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疚市(旧)  作者: 雪虫
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1-3

「すいません……そこの方……ちょっと…………お時間頂いて……よろしいですか……?」


 唐突に声を掛けられた気がして、私は首を巡らせた。ぼんやりと歩いていたものだから、何処から声を掛けられたのかそんな事さえわからない。


「すいません……」


「ひっ!」


「ああ……すいません…………驚かせて……」


「い、いえ、こちらこそすいません…………」


 相手が頭を下げたのにつられ、私も頭を下げ返した。何時の間にか私の左隣に、黒いフードで顔を覆った奇妙な男が立っていた。顔はほとんどフードに隠れていたから、『男』と表現するのにはいささかの躊躇いを覚えたが、けれど、フードから覗く口元は確かに男性のものだったから、私はこの奇妙な人影を『男』だろうと認識した。


 『男』は黒いフードで顔をほとんど覆い隠し、何処か疲れきったような、擦り切れ果てたような異様な空気を漂わせていた。例えるなら不治の病と長年戦い続け、身も心もボロボロに成り果てながら、それでも生きる希望を捨てる事の出来ない病人のような……『男』は、力なく口許を吊り上げると……どうやら微笑んでいるつもりらしい……「すいません」と、最期の力を振り絞るような弱々しい声で呟いた。


「あの……もしかして、私の事を呼びましたか?」


「はい……」


「ええと、どのようなご用件ですか?」


「あなたには……叶えたい望みは……ありますか……」


「え?」


「あなたには……叶えたい望みは…………ありますか」


 尋ねると、男は掠れた声で同じ言葉を繰り返した。弱々しく、力なく、今にも息絶えてしまいそうな、酷く掠れ切った声で。明らかに不審な浮浪者、もしかしたら本当に病人だったかもしれないが、何故か、私はこの顔も見えない男の言葉を振り切る事は出来なかった。


「叶えたい望み……?」


「なんでも構いません……今、ふっとあなたの頭に思い浮かぶ……ありのままの望みです……」


 私はフードの男を見つめた。私の望み……ふっと頭に思い浮かぶ、ありのままの私の望み……


「みんなの……幸せ……かな?」


 私がそう呟くと、フードの男は力無く笑った。今度は口許だけではなく、本当に、弱々しくだが、笑っていた。


「あなたなら……大丈夫かもしれませんね……」


「え?」


「あなたが強く望みさえすれば……きっと……あなたの願いは叶うでしょう……」


 次の瞬間、男の姿はそこにはなかった。私は誰もいない荒れ道に一人で立っているだけだった。白昼夢でも見たのかと思ったが、病人のような、干からびかけた人間の声が、気配が、まだ生々しく私の前に残っている。私は急にゾッとした。いや、そもそも、あの男は何時の間に私の隣に立っていたんだ? まるで死ぬ寸前の病人みたいだったし、まさか、まさか幽……と思った所で、私は男がいたはずの場所に何かが落ちている事に気が付いた。


「……なんだ、これは」


 それは、試験管だった。と言っても、形から「試験管」だと判断しただけで、少なくとも試験管の中に入っているものが何なのかはさっぱりわからない。液体のようでもあるし、固体のようでもある。色は形容しがたい色をしていた。強いて言うなら黒に、紫と、オレンジと、青と、緑と、黄土色をマーブル模様に混ぜたような……どんなにお腹が空いていても、こんな色のものを口にする生き物なんてこの世に存在しないだろう。


 思わず拾ってしまったが、こんなもの、持っていてもいい事があるとは思えない。すぐさま元に戻そうと再び腰を屈めた私は、急に手に走った痛みに試験管を落としてしまった。


「いつッ!」


 ガシャン、という音がして、私は閉じた目を慌てて開いた。試験管は粉々に砕けていた。そして、その試験管の中身が、綺麗さっぱりなくなっていた。仮に試験管の中身が液体だったとしても、あんな禍々しい色のものが染み込んで地面が変色しないはずがない。私はハッして指を見た。試験管を持っていたはずの、痛みが走った人差し指に、試験管の中身と似た色の小さな穴が空いていた。


「ま、まさか、この試験管の中に何かいて、そいつに刺されたのか!?」


 いや、そんなはずはない。試験管は割ってしまうまで開いていなかったはずなのだから。しかし、何かに刺されたような指、中身の消えた試験管、何時の間にか隣に立ち、一瞬で消えた怪しい男……恐怖を駆り立てるには十分過ぎた。刺された傷口からあの『中身』が侵入した様を想像してしまい、右腕にゾワゾワと怖気が走る。


「と、とりあえず先生に……」


 私は割れた試験管をハンカチで包み、手を傷付けない程度に握り締めると、町に唯一ある診療所へと急くような思いで走っていった。子供達が熱を出す度にお世話になった先生だ。もっとも、行った所で先生を困らせてしまうだけかもしれないが、他の所に行くにしてもまずは診療所で見て貰わなくては。


 しかし、辿り着いた場所に、記憶通りのものなどなかった。ドアは壊れ、窓は割れ、破れたカーテンが風にバタバタと無情にはためいている。


「ああ、そう言えば先生の家は、強盗に襲われてみんな殺されたのだっけ……」


 どうして、見るまで忘れているのだろう。見ればすぐに思い出すのに、見るまで思い出せないのだろう。私は破れたくまのぬいぐるみがうつ伏せに転がっている敷地を見つめながら、そんな事を思っていた。


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