5-8
だから君を、ボクに殺させて欲しいんだ」
背中に、何かを刺されたような痛みを感じ、私は思わず悲鳴を上げた。渺は私をさらに強く抱き締め、それと共に背中に何かがさらに深く突き刺さる。
「あ……ああああっ!」
「ううううう、ごめん、ごめんね、分、痛いよね。でも、ボクはまともな人間になりたいんだ。まともな人間になりたいんだよ」
「どういう……事だ……」
「ボクはね、まともな人間っていうのは、『絶望出来る人間』の事だと思うんだ。まともに生きていく事も出来ないような、そんな絶望的な状況に陥った時、自分で自分の命を絶てる人間が『まともな人間』だと思うんだ。ねえ知ってる? この世に存在する生物の中で、自ら命を絶てる生き物は人間しかいないんだって。昔はレミングっていうネズミが、個体数が増え過ぎると種を全滅させないために自ら崖下に落ちるって考えられていたんだけれど、あれは移動中に崖から足を滑らせているだけなんだって……つまりさ、この世でこれ以上生きてはいけない、生きていく事は許されないって理解して、自分の命を絶てる生き物は人間しかいないんだ。ねえ、これってすごく素晴らしい事だと思わない? だって生存本能に抗える程高尚な生き物は、この世に人間一種類しか存在しないって事だもの」
私を覗き込む渺の瞳は、真っ黒だった。しかしそれは、同じ黒でも厘の瞳とは真逆と言っていい色だった。厘の瞳も光のない、底なしの闇のような黒い瞳をしていたけれど、あの瞳は生への渇望にギラついていた。しかし渺の瞳は、淀んでいた。私を見ているようで別の所を見ているような、凝り固まっているようで同時にドロドロに溶け腐っているような。
「だからボクは、まともな人間になりたいんだ。絶望の末に自分で自分を殺せるような、そんなまともな人間になりたいんだ。だから分、君をボクに殺させて欲しいんだ。大好きな友達の君をこの手で殺してしまったら、ボクはきっと今度こそ、ボクの罪深さにボク自身を殺せる程に絶望出来るはずなんだ。今まで父さんを殺しても、母さんを殺しても、先生を殺しても、クラスメイトを殺しても、訪れてはくれなかった自分を殺したくなる程の絶望感が、君を殺したらようやくボクにも訪れるような気がするんだ」
私は、その言葉が信じられなかった。私を抱き締めたまま語り掛ける、その濁った眼に、私は呟く。
「渺……君は……人を、殺したって言うのか……?」
「言ったでしょ? ボクは悪い男だよ、って」
私は、渺を振りほどこうともがいた。昨日自分が何を考えていたかなんて関係ない。私は人殺しの腕から逃れようとただ暴れた。
「分、落ち着いてよ。今どうやって君を殺そうかゆっくり考えたいんだから」
「止めろ! 離せ、離してくれっ!」
私は、渺の腕を振り払おうともがき、瞬間何もない所に放り出された。驚いて顔を上げると、渺が、空になった腕から濁り切った瞳を上げて私の事を見つめている。
「あれ……? 分、それって瞬間移動か何か? そうか、君の能力はそれなんだね?」
「能……力って……まさか」
「急にいなくなるからびっくりしたよ。でもちょうどいいや。ボクの能力はね……これなんだ」
渺はそう言って腕を妙な形に構え、そこに弓矢を出現させた。そしてそのまま弦を振り絞り、私に向けて矢を放つ。
「う……うわっ!」
「あはは、よく避けたね。それでこそ殺し甲斐があるよ」
「渺……君は、疚人だったのか……!?」
「あれ、『今頃気付いたの』? 臭いがするから同じ疚人のはずなのに、どうして襲い掛かってくる所か何も言ってこないんだろうって思ってたんだ。それどころかご飯を食べさせてくれるとまで言ってさ、何かの罠なのかと思っちゃったよ」
言いながら、渺は、青年の姿をした人殺しは、手にした弓を引き絞った。その矢の向こうに、私の手を掴んだ事もある腕の向こうに、愉悦に溶け腐ったような人殺しの瞳が見える。
「それなのに分ってば、全然そんな事考えてもいないみたいにボクに接してくるんだもの。実は、君が何を考えているのか、よくわからなかったんだよね。でもそうか、ボクが疚人だって気付いてさえいなかったのか。そういう場合もあるんだね」
渺は弓を引き絞り、再び私に向けて放った。矢は私の左隣の壁に突き刺さったが、外れた訳ではなく、わざと外した……何故だかそんな感じがした。
「どうして……どうして、人を殺したりなんてしたんだ……」
