Girl's prayer 3rd
美菜が目を覚ましたのは辺りが真っ白で統一された見知らぬ部屋だった。身体は鉛のように重く、全身を注連縄で雁字搦めにされたように固くなっており、指先を動かすのも一苦労だった。美菜はただここが天国なのか地獄なのか確かめるために首に力を込めた。
美菜の視線の先はカーテンで仕切られており、相変わらず視界は白のみだった。美菜の近くを何度も往復する白い服を着た女は、同じ色のハンカチのようなものを頭に付けており、手に持つバインダーにときおり何かを書き込んでいた。
その女が看護婦だと分かった美菜は、ここは望まぬ地獄ではなかった、と安堵し再び目を閉じた。
今しがた見た真っ白な景色が実は幻で、目を閉じればまた過去に戻れると美菜は信じ、何かが己を呼ぶ声が聞こえるまで暗渠に脳を委ねていた。
「美菜、起きな。ばか娘が。もう二度とこんなことをするんじゃないよ」
聞き覚えのある声は母の登美子だった。
登美子は大きな紙袋を美菜の上に投げ、「着替え」とだけ言い残し姿を消した。
美菜は病院のHCUのベッドにいた。明瞭な最後の記憶は自宅であり、市販の風邪薬をニ瓶全て飲み干した後に襲ってきた耳鳴りと悪寒がまだ体の芯に棲みついていた。
思い出した美菜はベッドの上で大きく噦いた。朧な記憶の中で、おそらくICUだとは思うのだが、朦朧のままに胃の洗浄や体の至るところに管を挿されたことがうっすらと思い出され、口の中は味のしない液体が粘着していた。
抛られた紙袋を見ることもなく、口に残る不快感を残したまま美菜は意識を捨てた。
翌日に美菜は退院した。帰りがけに何かと世話を焼いてくれた年増の看護婦からは「苦しかったらここで相談なさい」と一枚の紙を渡された。それには『もう一度ここに電話を。心の救急センター』と書かれてあった。
しばらく歩き、病院が見えなくなるのを確認した美菜は、自動販売機横のダストボックスに紙を丸めて捨てた。
何か忘れている、と思った美菜はデニムのショートパンツにしまわれた携帯電話を取り出した。意識を取り戻した頃は電池切れだったが、トイレに行くよりも着替えを確認するよりも、携帯電話の充電を優先していた。それは男に別れの言葉をぶつけたいがためだった。
相手はすぐに繋がった。
「――もしもし翔也? 今どこ」
「おう美菜。お前どこに行ってたんだよ。こないだは悪かったな殴っちまってよ。仕事でイライラしてたんだわ。そうだ、お前今中三だろ? 来年卒業したら本格的に一緒に住もうぜ。つうか悪ィ、これから先輩と会うから切るわ。じゃあな」
「――ちょっと翔也」
そうして耳障りな終話音だけが残った。美菜は頬を擦った。
◆
翔也は美菜よりも四つ歳上である。八月のある日、夏休みを理由に夜中までコンビニにいた時に声を掛けられた。鳶職をしているらしく、紫色のニッカポッカ姿で煙草をふかしている翔也が同級生の男子よりも大人に見えた。
その日のうちに翔也のアパートに行き、初めて吸った煙草と苦いビールに正体を無くし処女を置いてきた。いびきをかいて寝ている翔也を起こさぬようにアパートを出た美菜は、そのまま朝日を浴びながら自宅の市営団地に戻った。
酸味のある禁忌的な匂いとヤニの匂いを隠そうともせず、うまく股に力の入らない美菜を見た登美子は、美菜に張り手を喰らわせてから自宅を出た。
それから約二ヶ月間、学校にも行かず翔也のアパートでひたすら時が過ぎるのを待った。
帰宅するなり翔也が美菜に覆い被さる日が続いた。最初こそ避妊具は付けていたが、常備してあったものが無くなっても買いに行こうとしない翔也を、それでも美菜は受け入れ続けた。
ひと月ほど経ったある日、いつものように翔也のアパートで携帯電話をいじっていると、翔也が見知らぬ女を連れて帰ってきた。
「翔ちゃん部屋綺麗じゃん。あ、この子が妹さん? かわいいじゃん。お邪魔しまあす」
甘ったるい香りを身に纏っている女は、部屋に上がるなり翔也の肩に手を廻し口を重ねていた。
「おい、ちょっとは我慢しろよ。妹が見てんだろ」
「いいじゃん。その方が燃えるかもよ」
