ、見て!
あたしの体の色が、薄くなってきてる!」
そのとき幽霊が、驚いた声を上げました。
お梅の方に差し出してきたその手を見れば確かに、最初に声を掛けてきたときに比べると、なんだかずいぶん薄く透き通って、だんだんと、消えていくように見えます。
「そうか、これであんたの気が変われば、今ここにいるあたしは、いなかったことになるんだ!
良かった……あんたがあたしのかわりに長生きしてくれたなら、それでいい……」
幽霊は陽炎のようにゆらゆらと揺らぎながら、初めて微笑んで、お梅に手を振りました。
「お願い、松吉さんと添い遂げて、幸せになってね……」
お梅はなんだか泣きそうな気持ちになりながら、薄暗くなりかけた稲荷神社の境内へと、足を踏み入れました。
「おい松吉、大事な話がある。聞いてくれ」
ところで、小半刻ほど前。夕闇迫る、その稲荷神社の境内でのこと。
大事な道具箱のほかはわずかな荷物を背負い、人待ち顔で行ったり来たりしていた大工の松吉は、いつの間にか目の前に立っていた男に声を掛けられ、飛び上がりました。
「わっ、なんだよ、あんた!」
「松吉、俺は、おめえだ。おめえの幽霊だ。
今から三年後の世から来た」
「は!?」
派手な柄のぺらぺら羽織を肩に引っ掛けた、ちんぴらみたいなその男は、松吉に顔を近づけ、囁きます。
「その証拠に、おめえのことは全部わかる。
おめえ今、駆け落ちの約束してたお梅が待てど暮せど来ないから、あきらめて帰ろうかと、思案してただろ。
でもな、あいつ来るぞ。もうしばらく、ここで待ってろ」
松吉は息を呑んで、目を見開きました。
ぼさぼさの髷に無精髭、やつれてくたびれた様子ですが、目の前にいる男は確かに、自分自身と瓜二つ。
そして、ほらよと指差して見せたその足元はなんと、途中からすうーっと、消えているのです。
「あ、足がねえ!
……ほんとだ、ほんものの、幽霊、……しかも、俺の、……まさか、……そんなことって」
「信じてくれたなら、俺の話を聞け。
いいか、おめえは今のままだと、三年後に死ぬ、いや、殺される」
「えーっ!? なんで!?」
「なんでだろうかと、俺は死んでから考えた。
そして、それは三年前の今夜、お梅と駆け落ちしなかったせいだということがわかったんだ」
「はぁ? ……どういうことだよ」
「俺はさ、あの夜、疑ってたんだよお梅のことを。
あいつ、来ないかもしれねえな、と思った。
だってお梅の縁談の相手は大店の跡取り息子で、なかなかの色男だって噂も聞いてたし」
「それそれ、その話、俺も聞いてる」
「……だろうな。
しかもさ、俺は大工としてまだまだ半人前、たとえ駆け落ちまでして一緒になってもきっと、食っていくので精一杯。
箱入り娘のお梅に、かけなくていい苦労をかけるのは、わかりきってらぁ」
「おう、俺も確かに、そうは思ってる」
「……その話をしてるんだよ。
だからお梅にすっぽかされたのかと思ったとき、俺、あぁもうこれが潮時かな、あいつの幸せのために身を引こうかな、と思ったの。
ここでまぜっ返しても、お梅の親や俺の親方、あちこちに迷惑掛けるしなあ」
「え、本当かい! 俺もさっき、まさにそう思ったぜ!」
「だから、それは、……チッおめえ、あんまり賢くねえな……」
幽霊の松吉は舌打ちして、眉間を揉みます。
「とにかくそんなこんなで俺は三年前、せっかくここに来てくれた可愛いお梅にさ、泣きの涙で道理を説いて、すっぱりさっぱり別れを告げて、幸せになれよって、家まで送って届けてやった。
だけどな、それを今になって心底後悔してるから俺はこうやって、三年前の自分に、会いに来たんだよ!」
幽霊の松吉は、生きている松吉の襟元を掴んで、ガッと顔を寄せ、鬼気迫る表情で言いました。
「いいかおめえ、今からお梅が来たら、そのままふたり、駆け落ちしろ。
ほうぼうに義理を欠くのは承知だけど、なにがなんでもしろ、しなきゃ、お前の命はあと三年だ!」
「んん? つまり、駆け落ちで俺の命が助かるってことかい。
わけがわからねぇ」
「今夜が、分かれ道だったんだ。
……お梅と駆け落ちしなけりゃ、明日おめえは、大工仲間と新町に飲みに行くことになる。
そこでな、失恋のやけ酒に酔ったはずみで、なんだかやたら色っぽい芸者と、意気投合してよ。
で、そのゥ、そのまましっぽりと、いい仲になっちまってよゥ……」
「え、お梅ちゃんを諦めたらおめえ、もういきなり次かよ!?