「『まともな人間になりたかったから』だよ。絶望的な状況に、まともに絶望してまともに自分の事を殺せる至極『まともな』人間に。だって、自分の手で親やクラスメイトや担任や大好きな人を殺したら、その罪深さに絶望して死にたくなれるかもしれないじゃないか。ボクはね、そのために人を殺したんだよ。絶望したくて殺したんだよ。父さんや母さんを殺したら、クラスメイトを殺したら、担任を殺したら、全く罪のない通りすがりの誰かを殺して殺して殺したら、自分を殺したくなるぐらい絶望出来るんじゃないかって思ってた。自分で自分の事を殺す事が出来る、まともな人間になれるんじゃないかとボクはそう思ってた。
でも、どんなに人を殺しても、自分で自分の事を殺したいと思う程絶望する事は出来なかった。だから分、君を殺させて欲しいんだ。こんなボクを優しいとまで言ってくれた優しい君をボクのこの手で殺させて欲しいんだ。君をこの手で殺せたら、その罪深さに絶望してボクはようやく自分で自分を殺す事の出来る『まともな人間』になれるんじゃないかと思うんだ。だから分、頼むからボクに殺されてくれ。ボクをまともな人間にするために頼むからボクに殺されてくれ!」
私は、二の句を告げる前に走り出した。昨日の同じ頃、生きる事を諦めようとしていた事など完全に頭から吹き飛んでいた。すがるように扉に駆け寄り、扉を開け、転がるように外へと飛び出す。肩に、何かが刺さったような痛みを感じ、私は左肩を右手で押さえた。
「あぐっ!」
「ごめんね、痛いよね。ごめん分。ボクはなんて悪い奴なんだろう。でも仕方ない。まともな人間になるためなんだ。殺されてくれ。殺されてくれ。そしてボクを絶望の底の底の底の底の底の底に叩き落として、どうかこんなボクの事をまともな人間にしてくれよ」
渺の声に、私は渺を振り返った。そして心の底からゾッとした。渺の目は腐ったように濁っている。まるでこの世の全てに絶望でもしているように。けれどその口元は、笑っていた。楽しくて仕方がないかのように両端を吊り上げて笑っていた。私の首筋を怖気が走った。意志や理性など関係ない、それは、本能的な恐怖。自分を殺そうとする生き物に対する生き物としての本能の恐怖。私は走り出した。しかし足に、背中に、矢尻が鋭く突き刺さり、私はその場に転げ落ちる。
「ぐうっ!」
「ああ、分、いいよ。すごくいい。すごく悲しい。何でこんな事しなくちゃいけないんだろう。でも仕方ない。まともな人間になるためだ。自分で自分を殺せるまともな人間になるためにボクは君を殺さなきゃ」
渺の声は、その目と口程におぞましかった。本当に悲しくて仕方がないような、それでいて狂いそうな程嬉しくて堪らないような。私は、痛みを訴える右足を引きずりながら、それでも懸命に走っていく。だが、沙塵さんと埃君の家の柵を抜けた所で、私は誰かに肩を掴まれ、向きを変えさせられたと同時に地面に叩きつけられた。
「ぐはっ!」
「捕まえた。でも、瞬間移動が出来るなら、こうやって捕まえてても逃げられたりしちゃうのかな。それは困るから、悪いけど、ちょっと足止めさせてもらうよ」
「が……あああああッ!」
左腕に何かを深く刺されたような痛みを感じた。渺は仰向けになった私の上に馬乗りになり、絶望と歓喜が入り混じったような歪んだ瞳で私を見下ろす。
「さて、どうやって殺してやろうか。君をどうやって殺したら、ボクはボクを殺したくなる程絶望する事が出来るだろうか。目を抉る? 鼻を削ぐ? 耳を切り落とす? 舌を抜く? 喉を潰す? 爪を剥ぐ? 疚人はすぐに死んじゃうから、慎重にやらないといけないよね」
「……」
「ああ、安心していいよ。すぐに殺したりはしないから。前にボクに襲い掛かってきた疚人の何人かで、一体どれぐらい痛めつけたら死ぬのか実験して確かめたんだ。何処にどれぐらいの深さで矢を刺したら死ぬのか、どれぐらいまでなら大丈夫なのか、ちゃんと覚えているから心配なんてしなくていいよ。分の事は、とびきり絶望的にボクが殺してあげるんだから。ボクが自分を殺したいと思う程にきちんと絶望出来るように」
渺は、手に矢を出現させると、それを右手に握り締めて私の事を見下ろした。そして、私の左手を取り、感触を確かめるように握り締めて、それから、矢の先を、私の親指の爪の隙間へと
「……体、そいつに何やってんのよッ!」
鋭く響いた少女の声に、渺は背後へと振り返った。わずかに見える景色の向こうから、黒いダッフルッコートに身を包んだ、巨大な烏のような人影が
「厘……」
