第四幸 「優しさの花」
少女は呟く。
「旦那様。早く迎えに来ないと、いなくなっちゃいますよ...。」
何も無い空間に声が反響する。彼女は一人だった。
彼女がいたのはまさに地獄としか言わざる得ないところだった。
彼女の目は朝露を浴びたように濡れていて、今にもこぼれ落ちそうで。それでもって目に浮かべるその雫は落すことを知らない、不自由な雫だった。自由になりたい。自由にしてほしい。そう願うだけいっそう不自由になる。そのことを彼女は知っていた。仲間などいなかった。
「仕方なかったんです。」
そうやって言うのも何度目だろうか。こんなのただの欺瞞だ。自分へ何度も言い聞かせて自己暗示をさせる、ただのまやかしに過ぎない。巻き込みたくなかった。でもそれではダメだった。自由になりたい。ただその自分の欲望が独占欲を奮い立たせ、結果としてまた不自由を招いた。
泥まみれでもいい。不格好でもいい。白馬に乗っていなくたって構わない。彼女はただただ願い続ける。
彼が手を取ってくれるその日を信じて。
とりあえず俺は街を散策してみることにした。街と言っても恐らくこの辺は辺境なのだろう。建物もこれと言って凄いものがあるわけでも無くさほど賑わっているとも言えない。店というのも日本で見るような店舗をどっしり構えているのでは無く、家兼屋台といった感じでテーブルの上に果物やら野菜やらが並べられている。ただどう見ても品薄状態だった。それもほとんどの店は商品が並べてあっても店主はおらず、万引きも安易に行えてしまう。すると、一人の少女が屋台の前まで走って行く。恐らく10歳くらいだろうか。すると彼女はきょろきょろと周りを見渡した後、服の中に果物をひとしきり詰め込んだ。もちろんそれは売り物だろう。
「お、おい!」
俺が声をかけようとすると、少女は矢で射貫かれたように体を震わせ、そして恐る恐る振り返った。
だが、そのとき驚いたのは俺の方だった。少女には獣耳がついていた。しかしウルフのワタルのようなとがった耳では無く猫耳のような耳だった。だが俺が驚いたのは耳だけでは無かった。少女の顔は傷だらけで服もぼろぼろ、何せやせ細っていたのだ。俺はようやく理解する。この街は貧民街なのだろう。そう考えるとあのワタルはこの街だと裕福な方に分類される。そして少女は未だに俺におびえたままうずくまっている。俺だって貧しかったら、盗みを働いてしまうかもしれない。だが今は立場が逆だ。俺にできることを考えなきゃいけない。
俺が辺りを見渡すと換金所と書かれた店を見つける。少女に「ついてこいよ」と言った後、その換金所まで行くと自分の来ていた上着を店員に渡す。すると店員は「はいよ」とだけ言って硬貨をを渡してきた。500と書かれた硬貨が10枚。この金額がどれほどの価値か分からなかったが、とりあえず先ほどの青果店へ行った。
隣に座る少女は先ほどとは打って変わって笑顔で緑色の果実をほおばっている。俺はというもの、少女の代わりに店員にお金を払ったのだった。そして気付いたことがもう一つ。それはここの物価は日本とほぼ一緒ということだ。質を比べてしまえば元も子もないのだがこの娘の表情を見ればそんなことまで考える必要は無いと思ってしまう。
「お兄ちゃん、ありがと!」
少女は食べ終わると俺の方を向いてそう言っただった。
「おう。」
「あのね!あのね!私、サクラコっていうの。お兄ちゃんは?」
「憶乃録だ。ロクで構わないよ。」
「うん!ロクは優しいね!」
そして彼女―サクラコはまた100%の笑顔で微笑んだ。そう、たとえ貧民街でも優しさ一つで花を咲かせることができるんだ。俺はいつかこの街を笑顔で溢れる街にしたい。柄にも無くそんなことを思ってしまった。
「そういやサクラコ。お前家に帰らなくて良いのか?」
彼女は俯いてしまう。失言だったか...?
「お家、ないの。」
「...。」
俺は黙って聞くことにして、相づちを打つ。
「お家は燃えちゃって、お母さんもお父さんも死んじゃった。」
「それは...。」
次の言葉が出てこなかった。こんな貧民街だ。家の一軒や二軒焼けたところですでに日常になりかけてしまっているのかもしれない。俺は黙ってサクラコの頭を撫でた。
「俺と一緒に来るか?」
こんなこと言っておきながら、俺には行く当ても目的も今はまだ何も無いのだ。それでも放っておくことはできなかった。いくら俺が無一文で甲斐性なしだとしても助けてあげたい。そんな無責任な一言。それでもサクラコは。
「うん!お兄ちゃんといたい!」
太陽のように明るい笑顔で俺を照らしてくれるのだった。
今必要なのは情報。目的なくして冒険しても返ってリスクが大きすぎる。さらに言えば、この世界が今どんな状況なのか知らないのでは話にもならない。俺たちはとりあえず街役場まで行くことにした。
がらっ。俺は街役場の扉を開けた。
入って一番最初に視界に映ったのは閑散とした集会所だった。受付の人たちは机で突っ伏して寝ているし、お知らせが書いてあるだろうボードには貼り紙の一つも無かった。そう、本来街の発展の中心になるべき役場でさえも機能していないのだ。何があったのか知る由も無かった。
「サクラコ、この街で何があったか教えてくれるか?」
サクラコは静かに俺の顔だけをまっすぐ、純粋に見て、そして語り出した。