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疚市(旧)  作者: 雪虫
33/36

5-5

「それじゃあ気を取り直して、何か作るとしようかな。分は何が食べたいの?」


「何がって……言われても……」


 選択肢が……ない。私は黙らざるを得なかった。この台所に一体何があるのか正確な所はわからないが、畑で取れた野菜と、塩しかない。そう沙塵さんは言っていた気がする。そんな状態で作れるものと言ったら、野菜の塩スープか野菜の塩炒めかどちらかしかないだろう。


「沙塵さんは……この家には野菜と塩以外はないって……」


「実はボク、調味料は結構持っているんだ。ほら、ケチャップとマヨネーズ」


 渺はそう言うと台所の隅に置いていたリュックから、ケチャップとマヨネーズのお馴染みの容器を取り出した。そして白い方の容器の蓋を開け、鍋の中に絞り入れる。


「マヨネーズは油が入っているからサラダ油代わりに使えるんだよね。これでじゃがいもとキャベツを炒めようかと思うんだけど、いいかな?」


「お……お任せするよ……」


「うん、じゃあお任せされるよ」


 渺はにこやかにそう返すと、電源の入っていない冷蔵庫からじゃがいもとキャベツを取り出し、包丁を手に取ってじゃがいもの皮を剥き始めた。結構……いやかなり、手際がいい。料理など全く出来ない私などとは大違いだ。


「えっと……私は何をすればいいのかな……」


「うーんと、何が出来るのかな?」


「…………」


「いや、無理しなくて大丈夫だよ。分は座っていれば?」


「…………廊下の掃除をしてくる…………」


「うん、わかった、それじゃあよろしく」


 渺はにこやかな笑みを浮かべると、すぐに料理に戻っていった。……とても……情けない。お腹の空いた人間を見捨てておけないなどと言いながら、結局何も出来てはいない。いや、そもそも食材だって、私のものではなく、沙塵さんが必死の想いで育てたもので……私なんて結局、言葉だけで、口先だけで、何も出来はしないのだ。今更思い知るような事ではないが、今更のように思い知る。結局私は口先だけで、何も出来ない奴なのだと。


 それでもせめて掃除だけはと、箒を探そうと思ったが、廊下にはなく、居間にもなく、玄関にも箒はなかった。外にあるかと思い扉を開けて外に出たが、やはり見える所にはない。家の裏に探しに行き、見当たらないので戻り、畑の傍に小屋がある事に気付いた所で、家の中から渺の声が聞こえてきた。


「分~、ご飯出来たよ……どうしたの、そんな顔して」


「ご……ごめん……箒が見つからなくて……」


「そんなの、別に気にしなくていいって。後で二人でやろうよ。とりあえずご飯にしよう」


 渺は笑顔でそう言うと、家の中へと入っていった。待たせる訳にもいかないので渺の後を追い掛ける。テーブルの上には、暖かそうな湯気を立てている料理が二皿分用意されていた。


「さ、食べよう。分の口に合ってくれるかはわからないけど」


 渺は一足先にテーブルに座ると、私の事を促すように私の顔を見つめてきた。私は……渺の向かいの椅子に座り、「頂きます」と手を合わせ、箸で炒め物を口に入れた。じゃがいもとキャベツの自然な甘さに、程よい塩気と柔らかな何かの風味が調和して、とてもおいしかった。


「おいしい」


「それは良かった」


「こんなまともな物、久しぶりに食べたよ、久しぶりに……」


 呟いた瞬間、私の目から、ぼろぼろと涙が零れてきた。渺はぎょっと目を見開いて立ち上がって体を乗り出す。


「ど、どうしたの? 何処か痛いの?」


「ち……違うよ……た、ただ、ちょっと悲しくて……」


「悲しい?」


「沙塵さんが……この家に住んでいた人が、お、お世辞にも料理が上手いとは言えなくて……本人も、息子さんにおいしい物を食べさせてあげられないって、か……悲しそうな顔をしてたんだ……」


 私は顔を上げる事が出来なかった。鼻が痛い。鼻が酷くずるずるする。だが涙が止まらない。


「わ、私が君みたいに何か調味料を持っていたら……いや、料理が少しでも出来ていたら、埃君においしい物を食べさせてあげたいっていう沙塵さんの願いを、叶えてあげられたんじゃないかと思うんだ……そ、そうすれば、あそこまで寂しそうな顔はしていなかったんじゃないかと思うと……悲しくて……」


 言いながら、なんて身勝手な奴だろうと思った。こんなの、ただの同情だ。その人の苦労も苦悩も苦痛もちっともわかりはしないくせに、勝手に想像して、勝手に悲しくなって、勝手に泣いているだけだ。沙塵さんの苦労は、苦悩は、苦痛は、私なんかにはとても量り知れるものではないのに、その決してわかりはしないものを、まるでわかっているように振る舞って、泣くだけで、悲しむだけで、何もしない。何も出来ない。救えない。私はただの無力な卑怯者でしかない。


「分はさ、優しいんだね」


 そんな私に、渺はそう呟いた。


「そんな、言ってしまえば赤の他人の事に涙を流せるなんて、分は優しい人なんだね」


「そんな事は……ないよ。だって私は、他人の気持ちなんてわからない。他人が何をどう考えているかなんて、そんな事はわからない。どれだけ悲しんで、どれだけ苦しんで、どれだけ痛がってきたのかちっともわかりはしないくせに、勝手に同情して勝手に泣いて……そんな奴が、優しい訳はないだろう」