翔也は「でもよ」と言いつつ、その女の唇を拒否しなかった。
翔也が床に落としたビニール袋からは、菓子や惣菜と一緒に避妊具が透けて見えた。その時、この女と共にそれが使われるのだと直感した。妹だと紹介された意味も薄々と気付いている。美菜は何も言わずに部屋を出て、ドアの前に座り込んだ。他に行く場所もない。逃避行先の部屋から美菜は追い出された。
「妹さん察しがいいわね。もうしようよ」
「お前早いって。あいつがまた戻ってくるかも知れないだろ」
「別にいいじゃん。妹なんでしょ」
部屋の中から聞こえる二人の声は次第に湿気を帯び始め、それが大きくなる前に美菜はアパートを離れた。
その日はひと月ぶりに自宅に帰り、長いことシャワーを浴びた。あの女の匂いが少しでも自分の体に染みていると思うと、そのまま服を着る気にならず、何度も石鹸で体を擦った。
手の皺が深くなるまでシャワーを浴びたあと居間に行くと、登美子がテーブルに突っ伏して寝ており、ビールの空き缶が散乱していた。それを片付けることもせず、美菜は久しぶりのベッドで深い眠りについた。
翌日、中学校の制服を着て自宅を出た美菜は、その足で翔也のアパートに向かった。翔也から渡された合鍵で入った部屋の中は誰もおらず、空き缶や惣菜のゴミ、そして不快な鉄のような匂いが充満していた。
窓を開け、空き缶をポリ袋に入れた。惣菜のパックも分別して他のに入れる。栗の花の臭いのするごみ箱から使用済みの避妊具を取り出し、それをトイレットペーパーに包んで流した。掃除機もかけ、念入りに女の痕跡を消した。
多少残り香はあるものの、いつも通りに戻った翔也の部屋で美菜は寝転び、翔也が帰ってくるのを待った。
いつの間にか寝ていた美菜は鍵を回す音で目を覚ました。部屋はすっかり暗闇になっており、母親からの着信が一回もないことを確認した美菜は、髪を手櫛で整えた。
「なんだ美菜、帰ってたのか」
その言葉を聞いた美菜は堪らずに翔也に抱きついた。翔也の汗の匂いは不快ではなく、むしろ心地よかった。
「おかえり」
「昨日は……悪かったな。ダチが酔っててさ。あいつ見境ないから困っちまうよ」
「いい。気にしてない」
「お前……今日学校行ったのか。制服姿なんか初めて見るぜ?」
制服姿で翔也の家に来たのは、昨日の女に対する抵抗でもあった。スカートの丈を短くするために何回も腰を巻き、普段着るキャミソールも今日は着ていなかった。黙って借りた母の香水は少しきつかったが、匂いなどは何でもよかった。わざと胸を翔也に押し付けた美菜は何も言わなかった。
「おいおい、どうしたんだよ今日は。ちょっと待てって。飯食わせてくれ」
翔也がコンビニ製の弁当をビールで流し込み終わるのを待ち、その後は流れのまま、いつも通り事が始まった。
翔也を受け入れている美菜は、今朝片付けたままの状態で置かれた避妊具の箱をただ見ていた。
その日以降、翔也は度々あの女をアパートに連れてきた。何度も来るうちに階段を昇る足音にヒール音が重なるだけで帰り支度をするようになっていた。そんな日は自宅に戻り、また翌朝アパートに取って返し、荒れた部屋を片付けるのが美菜の役割になっていた。
十月になったころ、自分には使われない避妊具の箱をごみ箱に捨てた美菜は、泣きながら翔也の部屋で叫んでいた。
「何あの女! 友達なんかじゃないじゃん! あたしいつも追い出されるの嫌だよ! 友達ならああいうことしないでいいじゃん」
「うるせえな! ガキがわめくなよ。たかがダチだろ」
「ならなんでゴム減るの? あたしには使わないくせに」
翔也の肩に手をかけた美菜の目の前に、翔也の拳が大きく迫ってきた。気付いたときには壁に後頭部がぶつかっていた。
何が起きたのか一瞬分からなかったが、頬に感じる激痛と後頭部に走った衝撃が、男の手によって殴られたことを教えてくれた。
「黙れよ糞ガキが。避妊はしてんだろうが」
美菜は何も言えずに頬を触ることしかできなかった。翔也はビールをあおり、そのまま缶を握りつぶしながら言った。
「嫌なら出てけよ。お前が家にいたくないからってここに逃げてんだろ。甘えんじゃねえよ」
