第3話 甘いパンケーキ、そして苦い思い。
「あっ、青木さん」
扉が開くやいなや、須藤は弾んだ声で出迎えてくれた。この女優かと思ってしまう程に整った顔、耳ざわりの良い声、ほのかに匂うフローラルな香り……間違いなくついさっき出会った須藤恋歌だ。
「えっと、どうしたんですか?」
暫く固まっていた俺を不思議に思ったのか、用件を尋ねてくる。しまった、つい見蕩れてしまっていた。
「あっと、あの、部屋、隣に越してきたんで……その、これどうぞ」
「羊羹ですかっ、私これ好きなんです。ありがとうございます」
須藤は羊羹を受け取るとにこやかにお礼を言った。今のご時世、まだこんな素晴らしい女性がいたのか。前に住んでいた所ではろくな女がいないと嘆き続けていたが……
「あ、じゃあ俺はこれで」
「あっ、あの」
「え?」
俺がそそくさと部屋に戻ろうとしていると、急に須藤が呼び止めてくる。一体何だろうか、いくら素晴らしい女性とはいえ、いや素晴らしい女性だからこそあまり一緒にいると緊張して疲れるから早く撤退したいのだが。
「あの、これから一階のカフェでデザートでも食べようかなーとか思ってたんですけど……ご一緒にどうでしょうか。あ、疲れてるならいいんですけど……」
須藤は申し訳無さそうに誘ってくる。確かに俺は今疲れている。しかし、だ。こんな状況で男が断れると思うか?それにどうせカフェには行く予定だったのだ。というわけで、返事は勿論、YESだ。
カフェの看板には「heartful」と書かれている。これがここの店名だろう。しかし妙に緊張する。おやつの時間はカップ麺を貪り食ってたような人間なのでこんなオサレなカフェには入った事が無いのだ。それに今は須藤も一緒だ。女の人と二人きりで何かの店に行くという経験は恥ずかしながら一度も無い。緊張するなと言うのは無理な話だ。
須藤が扉を開くのに続いて中に入る。内装はダークブラウンでノスタルジックな雰囲気を醸し出している。観葉植物が所々に置かれており、棚には大量の書籍と車の置物がある。テーブル席は六席。客は俺達を除くと二人。そしてカウンターの向こうには整った髭を生やしたグレーの髪の渋いおっさん……マスターがいた。
「やあ」
突然、二人いる客の内の一人が気さくに挨拶をしてくる。男のくせに髪がやたらと伸びており、前髪で片目が隠れている。見た目は俺と同じぐらいの年に見えるが、髪は真っ白だ。染めているのだろうか。
「こんにちは、桜庭さん」
須藤も挨拶を返す。俺も桜庭、と言われた男に軽く会釈をした。
「……須藤さんの彼氏さん、では無さそうだね」
桜庭は俺を物珍しそうにジロジロ眺めながら馬鹿にしたように言う。なんなんだこの男は。俺が須藤に釣り合わないとでも言いたいのか。まあ実際そうだろうし反論できないのだが……。
「だとすると……レンアイ荘の新しい住人さん、かな」
「それがどうしたんだよ」
「ふっ、何でもないよ。悪いね邪魔して」
桜庭は俺の全身を興味深そうに舐めるように眺めた後、満足したのか俺から目を離して机に置かれていたコーヒーを飲み始めた。
「な、何なんだあいつ。あいつもここに住んでるのか?」
「桜庭ミツルさん。住人じゃないけどこのカフェの常連さんなんですよ」
「……ふーん」
まあ誰がここに住んでて誰が常連かなんて正直どうでもいいんだけど。だが、こんな怪しい奴とはなるべく関わりたくないものだ。
俺達はそのままカウンター席に座る。二つ隣にはもう一人の客が座っている。一目見た感想としてはスーツ姿のショートカット美人と言った感じだった。おそらく俺よりも年上だ。コーヒーを飲む仕草がやけに色っぽい。
「いらっしゃい……おや、見かけない顔だね」
マスターがカップを拭きながら応対する。見た目に違わず渋い声をしている。
「あ……さっき越してきた青木です」
「青木くんね、じゃあ今日は特別に全メニュー無料にしてあげよう」
「え、いいんですか……?」
「ああ、新入居者特別サービスだ」
何でも食っていいのか……なら何を食おうか、とメニューを眺める。須藤も隣で「今日は何にしようかな~」と楽しそうにメニューを眺めていた。うーむ、どれが美味しいのだろうか。よく分からないが……隣の綺麗な女性が食べているパンケーキにでもしようか、などと考えていた時。
「うわっ、何このパンケーキ。全然美味しくないわね……」
と、パンケーキを口に運んだ隣の美女が表情一つ変えずに呟く。えぇ……こんな美味しそうなのにそんなにマズいのかこのパンケーキ。ていうかそんな事マスターの目の前で言うか普通?