ていうか、新町の芸者!? 嘘だろ、俺なんかがそんな粋筋のねえさんと、どうにかなるってのかい!?」
「喜んでんじゃねぇよ馬鹿野郎。
違ったんだよ……その女はなぁ、実は悪い連中と繋がってて、俺ぁその仲間に、目ぇつけられちまったのよ」
「ちょっと待て、なんか変なのに引っかかったのかおめえ」
「まさかの、美人局よ。……ねえさんの情夫だってぇガラの悪い男が、仲間を連れて、落とし前つけろってねじ込んで来てよ。
どうやらそいつら、スリや置き引き、恐喝りやたかりをなりわいにしてるような、ちんぴらのごろつきでさ、……連中、最初からこっちをハメる気だもの、泣いて謝ったって、許しちゃくれねえや。
金が払えなきゃ働きで誠意を見せろってわけで、なんやかや悪事の手伝いに、引きずりこまれてさ」
「うわ……つきあっちゃ駄目な連中だろ……」
「それが弱みを握られてるから、断れねえ。
そうこうするうち、手先が器用で筋がいい、なんて褒められてよ、すっかり仲間になって、一目置かれるようになっちまって。
大工の仕事よりもずっと楽に、大金が手に入るし、……味をしめて俺、そのままずるずると、すっかり悪い道に、はまり込んじまったんだよなぁ。
……巾着切りからかっぱらい、忍び込み、ついに強盗と、段々にやることも、荒く大きくなって。
やがて三年後、大きなヤマを張って大金せしめたはいいが、分け前をめぐって仲間割れ。
斬った張ったの大騒ぎになって、運悪くズブっと」
「ズブっと?」
「仲間に刺されて、一巻の終わり」
「……うわっ!」
幽霊が、肩に羽織っていた羽織をぱっと開いてみせますと、その下の着流しの胸から脇腹あたりは、赤黒い血で染まっておりました。
「……おきゃアがれ……」
松吉は頭を抱えました。
あまりにも悲惨な自分の未来に愕然として、突っ込む気力も起きないようです。
「後悔したよ。……そもそもの最初、あんないい女がいきなり俺なんかにしなだれかかってくるなんて、ちょっと考えればおかしいってわかりそうなもんなのに」
「情けねえなぁ。
そんなのに騙されて、人の道を外れちゃったのかよおめえ……」
「俺っていうか、明日のおめえがな。
だから、な、わかったら、今夜何がなんでも、お梅と駆け落ち決行だ。そうすりゃもう、変な気も起きようがないだろ」
「……でもなんか、それでいいのか?
俺はよくても、お梅ちゃんにとっちゃ、どうなんだよ?
駆け落ちって、そんな手前勝手な理由で決めちまって、いいもんなのか?」
「いいんだよもう、あの娘と一緒になって、どっかの裏長屋に住んで地道に大工をやって生きるのが、お前にはいっとう似合ってらぁ。
少なくとも、今の俺よりはずっとマシな人生になるよ!」
「……うんまぁ、それはそうだなぁ……。
っておい、おめえ!
なんか、さっきよりも、色が薄くなってるぞ」
「うわっ!
そうか、もしかして……」
幽霊の松吉は、顔を輝かせました。
「おめえの気が変わったことで、ここからあとの人生が、変わり始めてるんだ!