潰された空き缶はそのまま美菜に投げられた。
「……じゃあ出てく」
頬の痛みでうまく喋れたかどうかは分からなかった。殴られたことで涙は止んだのだが、翔也のアパートを出た瞬間、止まっていた涙はより強く溢れ出した。息もできず、熱を持った頬を涙がさらに熱くさせ、足を動かすことすらできなくなった。手で涙を堰き止めようとしても、手伝いに溢れた涙はますます止まらず、ただ息がさらに苦しくなるだけだった。
それでも一歩脚を踏み出し、力を入れニ歩目、三歩目と脚を動かした。涙はそれでも止まらなかった。ようやく路地に出た美菜は声を上げ泣いていた。すれ違う人が美菜の方を見るが、誰一人声をかけるものはいなかった。それがさらに美菜の涙を強く果てしないものにさせていた。
視界がぼやけるなかようやく自宅にたどり着いた美菜は、居間に登美子がいないことを確認すると、すぐに薬箱を探した。
予備として保管してあるものも併せて、市販の風邪薬は二瓶あった。
なんの躊躇いもなく、美菜はそれをすべて口に入れ、水で流し込んだ。
◆
退院してから一ヶ月ほど経ったある雨の日、美菜は翔也のアパートに向かった。退院した日から電話はしていない。翔也からの連絡はあったが、美菜には話すことはなかった。しかしそれも次第に少なくなり、三週間が過ぎたころにはラインの一つも送られてこなくなった。
ようやく落ち着いた美菜は、忘れ物を返しに翔也のアパートに向かっていた。
この日は平日である。普段なら翔也は仕事に出ているはずだった。しかし翔也は鳶職で、現場次第によっては雨で仕事がない日もあった。そのことを思い出したのは、翔也の部屋の前に立ってからだった。運悪く、翔也が部屋から出るタイミングで鉢合わせてしまった。
「おい美菜。なんで連絡くれなかったんだよ」
「ごめん……色々あって」
「とりあえず中に入れよ」
この事態を予測していなかった美菜は、言われるがまま部屋に入った。翔也の部屋は記憶のまま何も変わっておらず、嫌な匂いのするあの女の気配もまるでなかった。
美菜は上がり框で突然翔也に抱きしめられた。
今までにないほど力強く、暖かく感じたそれは逃れなれない鎖のようだった。
「本当にごめん美菜。イライラしてたのは本当なんだ。わかってくれよ。あの女とも縁を切った。酒も辞めた。だから戻ってきてくれよ」
「ちょっと……翔也」
翔也からはほんのわずかに酒の臭いがした。翔也の胸から顔を反らし、奥を見ると缶ビールが二本テーブルに置かれていた。
美菜は強引に翔也の腕を振りほどき、ポケットから鍵を取り出した。
「嘘! またお酒飲んでる! そんなの信じられない」
「あれは違うって。さっきまで友達が来てたんだよ。まあ……ちょっとは飲んだけどさ。だけど誓う! 今日! 今日から絶対に飲まない」
「翔也はこないだあたしを殴ったんだよ? もう殴られて泣くのは嫌」
美菜は鍵を翔也に差し出した。
翔也はその鍵を受け取ろうとせず、その場に座り込んだ。
「美菜……俺さ、頭も悪くて、何の取り柄もなくてさ。親も暴力がひどかったから、仕方なく食うために鳶やるしかなくてよ。夏にお前と会ってさ、俺に似てると思ったんだよ。だけど……俺ァ馬鹿だからさ。お前をどう扱っていいかわからなくてよ。あの女はあばずれだから一緒になろうとはこれっぽっちも思わねえ。ガキなんかできちまったら最悪だ。でもよ、お前の気持ちはわかるつもりだ。事実ができたら一緒になる理由にはなるだろ」
美菜は鍵をそのまま玄関に落とした。
「言いたいことはわかった。でもあたしまだ十四だよ。そんなこと言われても納得できない。さよなら」
強く閉めた扉は大きな音をたてた。
帰る先が自宅だけになった美菜は、こみ上げる涙を拭わずに歩いた。翔也との別離か、あやふやながら輝いている夏の記憶か、自宅の母親の張り手か、何が涙を流させるのか美菜には到底わからなかったが、一ヶ月前のあの日のように美菜は泣いた。すれ違った女が「大丈夫? どうしたの?」と聞いてくるが、それを無視し、あてもなく歩いた。
◆