「本当に優しくない奴は、他人の気持ちをわかろうとはしないよ。他人が悲しんでいるとか、苦しんでいるとか、痛がっているとか、そんな事ちっとも考えない。ましてや涙なんて流しはしない。そんな奴等が大勢いる中で、他人のために涙を流せる分は、やっぱり優しい奴だと思う」


 いつの間にか、渺は私の隣に座っていた。


「たまに、『君の気持ちはわかる』、なんて台詞を現実でもフィクションでも見たり聞いたりするけれど、一体どんな根拠があってそんな台詞を吐けるのかって思うんだ。だって『君の悲しみや苦しみや痛みはこれこれこういうものですね』って、確かめた訳じゃないだろう。確かめられる訳もないだろう。確かめる事の出来ない答えをわかったなんて言い切るなんて、そんなのは、答え合わせをする前の答案を満点だと言い切っているのと同じじゃないか。だから、ボクは他人の気持ちがわかるなんて簡単に言う奴は信用しない。絶対にわかるはずもない、わかっているという確証も持てない、そんなものを『わかってる』なんて簡単に言い切る嘘吐き共の言葉なんて」


「…………」


「でも、分はさ、他人の気持ちを完全にわかる事は出来ないって知っていて、その上で他人の気持ちを考えて、しかも涙を流して、悲しめる。ボクはさ、他人の気持ちなんてちっとも考えない他人より、他人の気持ちがわかるなんて簡単に言い切る嘘吐きより、分みたいな人間の方が、優しいって思うんだ」


「…………」


 渺の言葉に、しかし私は首を振った。私を慰めてくれようとする渺の気持ちは嬉しい。嬉しいけれど


「けれど私は……何も出来ない……悲しんだり苦しんだりしている人を見ても、何もしてやる事が出来ない……本当に優しい人間なら、悲しんだり苦しんだりしている人に、何かしてやる事が出来るはずだろう。救ってやる事が出来るはずだろう。でも、私には何も出来ないんだ。何も……」


「分は、その人を想って、泣いてやる事が出来るじゃないか。ボクは人が、自分のために泣いてくれるって言うのはさ、ただそれだけで救われるんじゃないかと思うんだ。だって、一人で悲しんだり苦しんだりするって事は、孤独なんだ。誰とも分かち合えない孤独を、ずっと独りで抱え続けるって事なんだ。でも、自分の事を想って、泣いて、悲しんでくれる人がいるって事は、そのどうしようもない孤独だけは癒されるって事でもある。例え悲しみや苦しみそれ自体が癒える事はなかったとしても、誰とも分かち合えない孤独を抱え続ける悲しみや苦しみは、癒されるんじゃないのかな。分みたいに、ただ自分を想って、泣いてくれる人がいるだけでも」


 私は……顔を上げて渺を見た。渺は笑っているような気がしたが、目がどうにも痛くて正直よく見えなかった。


「君は……変わった事を言うな」


「そうかな? ボクには分の方がよっぽど変わってると思うけど」


「そ、そりゃあ私は料理も出来ないし、要領も悪いし、抜けてるけど……」


「いやいや、そういう事じゃなくてね……分だったら、ボクの悲しみや苦しみもわかってくれるのかな。ボクが死んだ時も、涙を流してくれるのかな」


 渺の呟きは……私にはよく聞こえなかった。その声はあまりに小さく、早口で、不明瞭だった。私が問い直そうとすると、その前に渺は私の隣から立ち上がった。


「冷めない内に早く食べようか。掃除もしたいし、水もそんなにないから用意しないと」


「あ……ああ……そうだね」


 私は、渺に促されるままに目の前の料理を食べ始めた。噛み締めるようにして食べ、十数分後にはそれも終わり、私達は暗くなる前にと水を用意する事にした。火を当てても大丈夫そうな容器を円状に並べた岩に置き、その下に枯れ草を敷き詰め、火をつける。容器の上に板を斜めに張って、そこに溜まった水滴を別の容器に集めていく。


「ペットボトルを使って雨水から飲み水を作る方法を前に見た気がするんだけど、はっきり覚えていないんだよなあ……人生何があるかわからないから、ちゃんと見ておけば良かったよ」


「そうだね。後悔先に立たずとか、後の祭りとか言うけれど、あの時もっとこうしておけばと思っても、取り返しのつかない事はたくさんあるんだ……今更になって痛感するよ」


「でもまあ、ボクはキャンプみたいで楽しいかな。分がいなければそんな事、ちっとも思わなかったと思うけど」


 渺は、そう言って笑った。何の気負いもないように。血痕がこびりついた家の前で、死体が埋まっている土の横で、人が人を殺してまで守ろうとした野菜を食べた後に、するような話ではなかった気がするが、私は口に出すのは止めた。口に出してこの空気を壊してしまうのが嫌だった。


「あ、そうだ、どうせならお風呂の用意もしようか。分がお風呂嫌いならボクはどっちでもいいけれど」


「あ……えっと……じゃあ、せっかくだから」


「じゃあ、一緒に燃料を取りに行こうか。ちょうど荷車もあるみたいだし」

 

 渺は畑の傍にあった荷車を確保すると、私の傍まで歩いてきた。後で荷車を借りてもう一度来るよ。その時また一緒に来よう。今は土の中にいる少年と手を繋ぎながら交わした言葉が、私の頭を掠めていく。


「分? どうしたの? 顔色が悪いよ?」


「あ、ああ、大丈夫……」


「そう? 気分が悪いなら無理しなくていいんだよ?」


「いや、大丈夫だよ、行こう……」


 私は、一瞬背後に視線を向けて、空の荷車を押していく渺と共に歩いていった。思わず力の入った手に、収まりきらない程の後悔を握り締めながら。

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