だからこのままいけば、あの肥桶に浸かったような三年間が消えて、今の俺の存在そのものが、なかったことになる!」
「えっ、じゃあ俺とお梅ちゃんが結ばれたなら、幽霊のおめえは、消えちまうのか」
「そういうことだ。
いいんだ遠慮するな、俺をこの三年間ごと、きれいさっぱりこの世から、消し去ってくれやい。
うまくやれよな、頼んだぞ!」
松吉の手を握りしめたと同時に、その幽霊の手は煙のように、消えました。
松吉はしばらく呆気にとられて虚空を見つめていましたが、人の気配にハッとして、顔を上げます。
「あの、松吉さん……遅くなって、ごめんね」
お梅でした。
「あっ、あの、あのよぅ、お梅ちゃん」
「……うん」
つぶらな目で見つめられ、松吉の心臓は早鐘を打ちます。
惚れた女とはいえ、相手はまだあどけなさの残る、十六の小娘。しかも恩人のお嬢さん。
これをさらって逃げたとなれば、可愛がってくれたお梅の親にも、松吉を預かってくれてる大工の親方にも、後足で泥をかけたも同然。二度と顔向けはできなくなりましょう。
しかもその先、知らない土地で、誰の助けもないふたりきり、どんな大変な苦難が待ってるやも知れぬ。
ほんとに、いいのか。やっていけるのか。お梅も自分も、それで幸せになれるのか。
引き返すなら、今をおいてありません。
今ならまだ、間に合う。このまんまお梅を説得して、家に帰らせれば。
「いや、その、……えっと……」
「……」
「えぇだらしのねえ。
男なら早く、ビシッと決めろい!」
「わっ!」
視線を泳がせながら言葉を探す松吉の背後に、ぬっと現れて、耳もとで囁く影がありました。
「『覚悟はいいか、俺と一緒に行こう』でいいんだよ!」
頼りない過去の自分を見るに見かねてか、再び登場して加勢したのは、先ほどの、松吉の幽霊です。
「あっ、おっ、お梅、おれと、いっしょに、いこうっ!」
「えっ……ちょいと、それ、誰なの……まさか」
運命を決める松吉の言葉より、その背後に突然現れたもうひとりの松吉に驚いて、お梅は目を丸くしました。
「松吉さん、あんたのとこにも、自分の幽霊が!?」
「やっ、お梅ちゃん、おめえにも、こいつが見えてるのか!?
ていうか、あんたのとこにも、って」
「あい松吉さん! ふつつか者なれど、よろしくお願い申し上げます!
ほらほら、早く返事をしなよ!」
「「「うわっ!!」」」
そのとき突然お梅の背後に現れ、お梅の頭をガクガク揺すって頷かせたのは先ほどの、髪振り乱した、お梅の幽霊。
その登場に、お梅と松吉、そして松吉の幽霊までもが、素っ頓狂な声を上げました。
「ひゃっ、頭巾を掴まないでよう!」
「わ、わ、それ、お梅ちゃん……の幽霊!?」
「なんだって、嘘だろお梅、いつ死んだんだよ!?」
「えっ……いやだよ松吉さん、あんたも死んでたのかい!?」
生者ふたりと死者ふたり、合計四人のお梅と松吉は、稲荷神社の境内で顔を突き合わせ、ぽかんと口を開けながら、互いの顔をまじまじと眺め合いました。
幽霊のお梅と松吉は、これが三年ぶりの再会です。
相手も実は死んでいたことを、今ここで初めて知って、かなり衝撃を受けている様子。
「しかもなんか、……どうしたのさ、その趣味の悪い羽織。
そんなやくざ者みたいな形して、親方にどやされるよ?」
「おめえこそ、えらく痩せちまって、髪も結わずになにごとだい。
その顔のアザ、まさか誰かに殴られたのか?」
互いにいぶかしげに、やつれてすさんだ相手の姿を眺め回しました。
やがて、どうやらかつて別れた恋人も、自分同様にその後人生の辛酸を舐めたらしいことを察して、今、同じ理由で三年前のこの夜に現れたのだと、双方とも合点がいったらしく。
「……うん、よくわからんがとにかく、早くくっついちまえ、おめえら!
そうすれば俺たちは、消えてやるからよ!」
「そうよそうよ!
