5-7
朝日が、わずかに開いたカーテンの隙間から私の顔を照らしてきた。私は眩しさに目を細め、朝日から逃れようとくたびれた毛布に顔を埋める。自慢じゃないが朝は苦手だ。頭が上手く働かないんだ。そしてそれ以上に、光に照らされる事が痛くて辛くて堪らない。私は光から逃れるために、毛布を頭の上から被り再び眠りに落ちようとした。
しかし、鼻を何かいい匂いがくすぐり、私の意識は眠りから現実へと戻ってしまった。その事に、何処か暗い所に叩き落とされたようなどうしようもない重さを感じていると、青年が、明るく朗らかな表情で部屋の中を覗き込んだ。
「あ、分おはよう。朝ご飯出来たんだけど食べられるかな?」
朝ご飯……青年のその一言に、私の意識は本格的に覚醒した。なんて事だろう。渺一人にだけ働かせて、私は一人でのん気に眠っていただなんて。
「す、すまない! 一人でご飯の準備をさせて……」
「いいっていいって。昨日は色々大変だったもんね。頑張ったんだから疲れが出るのは当然だよ」
「き、君だってそんなに変わらないだろう……」
「ボクの場合は年なのかもしれないよ? ほら、筋肉痛って年を取ると二日後に出るって言うじゃない」
それは……何か、違うような気がするが……だが、改めて年の話をするのは何か色々と忍びがなかった。渺がいくつなのかはわからないが、三十代という事はないだろう。むしろ見た目だけなら私より確実に年下に見える。だが、渺の目からは私がいくつに見えるのかわからないし、何故か実年齢を言うのは激しく気が進まなかった。多分私があまりにも人間として頼りなさ過ぎるせいだろうが。
「ま、とりあえず、食べられるようなら冷める前に食べて欲しいな。もちろん無理にとは言わないけれど」
「あ、……食べるよ。頂くよ。せっかく作ってもらったんだから」
私はこの家から借りた毛布を退けて台所へと歩いていった。昨晩は奥の部屋を使わせてもらい、寝具も借りて、渺と二人で隣り合って寝ていたのだが、死んだ人間の家と寝具を借り、食材と水まで使って、今、生きている。それも、沙塵さんが、人を殺してまでも守りたかったものを使ってだ。その事を考えると、ただここにいるだけで罪深さを感じてしまうが、渺は私の感傷とは裏腹にいち早く席に座ると急かすように私を見つめてきた。
「今日はじゃがいもをふかしたものと、大根とキャベツの味噌汁にしてみたんだ。口に合うかはわからないけど」
「そんな事ないよ。……いただきます」
私は少し迷ったが、結局味噌汁に口を付けた。沙塵さんの事を思うといたたまれないが、今食べないという選択肢を選ぶ事は渺を傷付ける事に繋がる。味噌汁は染み渡るように温かく、野菜は甘く柔らかかった。平穏で平和な日常で食べられたなら、どんなに幸せだった事だろう。けれど今私が口にしているものは、他人の死の上に成り立っている。
「分、どうしたの? やっぱり口に合わなかった?」
「……! いや、そんな……事はないよ……おいしいよ……渺はすごいな、私はちっとも料理なんて出来ないから」
「すごくなんてないよ。ボクはただ料理が好きなだけなんだ。だって人に自分の料理を食べてもらえるとさ、この人の身体の細胞はボクが作ってあげてるんだって思えるじゃない?」
「……え?」
「なんてね、ふふふふ。前に読んだ本でこういう文章があってね、面白い事を言うもんだなって思って、一回使ってみたかったんだ。世の中には面白い事を考える人がいるものだよね」
「あ……うん、そうだね……」
渺はにこにこと私を見ている。私はそれ以上何も言う事は出来なかった。何と言えばいいのかわからなかったし、何も言わない方がいいような気がした。
「そ、そう言えば渺は、一体何処から来たんだ? どうしてこの村に?」
「そう言う分こそ、どうしてここにいるんだい? この家が君の家じゃないとすると、君も別の場所から来たんだろう?」
「あ……その、私は……」
「出来たら教えて欲しいなあ、分の事。今まで何処で生きてきたのか、今までどんな生き方をしてきたのか……だって、友達の事だもん。あ、ボクが友達なんて迷惑だったかな?」
渺はそう言って、伺うように私の事を覗き込んだ。何故かすぐに返事をする事に躊躇いを覚えてしまったが、「友達」という言葉に異を唱える理由は何処にもない。ないはずだ。
「いや……友達だよ。私もそう思ってくれたら嬉しいな」
「本当!? ありがとう! やっぱり分は優しいな。じゃあさ、ボクに教えてよ。ボクの友達が今まで何処でどういう風に生きてきたのか」
「そんな……大した人間じゃないよ、私は……ここから少し離れた町で、使父をやっていて……」