少し肌寒さが増した秋の夜、美菜は駅付近にある歓楽街裏の公園にいた。翔也の家に鍵を置いてからは真面目に学校に行くようになった。しかしそれが目的ではなくただ単に家にいたくなかったからで、せめて卒業だけはしろ、と担任教師から言われたこともあったからだった。
学校から帰宅するとすぐに出かけ、この公園付近をただ徘徊するだけだった。登美子は大抵外出しており、「冷凍庫」と書かれた紙がテーブルに置かれているだけだった。その紙もずっと置かれているものだった。
ブランコに乗って携帯電話をいじっていると、突然男に声を掛けられた。
「美菜……か?」
「誰? もしかして……拓海?」
男は同じ団地に住む拓海だった。歳は翔也よりも上で、小さい頃によく遊んだ仲であった。しかし最近は団地で見かけることはなくなり、良くない噂ばかり耳にしていた。やれ半グレだの、ヤクザだのと姿が見えないことをいいことに、大人たちの恰好のゴシップの的になっている。
「よっ。久しぶり。お前もう中三だろ。大人っぽくなったな」
「そ、そうかな」
拓海は小さい頃から美男子で有名だった。噂では女をとっかえひっかえしていると言われていたが、それは男のやっかみが半分であり、当の本人が家に連れて帰っていたのはいつも同じ女だったと記憶している。三年は会っていなかったが、拓海は雑誌で見るモデルよりも洗練されているような雰囲気を持っていた。
「何してるんだこんな所で。子供がいていい場所じゃないぞ」
「うん。色々あって」
ふと顔を上げると、目の前にはいくつものきらびやなネオンが輝いており、スーツ姿の怪しい男が道行くサラリーマンに声を掛けている。美菜に気付いたスーツ姿の男が手を振っていた。それを見た美菜は笑顔を造り手を振り返した。
「お前、あれポン引きだぞ。どういう店か分かってんのか? 風俗だぞ」
「うん。知ってる。たまに話すから」
「話すってお前、あんな店のやつらと関わるなよ。ろくなやつらじゃないぞ」
拓海は追い払うような手付きをポン引きにしながら、美菜を近くのベンチに連れ立った。拓海からはあの嫌な女に似た甘い匂いがした。
「お前まだ十四だろ。中三だったよな」
「昨日で十五になったよ。もう大人だよね」
「風俗嬢にでもなるつもりか」
「まさか。嫌だよ風俗嬢なんて」
「じゃあなんでこんな所にいるんだよ」
美菜は翔也を思い出した。次いで母親が脳裏に浮かび、嫌な匂いを撒き散らす女の顔が出てきたところで思考が止まった。
「ここにいると寂しくない。それにここにいるとネオンがあたしを照らしてくれる。嫌なことを忘れさせてくれるの」
「……本当にそれだけか?」
拓海が周りに目を運ぶと、先ほどからこちらを見ている小太りなサラリーマン風の男がいた。その男は美菜に向かって小さく手を振っている。その仕草がポン引きのように愛想で振られたものではなく、後ろめたさを隠すような挙動であることを悟った拓海は、「美菜に近寄るんじゃねえよ」と叫んでいた。
「あの人悪い人じゃないよ。泣いてるあたしをいつも優しく撫でてくれるの」
「お前……援交か」
美菜は頷くことなく鼻唄を奏でた。歌手は忘れたが、翔也がよく聴いていたバンドの曲で、それだけが耳に残っていた。それを鼻で歌うと自然と心が落ち着いた。
「家は? まだあの団地だろ。おばさんは……登美子さんはいるんだろ」
「いない。たまに帰ってくるけど大体寝てるから」
拓海は奥歯から軋み音が聞こえそうなほど顔を歪ませていた。なるほど美男子とはよく言ったもので、どんな顔をしても俳優が演じる登場人物のように堂に入っている。
「なら俺ん家から学校行け。多少歩くがこんな所でウロウロするよかよっぽどいい。俺、近くのマンションに住んでんだ」
「いいよ、悪いし」
今度は翔也とあの女が口づけをしている映像が美菜の頭に浮かび上がった。美菜はポケットに手を入れ、それを取り出した。
「お前! 馬鹿はやめろ」
拓海が慌てて美菜の手を叩いた。すぐに黄色い持ち手のそれが落ち、地面を叩いた。そしてすぐに拓海が美菜の肩を強く掴んだ。
「美菜、腕見せろ」