さっさと添い遂げて幸せになって、あたしたちをこの世から、おさらばさせてくんな!」
幽霊の松吉が気を取り直して叫び、幽霊のお梅も便乗します。
その勢いに押されたように、生きているお梅はおずおずと手を伸ばし、生きている松吉がその手を、ぎゅっと握りました。
「……いいよ、松吉さん、一緒に行こう」
「お梅ちゃん……」
ぼろぼろの貧相な幽霊ふたりに挟まれて、やいのやいのとうるさくせっつかれ、風情もへったくれもないけれど、ついに駆け落ちを決めたふたり。
その返事にホッとした表情を浮かべつつ、幽霊のお梅と松吉が顔を見合わせ、すぅっ……と薄く霞んで消えていった、そのときです。
「だめーっ!」
甲高い叫び声を上げながら駆け寄って、ふたりの間に割って入った者がありました。
「おやめよ、かけおちなんて、しちゃだめだ、お父っさん、おっ母さん!」
「「……!?」」
突然現れたのはなんと、まだ年端もいかぬ、小さな男の子でした。
そうしてやっぱり、足がない。はい、これもまた、幽霊だったのでございます。
「なんでぇ、次の幽的は、子どもかい? ……でも、まさか……」
「坊や、名は? お歳はいくつ?」
「多吉。ななつ」
問われれば男の子は、はきはきと答えます。
「おいら、大工の松吉とお梅のせがれだい。
むかしのお父っさんとおっ母さんに、会いにきたんだ」
そう言う幼顔をよくよく見れば、一文字眉毛と細い目もとは松吉にそっくり、小さな鼻とつんとしたおちょぼ口は、お梅にそっくり。
「えぇっ、俺とお梅ちゃんの、せがれだって!?
だけど、幽霊……ってことは」
「まさかこの子、まだこんなに小さいのに、……」
驚くお梅と松吉に向かって、幽霊の坊やは居ずまいを正し、向き直りました。
「お父っさん、おっ母さん!
かけおちは、しちゃだめだい、ぜったいにおよしよ!
あれから苦労ばかりで、なーんにもいいことなかったって、お父っさんとおっ母さんはまいにち言ってるよ。
それでくるひもくるひも、けんかばかりしてるんだからさ!」
ふたりはぎょっとして、顔を見合わせました。
「喧嘩ばかり? 俺とお梅ちゃんが? まさか」
「どういうこと?
あたし、松吉さんと一緒になれば、それで幸せになれるはずじゃなかったの!?」
お梅と松吉に詰め寄られて坊やは、つたない口調ながら、一生懸命に話します。
「あの、おいら、おとついから、かぜをこじらせて、寝込んじまって」
「まあ」
「そりゃ可哀想に」
「……でもうちには、おいしゃにかかるお金も、おくすりを買うお金も、ないんだい。
……きものはいつもボロだし、はらいっぱいのごはんだって、なかなか食べられない。
お父っさんはお酒ばかりのんで、おっ母さんはへんな占いばかりたのんで、そしてそのことでふたり、寝てるおいらのまくらもとで、ずっとずっと、けんかしてるんだい……」
「「……」」
「ふたりは、いっつもけんかばかりしてるんだ。
もとはといえばあんたなんかとかけおちしたのが、まちがいだったっておっ母さんが言えば、おめえといっしょになったせいで、なにもかもうまくいかねえんだって、お父っさんが言って」
「「……」」
「だから、おいらずっと、おもってたんだ……おっ母さんとお父っさんも、かけおちなんてしなかったら、おいらも生まれてこなかったら、きっとそのほうが、しあわせだったのになあって」
男の子の目に、大きな涙の玉が盛り上がって、ぽろんとこぼれ落ちました。
ひとつこぼれるとあとからあとから、ふっくらした頬を濡らしながら、涙の雫は流れ落ちます。
「……そう思いながら寝てたら、だんだん、とてもくるしくなって。
体がふわふわとなって、まわりが、まっしろになって、……それでおいら、……おっ母さんとお父っさんが、あすこがまちがいのはじまりだったっていつも言ってる、にしぼりのおいなりさんに行きたいと、おもったんだ。
……かけおちをしたら、苦労なことばかりあるよって、……だからそんなの、しないほうがいいよって、……おいらが行って、おしえて……あげたいって、……」
「あぁどうしよう。泣かないで、多吉ちゃん」