「使父? そうか、優しい分にはぴったりだね」
「そんな事……頼りない使父だったし……家族や町の人に助けられてばかりだったよ。料理も家事も出来なくて、情けなくて不器用で……」
「家族? 結婚でもしていたの?」
「いや、孤児の子供達と一緒に……みんな、死んでしまったけれど……」
私は、言いながら鼻が痛むのを感じていた。その事を思い出す所か、口にする事さえ辛かった。渺が椅子から立ち上がる音がし、私の肩にそっと誰かの手が置かれた。
「ご、ごめん、辛い事を聞いてしまったね」
「いや……いいんだ……」
「本当にごめん。ボクは昔から全然気がつかなくて……よく父さんや母さんに怒られていたよ。お前はまともな人間じゃない、もっとまともな人間になれって」
「そんな事……渺はすごく優しいじゃないか。ありがとう。大丈夫だよ」
私は顔を上げて渺を見、そして……何故か戦慄を覚えた。渺の浮かべていた笑みが、何故か酷く歪なように感じられた。しかし、それも一瞬の事で、渺はすぐに嬉しそうに笑みを深める。
「本当に? ボクは本当に優しいかな?」
「え……ああ……」
「どの辺りが? どの辺りが!?」
「わ、私の事を気遣ってくれるし、食事も作ってくれたし、私の事、人殺しじゃないって信じてくれて……」
「そんな! そんな事ないよ! うわあ、でも嬉しいなあ。ボクは本当に優しい人間になれたかなあ? まともな人間になれるのかなあ!?」
渺は何処か浮かれたように、まるで遊園地を訪れた子供がそうするように嬉しそうにはしゃいだが、その様が何故か、私の頭に警鐘を鳴らした。渺はふふふふと嬉し気に笑って、私の肩に手を置いたまま私の顔を覗き込む。
「ねえ分、ボクさ、君に聞きたい事があるんだけど、いいかな?」
「な……何かな」
「『まともな人間』ってさ、一体どういう人間だと思う?」
「え?」
「まともな人間って、一体どういう人間だと思う?」
渺は繰り返すと、妙にぎらぎらとした目で私の事を見つめていた。心なしか、肩を掴む手の力が強くなっているような気がする。頭に警鐘が鳴り響く。なのに目を逸らす事も、逃げる事も叶わない。
「ボクはね、小さい頃からずっと、『まともな人間』に一体どうやったらなれるのかずうっと考えて生きてきたんだ。父さんも、母さんも、クラスメイトも担任の先生も、みんなみんなみんなみんなボクをまともな人間じゃないって口を揃えて言ってくるんだ。悲しかったよ。ボクは心の底からまともな人間になりたかった。でも、どうしても、まともな人間のなり方ってヤツが、ボクにはよくわからなかったんだ。ねえ分、君はさ、まともな人間っていうのは一体どうやったらなれると思う。そうだな、例えば、人を殺さなくちゃ生きていけないような状況下では、一体どうするのが『まともな人間』だと思う?」
口の中が渇いていた。とても小さな虫が全身の神経を這い回っているような、とてつもなく嫌な感覚が私の身体を襲っていた。けれど、逃げられない。目を逸らせない。私は震える唇を無理矢理動かす。
「は……話し合って……そんな事にならずに済む方法を探す……」
「話し合いなんて叶わないような悲惨な状況だったらどうするの? うーんと、そうだな、例えば無人島でみんな餓死寸前で、たった一つの食べ物を奪い合う事になったとしたら、他の人間を殺して生き延びる事と他の人間を生かすために死ぬ事と、一体どちらを選ぶのが『まともな人間』だと思う? 悪辣に生きる事と、正しく死ぬ事と、一体どちらを選ぶのが『まともな人間』だと思う?」
私は……止めて欲しいと思った。何故、どうして、私にそんな事を聞くのだ。けれど、渺から逃れられない。この瞳から逃れられない。私は歯を食いしばり、嗚咽のように言葉を漏らす。
「人を……生かす事だ」
「…………」
「どんな……状況だって……人を殺すのは『悪』だ。決して許されざる事で、してはいけない事なんだ……た、例え自分が生きるためだって、た、他人を殺して、その上で生きていこうとするなんて……」
「ふ」
「…………?」
「ふふふ、ふふふふふ、あははははははっ!」
渺が、私の身体を抱き締めた。両腕で、強く、しがみつくように。渺の匂いが漂ってくる。嗅いだ事のないような匂いが。それはとても魅力的で、そして何処か恐ろしい。
「ああ、分! 君はボクが思った通りの人間だ! そうだよね、それが『まともな人間』だよね、『悪辣に生きるぐらいなら正しさに死んだ方がいい』っ! 分、君ならそう言ってくれるんじゃないかと思ったよ。やっぱりボクは君の事が、とても好きになってしまったよ。