答える前に拓海が美菜の腕を強引に捲った。美菜が見慣れた痕であっても、拓海には忌々しいものに見えるらしく、腕に遺された無数の線をただ擦っていた。その拓海の手は、いつか抱きしめられた翔也の胸よりも暖かく感じた。
「大丈夫だよ。軽い傷だし。そもそもカッターなんかじゃ死なないよ」
地面に落ちたカッターを美菜が拾おうとすると、拓海がそれを取り上げ、まだ物陰からこちらを見ていた小太りの男に投げつけていた。
「こんなもの見せられてほっとけるか。俺ん家に行くぞ」
三度小太りの男に一瞥をくれた拓海は、美菜の手を取りそのまま歩き出した。
「いいか、二度とここには来るんじゃねえぞ」
これからより深くなる夜の街を二人で歩いた。
◆
「今日からここがお前の家だ。適当に使っていいから、ここから毎日学校に通え。明日の朝一番で家に帰って荷物を用意しろ。いいか、帰ってくるのはここだからな」
そう言われて充てがわれた部屋は、八畳はあろうかというほどに広い部屋だった。
その日から拓海のマンションでの生活が始まった。
翔也とは違い、帰ってくる時間はまちまちで、帰って来ない日もあった。しかし一日中家に籠もってる日もあり、そんな日は共にテレビゲームをして夜中まで遊んだりもした。
拓海は仕事の話を一切しなかった。まだ二十歳だというのに一見すると高級にも思えるマンションに一人で住み、様子が良い格好で出掛けることが多かった。「何の仕事してるの」と問うたこともあったが、いつもはぐらかされてしまい、結局わからず終いである。
若干の不安もあったが、翔也とは違う大人の色気と優しさを隠さない拓海は、中学校卒業まで美菜に手を出さなかった。腕の傷が増えることなく過ごしていた美菜は三月に、無事に中学校を卒業した。そしてその夜、初めて男女になった。
「あたし高校行かないよ」
「ああ。構わない。俺だって中卒だ。高校は途中で辞めちまったし」
フリーターの道を選んだ美菜を拓海は責めなかった。それどころか自由に生きろ、とすら言った。とは言ったものの、働くすべを持ち合わせていない美菜は金勘定ができるわけもなく、またあの公園に行くようになった。拓海に少額でも渡すために。
拓海に心配をかけることは避けたかったため、「居酒屋でバイトすることになった」と言い、昼過ぎに公園に行き、夜に帰宅する生活をするようになった。
「ねえ美菜ちゃん。こないだのあのイケメン、あれ彼氏?」
枕元にある照明ディスプレイで遊んでいる美菜に、たるんだ腹で大きく呼吸をしている男が美菜の背中を触りながら尋ねた。
「そうだよ。格好いいでしょ」
「こんなことしてるの知ってるの?」
鼻息を荒く吐いている男は美菜の背中に顔を付けている。それを嫌がらずに美菜は手を差し出した。
「ごめん、時間になっちゃった」
男は名残惜しそうに顔を離し、財布から抜き取った一万円札を美菜の前に抛った。ありがとう、と小さく礼を言う美菜の前にもう一枚飛んできた。
「無しで」
「それは駄目。つけるの条件だよ」
男は大きく舌打ちをし、いそいそと服を着だした。
この男とこのホテルに来るのもすでに二桁を超していた。中学校を卒業して三ヶ月が過ぎ、このホテルに来る度に襲われる罪悪感を一万円札で売り払い、それでも残る悔悟を拓海の熱で浄化する日々だった。
日に三回も件のホテルに行ったある日、帰ってきた拓海は珍しく酔っていた。壁にぶつかりそうなほど正体をなくした拓海を見るのは初めてで、美菜は細い腕で拓海をソファーまで連れていった。嗅いだことのない匂いが美菜の鼻を衝き、ソファーに倒れ込んだ拓海の首元に小さな痣があるのを発見した。
「おい! 美菜、水よこせ」
「は、はい」
急いで水を入れたコップを拓海に渡そうとすると、そのコップを掴まずに腕を強引に引っ張られた。そのまま唇を吸われ、荒々しく衣服を剥ぎ取られた。あとはなされるがままだった。途中、何度も頬を張られた。拓海は泣きながら「なんでだよ」と言い、薄く傷痕が残る美菜の左腕を何度も舐めた。
美菜も寝息をたてた拓海に向かって何度も「ごめんね」といい、涙を床に溢していた。