「よしよし、いい子だ、泣くな坊主」
「……そしたら、いつのまにか、ここに、来てたんだい……」
ついに口もとを歪めて泣きだした坊やを前に、ふたりはオロオロと取り乱し、途方に暮れました。
自分たちの息子とはいえ、まだ産んでもない子ですしね。
それにしてもまさか、めでたく結ばれたらしい未来のお梅と松吉が、こんな可愛い子宝までもうけておいて、夫婦諍いばかりの日々を送っているとは、にわかには信じられない話ではあります。
駆け落ちも辞さぬほどに惚れあっているふたりでも、重ねる苦労と耐え難い貧乏にさらされては、この熱い恋情も、いつかすっかり尽き果ててしまうのでしょうか。
そして軽率だった過去を悔やみなじり合ってるうち、幼い坊やは両親の不和に心を痛めながら、風邪をこじらせて、ぽっくり死んでしまうのでしょうか。
それはさっきの幽霊たちの、それぞれ悲惨な最期にも、負けず劣らず……いえ、もしかしたらそれ以上に、悲惨な結末なのではないでしょうか。
坊やの教えた未来は、この決断の先に貧しくとも睦まじく幸せな暮らしを夢見て、盛り上がっていた若いふたりの気持ちを、一瞬で、ぺちゃんこにしてしまいました。
「……わかったよ、坊や。
あたしやっぱり、駆け落ちなんて、よすよ」
「え、おい、待てよお梅、そんな……」
お梅が、決意したように、そう言い放ちました。
松吉は慌ててそれを咎めかけたものの、やはり思い直したように、うつむいて腕組みをして、呟きます。
「ううん……でも、そうだなぁ……この子の話を聞きゃあ、そのほうが、いいのかもしれねえなぁ……」
目の前で泣く子には勝てませんし、なによりも相手に対する失望が、ふたりの心に重たく垂れ込めていました。
この人こそが自分を、悲惨な運命から救い出してくれると、幸福な人生を約束してくれるのだとばかり思っていたのに。
どうやらそれは、とんだ見込み違いだった、というわけです。
やはり、結局自分たちには、縁というものが、なかったってことなのか。
「ほんとかい、おっ母さん、お父っさん。
よかった……」
お梅と松吉の心の中をそのままあらわすように、しゃくりあげる幽霊の坊やの姿は、みるみるうちに薄くなっていきました。
「じゃあ、さいなら。
おいらはこれで、いなくなるよ、さいなら……」
坊やの寂しい笑顔がまるで陽炎のように揺らいで、夕闇に消えていこうとした、そのときでした。
「ちょいと、お待ちよ坊や!」
これは、なんてこと。
先ほど消えていなくなったはずの幽霊のお梅と松吉の姿が、再びふたりの目の前に、転がり出るように浮かび上がってきたのです。
「なんでぇおめえたち、消えちまったのかと思ったら」
「ああ、そのつもりだったぜ。
だけどよ、おめえたちが気を変えて、やっぱり駆け落ちをやめようとするもんだから俺ら、消えるはずが消えられずに、また出てきちまったのよ!」
幽霊の松吉とお梅は駆け寄って、消えかけの多吉坊やを両側から挟み、頭を撫でるやら頬ずりをするやら。
「まあまあ、この子があたしと松吉さんの子かい……なんて可愛いんだろ……」
「話は聞かせてもらったぜ。
可哀想になぁ坊主、俺たちが来たからにゃあ、もう悲しい思いはさせねえぞ。
おう、お前ら、もういいや!
覚悟のねぇ駆け落ちなんざ、やめろやめろ!」
「そうだよ。せっかく授かったこんなに可愛い我が子の前で、毎日喧嘩ばかりだって?
あんまりひどい親じゃないか、ねえ坊や!
そんな情けねえ松吉とお梅はうっちゃってさ、いっそあたしたちの子におなり」
「ええっ!?
お父っさんとおっ母さんが、ふたりいる!?」
一方、突然現れたふたりを見た多吉坊やは、もうあとわずかで消えそうだった体を再びくっきりと現して、目をぱちくり。
その子を膝に抱こうとする幽霊のお梅ですが、生きているお梅は、どうも合点がいかないというふうに、首を傾げます。
「だけど……それじゃあ、おかしなことになりゃしないかい?
あたしたちがこれから駆け落ちをしなけりゃ、この坊やは最初から、この世に生まれてこなくなっちまうんでしょ?」
「えっ、そうなのか?