「そいつから……離れろ、クソ野郎がァァァアッ!」
厘は、両手に新しい包丁を握り締めると、そのまままっすぐに渺の方へと向かってきた。しかし渺は、厘の出現にも眉一つ動かす事はなく、凍り付いたような表情で弓矢を厘の方へと構える。渺は何の感慨もないように、無表情で矢を放ち、それは吸い込まれるように厘の胸へと突き刺さった。体勢を崩し、それでも顔を上げた厘に、さらに渺の放った矢が何本も突き刺さっていく。
「厘っ! 渺、止めろ、止めてくれッ!」
「だって、邪魔なんだもん。ボクが君を殺そうとするのを、まともな人間になろうとするのを邪魔するんだもん。それを殺して何が悪いの」
渺は、人間とも思えないような目で私の事を睨み下ろすと、腕を押さえて立ち尽くす厘にさらに矢を引き絞った。厘の腕に、胸に、足に、至る所に矢は突き刺さり、それでも顔を上げた厘の左眼に矢が刺さり、ハリネズミのようになった厘はそのまま音を立てて地面に倒れた。
「…………ッ!」
「あー……あーあー、死んじゃった。でも、同情なんてしない。可哀想だなんてこれっぽっちも思わない。ボクがまともな人間になる邪魔をしようとしたあの子が悪い。だからボクは悪くない」
「……どうして」
私は、呟いた。涙が鼻に入り、鼻をこれ以上なく痛めていく。しかし涙が止まる事はない。尋ねる事も止められない。
「どうして……こんな事をするんだ……こんな事をしなくても、君は十分まともな人間だったじゃないか……私に食事を作ってくれたじゃないか。挙動不審な私の事を、信じてくれると言ったじゃないか……私を、優しいと言って、慰めてくれたじゃないか……こんな事をしなくても、君はまともな人間だったのに……どうして……」
「分……」
渺は、厘から私に視線を向けると、身体を屈めて私の顔を覗き込んだ。そして、これ以上ない程絶望に染まった瞳で、私に呟く。
「適当な事を言うなよ」
「…………」
「ボクがまともだって? 一体何を言うんだ、君は。確かにボクはまともな人間じゃない。けれど、ボクのような人間がまともな人間ではない事ぐらいは知っている。だってまともな人間が、この手で実の両親を、クラスメイトを、担任を、罪のない誰かを、人間を、殺して絶望しないなんて事が起こるはずがないじゃないか」
「…………」
「ボクはね、分、嬉しかったんだ。父さんや母さんを殺した時、クラスメイトを殺した時、担任の先生を殺した時、ボクをまともじゃないと言ってきた人間達をこの手で殺してしまった時、とても嬉しかったんだよ。そしてすごく絶望した。ボクは証明したかったんだ。ボクはまともな人間だって。人を殺したら絶望出来る、ボクはまともな人間だって。人を殺した罪深さに、自分で自分を殺す程に絶望出来るボクはまともな人間だって、そうやってボクはボクがまともである証拠を見つけたかったんだ。そうやって、ボクをまともじゃないと言った人間達が、間違いだったっていう事をボクは証明したかったんだ。
でも、ボクは絶望出来なかった。父さんと母さんを殺しても、クラスメイトを殺しても、何人殺しても、それが何の罪もない人でも、ボクは自分を殺したくなる程絶望なんて出来なかった。どうしてだ? どうしたらボクは絶望出来るんだ。どうしたら自分で自分を殺せるまともな人間になれるんだ。まともな人間ってなんなんだ。一体どうやったらなれるんだ。一体どうやったらボクはまともな『正しい』人間になれるんだ!」
渺の目は、ただ、真っ黒だった。そして何処か泣いているようにも見えた。涙など見えはしなかったが。渺は、右手に矢を握り締め、腕を振り上げながら、口元だけで歪に笑う。
「ボクはなりたいんだ。まともな人間に。正しさってヤツに。どうしてもなりたい。それが何かわからなくても。例え君を殺しても、ボクを殺しても、ボクは、『それ』に、どうしたってなりたいんだよ……ッ!」
渺は、悲鳴のように叫びながら、矢を握り締めた右腕を私に向かって振り下ろした。その背後で、ハリネズミのようになった巨大な烏が、手にした包丁の刃を鈍く光らせながら走り出す。
「……つを、離せって言ってんのよ、クソッタレがぁあああっ!!」
厘が、矢に突き刺された右腕を鋭く横に振ったと同時に、渺の首から、噴水のように、赤く血が噴き上がった。渺は振り上げた腕をダラリと降ろし、そのまま私の上に倒れ込む。すぐ横にある渺の肌が、唇が、白目の部分が、みるみる内に黒く黒く染まっていく。