しかしこの美女、マズいマズい呟きながらバクバク食っている。何なんだこの女。見かけによらず変人なのか?なんて考えていると、須藤が耳打ちしてきた。って近い近い。良い匂いが漂ってきてどうにかなりそうだ。
「溝呂木さん、嘘しかつけないんです」
溝呂木、それが彼女の名前か。って嘘しか吐けないってどういう事だ。やっぱり相当の変人なのではなかろうか。
「どういう事だよ、嘘しか吐けないって」
「あれ、大家さんから聞いてないんですか?呪いの話」
「……呪いって、まさかあれ信じてんの?」
「……信じるも何も、私にだって呪いかかってますし」
「え……?」
……これはアレか。住人総出で俺を騙してるのか。何だって俺なんかにそんな冗談を言うのか。あれか、姉の差し金か?とんだ迷惑な話だ。
「冗談じゃないですってば。ね、溝呂木さん」
「……何の話かしら」
「呪いの話です」
「冗談よ、呪いなんて無いわ」
「やっぱり無いんじゃないか」
「だからこれは嘘を吐いてるんですってば~」
あくまで須藤は冗談を言い続けるつもりらしい。あり得ない、そんな話が現実にあるなんて。そう、実際に俺には呪いなんて何も発生していない。
「須藤くんの言っている事は本当だよ、青木くん」
今度はマスターまでか。俺は面倒臭くなって大きなため息を吐いた。
「何なんですかそれ……姉さんの差し金かなんかですか」
「姉、というと青木藍菜くんかな。別にあの子は関係ないよ。この荘に呪いがあるのは事実だ」
「……じゃあ証拠はあるんですか」
「証拠か、残念ながらそれは見せられないな。呪いは人の内面に関わる事だからね」
「……内面」
「ちなみに私には『普通の人の十倍時間の進みが遅く感じる』呪いをかけられている」
「……嘘だ」
意味が分からない。意味が分からないのだが、マスターにこんな事を言われてしまうともう飲み込むしかないような気分になってしまう。実際、とても彼が嘘を吐いているようには思えないのだ。
「で、でも、俺には何も呪いは無い」
「ここに住んでいる限り必ず呪いは君の身に降りかかる。きっとまだ気づいていないだけさ。君の身に訪れるであろう大事な局面に、呪いは必ずやってくる」
「……そんなヤバい所なら別の場所にすればよかったな……」
「別に今からここを出ていっても構わんが、呪いから逃げた場合は永遠にその呪いに苦しめられる事になる。私はそういう人を何人か見てきた」
「そんなのってありかよ……何で姉さんは何も言ってくれなかったんだ」
「呪いがあるという事実はここに住む者以外には話してはいけない決まりなんだ。いや、話せないと言った方がいいかもね」
「……めんどくせー事になったな」
俺は脱力して椅子にもたれかかる。大事な局面で、か。だったら、大事な局面なんて作らなければいい。そうだ、俺はずっとここで平穏に暮らせばいいんだ。そうすれば呪いなんてかからずに済む。
「……そうだ、呪いはどうやったら解けるんですか」
「呪いは、自分の中の何かの大きな思いが成就した時に消える。例えば君のお姉さんも恋愛という大きな思いが成就した事で彼女の中の呪いは消えたんだ」
「大きな思い……」
俺の中にそんなものあったっけ。いや無いだろう。俺はずっと平坦な人生を過ごしてきた。そしてこれからも平坦に過ごしていくつもりだった。
「もし君の中に大きな思いが無いのなら、見つけていくしかないね。たとえ呪いに苦しめられようとも」
「……」
「これは君に課せられた試練だろうね。きっかけはどうあれ、君はここに住むことになったんだ。君はこの試練を越えねばならない。そして、無事に越える事が出来れば君は一歩成長できるだろうね」
試練、か。めんどくせー。結局俺は姉にハメられたってわけだ。ならいいさ、受け入れてやるよ呪いってヤツを。俺は平坦に生きたまま呪いとやらに抗ってやる。面倒事は……もう御免だ。俺はカフェのメニューをもう一度眺めて
「パンケーキとチョコバナナパフェとチョコチップタルトとマンゴージェラートとフレンチトーストとカフェオレください」
「ほう、食うねえ」
「……やけ食いですよ」
これから苦い思いをするはめになるかもしれないんだ、これぐらい甘い物食っても罰はあたらないだろう?と、この後結局パンケーキとフレンチトーストだけで腹が膨れて残りを須藤と溝呂木に食べてもらうことになるなど想像もしてない俺は、そう心の中で呟いた。