そいつは困るぜ、じゃあおめえら、この子が生まれてくるために、やっぱりくっつけ。さあくっつけ!」
「いやだい、それをやめてほしくて、おいらは来たのに!」
坊やは半泣きになって、抱こうとする幽霊のお梅の手を振り払い、生きている松吉もどうやらこの謎に気づいたようで、自分たち四人を交互に眺め回しながら、首をひねる。
「でもよう、お梅ちゃ……お梅さん、俺たちが一緒になれば、あんたもそっちの松吉も、消えていなくなっちまうんじゃねえのか?」
「うん……?」
そうなのです。
「……この子がこの世に生まれるなら、あたしたちは、居なかったことになる……?」
「でも俺たちが今こうして、この子を連れに来るためには、この子は、生まれるわけにいかねえ……?」
さあ困った。
「「いったいぜんたい、どうすりゃいいんだい!!」」
このややこしいからくりをどう解いたものかわからず、ふたりの幽霊が声を揃えて叫んだ、そのときです。
「ここにいたのかァ、坊主!」
頭上から、地面までも震わせるような胴間声が、鳴り響きました。
雷に打たれたような衝撃に飛び上がって、一斉に夜空を見上げた五人の目の前に現れたのは。
なんと、見上げるような巨体の、赤い鬼でありました。
「探したぞ、多吉坊。
勝手に時空をうろついちゃいかん、お前は一刻も早く、帰らにゃならんのだ。
さあ、おじさんと行こう」
半裸の赤鬼は、すくみあがった二組のお梅と松吉には目もくれず、もじゃもじゃと毛の生えた巨大な手を、小さな多吉坊やの幽霊に向かって伸ばします。
「きゃーっ!」
坊やは、鬼に首根っこを掴まれて、悲鳴を上げました。
「助けてぇ、怖いよう!」
「「ひぃっ……!」」
恐ろしげな赤鬼の姿に腰を抜かし、抱き合ってへたりこんだまま、声も出せずに震えているのは、生きているお梅と松吉。
一方で幽霊のお梅と松吉は、さすがは三年の年の功か、修羅場をくぐってきた経験ゆえか、それとももう死んでるんだから、怖いものなしなのか。
敢然として、鬼に立ち向かう。
「おっ、おうおうよせやい、この子を、どこに連れて行こうってんだい!」
「離しなさいよ、なんなのさ、あんた!」
咄嗟に駆け寄って、鬼の手から坊やをむしり取るように抱き寄せました。
「うん……?」
光る金壷眼をぎょろりとめぐらせてふたりを見下ろした赤鬼は、首を傾げ、毛虫のような眉をしかめます。
「あっしは、閻魔大王の下働き。この世とあの世の間で、生者と死者を仕分けしてる者でがんすがね。
困りますな、あんた方、とっくに死んだ幽霊じゃありやせんか。
邪魔だてしねぇで、その子をこちらに寄越してくだせえ」
「あいにくだが、あんたなんかにうちの子は渡さないよ。
悪いがこのまま、帰っておくれ!」
「うちの子って言われてもねぇ、おかみさん。
この多吉坊は、あんたらの子じゃありませんしな」
「わかってます……わかってますよ!
だけどもさ、縁もゆかりもない子じゃないよ!」
幽霊のお梅が、鬼に食って掛かります。
「この子は、この坊やは、
……あたしたちがその値打ちに気づかずに捨ててしまった、もうひとつの人生だ、本当に歩むはずだった人生の、宝なんだ!
その宝がこの世に身の置きどころなく、寂しくひとりで死んで行こうとしてるなら、
このあたしたちが、命に替えたって、守ろうじゃないか!」
その言葉を聞いて多吉坊やは、はっと目を見開いて、自分を抱くお梅の顔を見上げました。
そうしてその痩せた胸に、ぎゅっとしがみつきます。
「そうとも!
そもそもこの子の親になったお梅と松吉が不甲斐なかったせいで、この坊主がこんな不憫なことになったんだ。
あっちの俺たちの不始末を、こっちの俺たちが、どうともかぶってやろうって言ってんだい、それになにか、文句があるか!」
幽霊のお梅は坊やを抱きながら赤鬼を睨みつけ、そのお梅の肩を松吉が抱いて加勢します、が。
「替える命もねえ幽霊が!
勝手なことを、言いなさんなよ!」
わっと髪を逆立てた赤鬼の、雷のような怒鳴り声が、空気をびりびりと震わせて、響き渡りました。
「いいか、あんたらは、夫婦でもなけりゃ、この子の親でもねえ!