その日以降、拓海が帰宅する頻度が格段に減った。戻ってきても泥酔状態がほとんどで、明らかに女性用の香水だと分かる甘い匂いを付けて帰ってくることが多かった。
そんな日は決まって美菜の頬を叩き、泣きながら身体を求めてきた。それでも美菜は受け入れ続けた。
拓海の帰宅する頻度と反比例するように、美菜は公園に行くようになり、一晩中徘徊することも多くなっていった。
いつしか腕の傷もまたその本数を増やすようになっており、今まで幾十と使った黄色いカッターナイフで胸に小さく十字架を切った。
それでも週に二日は拓海は家に戻ってきた。拓海に嫌われたくない一心で差し出す一万円札が多くなり、終いには貰った札をそのままそっくり渡すようになっていた。
腕の傷が太ももまで蚕食される頃、美菜の妊娠が発覚した。もうすでに三ヶ月だった。
心当たりは拓海しかいなかった。どんなに身体を売っても、避妊だけは徹底していたのだが、吝嗇をしてまで拓海に渡す金を作っていたのだから、ピル代にまで気が回らなかったのは当然であり、それが仇となったのだろう。
そのことを告白するために客は取らず、ただマンションで拓海の帰りを待っていた美菜は、首元に三つも痣を付けて戻ってきた拓海の前に座った。珍しく拓海は素面である。
「拓海の子を妊娠した」
そう告げると、拓海は何も言わずに出ていった。
全てが終わった、と美菜は思った。もう下腹部も大きくなり始めている。体の異変に気付かなかったのは、過度なストレスによる吐き気だと勘違いしていたことと、生理が来ないことをただの不順だと思い、それを逆手にとって客の相手をしていた自分自身の落ち度だということは容易に理解できた。
しかし一番の誤算は、拓海が喜ばなかったことだった。いつか翔也が言っていた「事実さえできれば」の言葉を拓海にも当て嵌めて考えていたのだ。しかし拓海はその事実に耳を塞いだ。堕胎するにも時間はない。それ以上に堕胎はしたくなかった。
拓海がいなくなってしまう。いや、拓海もである。その恐怖のあまり美菜は誰もいない部屋で独り笑っていた。もう本当に誰もいない。肩を上下させ笑っていた美菜は、そのまま床に泣き崩れた。翔也に殴られた日のように、翔也と別れた日のように、拓海に始めて頬を叩かれた日のように、泣き続けた。あれだけ流した涙は枯れてはおらず、体の血液が一瞬で濾過され涙に変化しているかのように、止めどなく流れている。喉が枯れるまで泣いても涙が枯れることはなかった。
美菜はまた一人になった。
◆
美菜は分娩室にいた。拓海がマンションから去った日、一日泣き崩れたあと、揺れる頭と下腹部を抑えながら自宅の団地に帰った。相変わらず母親の登美子は家に帰らず、たまに帰ってきてもそのまま寝てしまうだけだった。だのに、心底憎むことができないのは、拓海とその姿を重ねていたからであろう。
美菜は産むことを決めていた。
初産だからなのか、陣痛が長引きなかなか産声は聞けなかったが、痛みで意識が朦朧としているなか、ひとつの命の声が足の方から響いた。
それはとても小さい体なのに、驚くような大声をあげて必死に母親を探す命の叫びのようだった。
下腹部に尋常でない痛みが残り、胸に刻んだ十字架も同じように痛んだのだが、その痛みを一瞬にしてかき消した命の叫びは、美菜にとって枯れ果てた涙を涌き立たせていた。
美菜の腕に収まった小さな命は、その在り処を存分に母親に示し、母親である美菜もまた、それに呼応するように泣き声で返していた。
「ありがとう」
確かな熱を持った小さな生命は、美菜の腕の中で確実な呼吸をしている。それは美菜の涙の源泉でもあり、脚を踏み出す一歩の原動力でもある。
止まることなく流れる涙は、翔也や拓海から与えられた涙ではなく、美菜自身が望んで湧き出た涙であり、あの公園を求め彷徨い歩いた闇を求めてはいない。
目の前で泣いている赤ん坊と共に見る光は、美菜にとっても初めての光となった。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
とあるバンドの曲です。
何か思うところあれば幸いです。