第九幸 「優しさを求めて」
人里離れたそのまた向こうに佇む人知を超越した存在。人はそれを神と讃えるらしい。だが人は神と人の境界線は明確に定めようとしない。つまるところ、神というのは想像上で成り立つ存在で、もし自ら神と名乗ろうものならおこがましいと罵倒され、その存在が神だと認識されるときは永劫訪れない。だからこそ神というのはひっそりと身を構え、信仰が許す範囲で神威を発揮する。その神威の種によって神の祀られ方が変わるのだ。例えば自然崇拝の対象や全知全能などである。要約すると、神は人に目立つ関わり方をすると信仰が失われてしまうのだ。
「そう。だから私も」
ちょこんと駒を置く。
「王手」
「ぬあぁーーー!また負けたぁ...」
「これで私の499勝10敗」
「自慢かっ!」
ふぅと一息ついて見下ろす。今日は生憎曇りらしい。眼下には雲の原が広がっていた。
「今日も暇だなぁ」
「次の外出許可は来週だよね」
「うん...。次こそはイケメンと会う!」
「声かけられないけどね」
「現実を突き付けないで...」
あはは、と目の前の蛇女は髪をくるくるとしながら笑う。こいつは一応私の侍女だけれど特に上下関係があるような仲ではない。
「あんたと出会ってもう15年も経つのか。初めて会ったときは怖かったなぁ」
「そんなに?」
「そりゃそうでしょ。笑うたびに髪は逆立つし、ましてや腕をつかもうとしたら無数の蛇に変形するし」
「だって蛇女ですもの!」
ごんと拳骨を入れる。こいつすぐ調子に乗るからなぁ。
「でもあんたも相当怖かったよ」
「私はどうみても温厚篤実でしょ」
「それはない」
ごん。ついでにもう一発。
「いったぁ...。だってあんただって腕が四本あるじゃん。もはや人間じゃないよ。怖いよ」
「人間じゃないし」
「屁理屈言うなー!とりあえずあんたも相当怖いんだって。今は慣れたけどね」
「でも人間界では神威が消失するから余分な二本は消失するし、あんただって髪はただのロングになるだけじゃん」
「まあね」
目の前の蛇が長い舌を出して笑う。これだけは慣れないんだよ。怖いわ。
「〝女〟が抜けてる!それ超大事!私蛇女!」
「はいはい」
さて、茶番はさておき。最近は下界の様子がやたらと騒がしい気がする。先日も霞がかってよく見えなかったが、紅い炎のようなものが光っているのが見えた。ここは普段は民が来ないから平和そのものだけど、だからこそ下界の様子というのがいまいち分からない。だから一ヶ月に一度、一週間ほど民に紛れ込んで下界で偵察するのだ。
「取り決めとかほんと、やめてほしいよねー」
「まあ、仕方ないよ。そうでもしないと神威が発現しちゃうんだし」
そう、偵察にも取り決めがある。民に喋りかけない、神威を発動しないなど。正直自由な偵察とはかなりかけ離れている。
「イケメンイケメンイケメン...。」
横の蛇女は他のことを考えているようだけど。
「で、今回はどこにいくのさ」
「今回はヴィティニアに行く予定ー」
ふーん、と頷くとすたすたと歩いて行ってしまった。
さてそろそろ公務の時間かな。私は四本の腕を大きく振りかぶると、すうっと息を吸い深呼吸をした。
「はぁ...はぁ...くっ.......っ!」
さっきから頭の中には一つのフレーズしか頭の中に響いていない。こんなに走ったのは久しぶりだ。
息は既に上がりきり、足腰の関節はすり切れるような悲鳴を上げている。
俺に横抱きにされているサクラコは何かを感じ取ってくれたのだろう、じっとしている。
可能な限り最速でたどり着かなければいけない。焦燥のあまり心臓の鼓動は自分のペースをかき乱す。
でもまだ聞いてないんだ。彼女が言った言葉の真意を。
「走れ走れ走れ...走れぇぇぇぇぇぇ!」
俺は体の悲鳴を声にして張り上げ、叫んだ。
ロクはさっきからはぁはぁと息を切らして走り続けています。私にも何かできることはないのかなと探しますが、結局はじっとしていることしかできません。今ロクが何に駆られて疾走しているのかわかりません。だけど多分本気なんですよね。だから応援します。ずっとそばにいます。私はロクの腕の中でそう誓いました。
声が聞こえる。また兄上だろうか。声はまだ聞こえ続けてる。
『.......走れぇぇぇぇ....っ!』
「録!?」
この声は間違いない、録だ。だがおかしい。私の能力は相手に一方的に脳内に語りかける能力だ。相手の声が聞こえてくるなど無いはずだ。だけどこの声は暖かみがあって、私を否定しない声だ。じゃあ、録はどうして走っているのだろう。私の能力でも特定の人物の視覚を共有することまではできないので、彼が何故走っているのかは認識できない。でも私は彼に会ったときから決めていた。たとえ牢獄の中でも、
「ずっと待ってます」
そう呟いたとき、何者かが階段を下る音が聞こえてきた。また誰かが連れて行かれるのだろうか。刑の執行は毎日夕方4時に行われる。この時刻になると囚人達は急に震え出す。そして連行されるのが自分で無いことを祈るように手を合わせるのだ。手を合わせないのは私だけ。だけど最近になって私はみんなが手を合わせ終わると怖くなって手を一人で合わせてしまう。怖いのだ、自分だけが死の恐怖を感じないことが。そう思うと、最後の瞬間まで死を覚悟できない人間になりそうで、最後までまた世間の排除の対象になりそうで怖くてたまらない。私は今まで一度も忘れたことが無い。母親が廃棄物を見るように蔑む私への目線。だからこそ私は誰に対しても優しさを持とうと決めた。今日もどこかで誰かを思う「優しさの花」が咲いていることだろう。そしてその優しさはいつか私に戻ってくる。
だから私も覚悟を決めなくちゃいけない。いつまでも大人しくしていられないんだ。
掲げよう―
「反逆の狼煙を」