坊主の親を責めながら、どうでてめえだって、正しくて立派な生き方をしてきたわけじゃあ、あんめえによ!」
「……!」
その言葉に、感じるところがあったのでしょう。
さっきまで威勢のよかったお梅の幽霊は、はっと身をこわばらせ、うつむいて、涙ぐみます。
それを背にかばい前に出た松吉の幽霊が、赤鬼に向かって叫びました。
「待ってくれ!」
「なあ、勝手を言うようだが、どうか聞いておくんなさい!
確かに生前、目先の欲に負けて、人の道を踏み外し、その報いを受けて無惨に死んだ俺たちだけど、よう!」
松吉は、幽霊に似合わぬ大声を張り、一歩も引かぬというふうに、ない足を踏ん張って、鬼に訴えます。
「いや、そんな俺たち、だからこそよう!
地味で倹しくとも堅実な暮らしが、その値打ちが、……この子がこの世に生まれてくれたことの有り難さが、骨身に沁みて、わかるんだ!
だから頼む、このとおりだい、……どうか……」
最後は喉が詰まって言葉にならず、深々と頭を下げた松吉と、すすり泣くお梅。
けれども赤鬼はそんなふたりの幽霊に、無情にも言い放ちます。
「いや、この坊主は、あんたらには渡せねえ。
いいか、しくじりにしくじりを重ねた道を、そのたびに選んじまったのはあんたら自身だってことを、忘れたとは言わさねえ。
結局はてめえで選んだ人生だ、やっぱり気に入らなかったからハイなかったことにって、そんなわけにゃあ、いきゃあせんぜ!」
悪人に掛ける情けなぞあるものかとばかり、坊やを抱きしめたお梅と、そのふたりを背中に庇う松吉を、片手でどん!と、突き転ばす。
「うわぁっ!」
「きゃあっ!」
地べたを転げる松吉。倒れて悲鳴を上げながらも、坊やを離さないお梅。
「怖いよう、おっ母さん、怖いよ!」
倒れたお梅にしがみついて震えている多吉坊やの小さな背中に、ぬうっと伸ばしかけた鬼の巨大な手が、あわやというところで、ぴたりと止まりました。
「……?」
いぶかしげに見下ろせば、丸太ん棒のようなその足首に、今突き飛ばされたはずの松吉が、必死の形相でしがみついています。
「お梅、その子をつれて逃げろ!」
「松吉さん!」
「逃げろ、早く!」
もはや羽織もなくした血染めの着流し姿で、なりふり構わず、多吉とお梅を守りたい一心で、鬼に取りすがる松吉。
その松吉に断腸の思いを残しつつも、多吉の手を引いて再び立ち上がり、ざんばら髪を振り乱して、駆け出そうとするお梅。
さながら地獄絵図の様な光景に、生きているお梅と松吉は、息をひそめて抱き合いながら、震えるばかりでございます。
「ええ、面倒くせえ……」
鬼は顔をしかめ、ボリボリと頭を掻きました。
「この世にもあの世にも居られねえ半端者め!」
どん、と足を踏み鳴らした赤鬼の毛むくじゃらの両手が、幽霊のお梅と松吉の首根っこを、それぞれがっちりと掴んだ、その瞬間。
「「……!」」
三人の幽霊が、互いにひしと抱き合うのを、生きているお梅と松吉は、確かに見ました。
かつて、想いを殺し、連れ添うことを諦めて別々の道を歩んだ末、互いに醜く罪深い人生を生きて、そしてそれぞれ寂しく死んだ、かつての恋人同士が、生きているときに握り合うことをしなかったその手を、今になって握り合い。
そのふたりの間には生まれることのなかった幼子とともに、まるでほんとうの親子みたいに、寄り添うところを。
「あっ……」
けれども次の瞬間、幽霊のお梅と松吉の姿は煙のようにかき消えて。
あとにはただ、小さな多吉坊やの姿だけが、残されていたのです。
「……お父っさーん!
おっ母さぁあん!」
お梅と松吉の幽霊の手を握ったその形のまま、今はなにもない虚空を掴んで、多吉坊やは、悲痛な声で叫びました。
「坊主やい、わかってんだろ、あれはおめえの親じゃねえ」
「……うわぁーん!……」
鬼の言葉にも耳を貸さず、わっと泣き崩れる坊や。
その小さな背中を、生きているお梅と松吉は、呆然と見つめます。
「さあ、行くぞ坊主」
「ま、待て!」
泣きじゃくる幼子をひょいと小脇に抱え、何事もなかったかのように立ち上がった赤鬼に、なんと松吉が、渾身の勇気を振り絞って、駆け寄りました。
「その子を連れてくのは、やめてくれ!」
「……そういうわけにゃ、参りやせんな。
これも決まりなんでね」
「そこをお頼みいたしやす、このとおりだ!