「ぶ……分、君は、きっと、この先、生きている事に絶望して自分の事を殺したくなるよ……だって君は、こんなボクの事をまともだと言ってくれた、とても優しい人間だもの……いつかこの先、生きている事に耐えられなくなって死を選ぶ時が来る……」
「……」
「ボ、ボク達は、またきっとすぐに会えるから……その時に教えてよ……まともな人間のなり方……を……、どうしたらボクは……『正しさ』ってヤツに、なることができたのか……ヲ……」
そして、渺は動かなくなった。全身を黒に染め上げて。厘は、矢の突き刺さったままの左眼で渺の死体を見下ろすと、足で蹴り飛ばし、私の傍に膝を着いた。そして、私の首に、血で赤くぬめったままの包丁の先を突きつける。
「約束を……忘れていたわ……生きたくないならアンタの事を殺してあげるって約束を。使父は自殺出来ないんでしょ? 今すぐ死にたいって言うのなら、ボランティアで殺してあげるわ」
厘は、凍り付くような冷たい瞳で私の事を見下ろしていた。何の感情も感じられない瞳で。生きる事だけを望む瞳で。私は、皮膚すれすれにある刃の先にある少女の顔に視線を向ける。涙も心も見えはしない、何の光もない真っ黒な瞳を。
「一つ、聞かせてくれ……君は、後悔しないのか。人を殺して生きる事に、生きる事に、君は後悔したりはしないのか」
「後悔なんてしないわよ。だって後悔っていう言葉は、『後悔出来るという選択肢を持った』幸せ者の戯れ言じゃない。ああすれば良かった、こうすれば良かった、そんな事が言えるだけの選択肢を持った幸せ者の戯れ言じゃない。私には後悔するという選択肢さえ存在しない。殺して生きるか、殺されて死ぬか、私の前にある選択肢はその二つしか存在しない。生きる事を後悔するという事は、殺されて死ぬ選択肢を選ぶ事と同意義だわ。
だから、私は後悔しない。生きる事を後悔しない。生きるために行ってきた全ての事を後悔しない。生きるために行う全ての事を後悔しない。正しさを犠牲にし、死体を踏み付けて生きる事を後悔など決してしない。今までも、この先も、何が起ころうとも絶対に」
「…………」
「アンタはどうなの? 今生きている事を、後悔するの? だったら殺してあげるわよ。これ以上後悔なんてしなくていいよう殺してあげる。どうする? 三秒やるから早くして。アンタは一体どうするの? 生きるの? 死ぬの?」
私は。
私は、首を振った。私は首を横に振った。この選択を、後悔するとわかっていても、すでに後悔していても、私は首を横に振る事しか出来なかった。
「生きるよ」
「…………」
「後悔しながら、生きる。後悔と懺悔を重ねながら。だって、私は、きっと、私は」
私の言葉は、左の腕を襲った強烈な痛みに遮られた。見れば厘が、同じように矢の刺さった右腕で力任せに私の腕から矢を引き抜いていた。
「あっそ」
厘はそれだけ言うと、自分の左眼に刺さった矢を掴み、同じように酷く無造作に引き抜いた。そしていまだ潰れた目を自分の全身に向けながら、腕や胸や足に刺さった矢もただ乱暴に引き抜いていく。
「そうと決まったら早く行くわよ。私の期限はあと半年。こんな所で時間を潰している暇なんて私にはないんだから」
私は、痛みさえも失ったように淡々と矢を抜いていく少女から、すでに残骸と化してしまった渺の方へと視線を向けた。私を優しいと言い、そして殺そうとした青年。まともな人間になりたいと願いながら、まともな人間というものが何なのかもわからぬまま。私は起き上がり、渺の残骸に視線を落とす。視界の端から厘の声が響いてくる。
「何よ、またそいつを弔うとか言うつもり? たかが死体を一体ぐらい、それも自分を殺そうとした相手を弔うなんて……」
「いや……いいよ、行こう」
「あら? いつもみたいに駄々をこねないの?」
「……ああ」
私は、後悔すると思った。渺をこのままここに残していく事に、きっと後悔すると思った。私の、何処か奥の方に致命的な傷を残すのだろうと。
けれど……いや、だからこそ、私は渺をこのままここに置き去りにしていこうと思った。この青年を弔わず。私の後悔を弔わず。
「行こう」
私は、立ち上がって歩き出す。痛む身体を引きずりながら。疚んだ身体を引きずりながら。後悔を引きずりながら。生きていよう。絶望の底に絶望し、絶望の果てに絶望し、生きる事に絶望し、自分の命を自分で絶つ事を選択するその日まで。懺悔と後悔を重ねながら。ただ生きていく事に、懺悔と後悔を重ねながら。だって、私は、きっと、私は。
きっと、私は。