……なんだかこんぐらがって、わけはわかんねぇが、とにかくこの子ぁ、俺とお梅の、大事なせがれだ。
しかもこんなに小さいうちに、みすみすあの世へ見送るのは、とてもじゃねえが、しのびねぇ……」
「あたしからも、お願いいたします!」
駆け寄って膝をついたお梅も、頭を下げた。
「なんの罪もない、不憫な子です!
どうぞこのとおり、後生でございます!」
「……」
多吉坊やを抱えた赤鬼は、困惑顔で、顎をさする。
「あんた方、どうやら思い違いをしていなさるな。
あっしがこの坊主を連れて行く先は、あの世じゃござんせんぜ」
えっ、と顔を上げてお梅と松吉、顔と顔とを、見合わせました。
「この坊主、確かに風邪は引いてたが、どうで死ぬような病じゃねえ。
なのに親の不仲を苦にしてよ、がきのくせに死にてぇ死にてぇって思いつめるもんだから、うっかり身から魂が抜けて、フラフラこんなとこに、飛んできちまった。
さっさと元の身に戻らせねぇと、死ぬはずでない人間を手違いで死なせたって、閻魔大王様に、あっしが叱られる」
「なんだって……じゃあ、あんたが多吉を捕まえに来たのは」
「この子を、生き返らせるためだったのかい……?」
思いもかけない赤鬼の言葉に、お梅と松吉は呆然として、一気に体の力が抜け、その場にへたり込みました。
「そういうわけだ。
さっきの幽霊たちが消えちまったのだって、あっしはなんにも、手出ししてねえ、あれは勝手に消えたのよ。
つまりはおそらくあの瞬間、あんた方が、これから進む道を心にキッパリと、決めたんでがんしょな」
「俺たちの、これから、進む道……」
松吉が呟いてお梅を振り返り、お梅は知らず知らずのうちに、その松吉の手を強く握り締めていたことに、気づきました。
「この坊主があっちで生き返ったとき、どんな親のもとで目を覚ますかはつまり、これからのあんたら次第、ってわけですな」
そう言い残すと巨大な赤鬼は、ひっくひっくとしゃくりあげる幽霊の坊やを抱えたまま、ヤッ! という一声とともに地面を飛び上がり、そのまんま夜の空へと、消えていきました。
「松吉さん、あたし、……あたしたちこれから連れ添って、ずっと睦まじく、やっていけるだろうか……」
「やっていかなきゃ、なんめぇよ」
すっかり日の落ちた暗い境内に、ぽつんと残されたふたりは、夢から冷めたような心地で、互いに顔を見合わせました。
「あの不憫な坊やに、また、会えるだろうか……」
濡れた頬を拭いながら呟いたお梅の冷えた肩を、松吉がそっと抱きました。
「不憫にするわけにゃあ、いくめぇよ。
だからさ、……なぁお梅、これからふたりで、おめえの親様んとこによ、話しに行かねぇか、俺たちのこと。
きちんと、言葉を尽くして、筋を通すんだ。
そうすりゃきっと、許してもらえるさ」
答える松吉の声はいつになく強い調子で、はっとして見上げたお梅の目にうつったその横顔は、見たこともないほど大人びて、頼もしく思えました。
ほうっと白い息を吐いてお梅は、風呂敷づつみの結び目を、握り直しました。
「うん。
……でも、もしも許されなかったらさ、……そのときはあたし、松吉さんとなら、どこへだって行くよ。
それで、あの可愛い坊やを産むよ。……あたしたち、親子三人、きっと睦まじく暮らすんだ。
そして坊やには、風邪をひかさないように、うんと気をつける」
そう言ってこちらを見上げたお梅の、つぶらな瞳の奥に、今までにない凛とした意地を見て、松吉の胸は、強く高鳴りました。
寄り添って稲荷神社を後にするふたりの肩に、粉雪はちらちらと降りかかり、うっすらと白く、積もっていくのでございました。