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疚市(旧)  作者: 雪虫
32/36

5-4

 青年は、渺は、妙ににこにこと「それじゃあお邪魔させてもらいます」と私にぺこりと頭を下げた。その人当たりのよい明るさが、今の私には惨かったが、彼に罪がある訳ではない。罪があるのは、……、…………。私は立ち上がり、泥のような体を引き摺って家へと向かい扉を開け、そこでとんでもない事に気が付いた。私と厘が土足で上がり込んだから廊下も部屋も泥だらけになっている。これは……人が住んでいる家の惨状ではないだろう。


「どうしたの?」


 背後から中を覗き込まれ、私は体を反転させた。どうしよう。何とかしなければ渺に不審に思われてしまう。


「す……すまない。家がすごく汚いんだ」


「別にボクは気にしないけど」


「ふ、普通の汚さじゃなくて、尋常じゃなく汚いんだ。実は、その、……うっかり靴を脱がずに廊下を歩いてしまって……」


「靴を脱がずに? 分ってうっかり者なんだね」


「あ、あはは……だから、ちょっと掃除したいから待っていて欲しいんだけど……」


「ボクは別に構わないよ。悪いけど先に何か食べさせてもらってさ、その後二人で掃除しない? ご馳走させてもらうお礼にさ」


 渺はそう言ってにこりと笑った。なんて気のいい青年なんだろう。騙しておいて申し訳ないが、何とか誤魔化せそうな事に胸の内で安堵する。


「あ、ありがとう。じゃあとりあえず台所に……」


 そこで、私は廊下など非ではない、さらにとんでもない事に気が付いた。廊下から台所に向かう途中の部屋には、沙塵さんが埃君に殺された部屋には、血痕がすでに絨毯に染み込んでべったりと残されていた。これは、絶対に見せられない。私は襖をすぱんと閉めた。


「どうしたの?」


「あ……いや、部屋もすごく汚いから……」


「そんなの、別に気にしないのに」


「いや……本当に、酷い有り様なんだよ……今からご飯を食べる人にはとても見せられないぐらい……」


 我ながら苦しい言い訳だったが、これ以上の言い訳など生憎思い付きはしない。渺はしばらくの間不思議そうに私の事を見つめていたが、「うーん、そうか」と呟いて襖の前を通り過ぎた。


「じゃあそこも、ご飯を食べ終わったら掃除しようか」


「え……いやいいよ、迷惑だし……」


「迷惑なんて、ご飯を食べさせてもらうだけ食べさせてもらって、何も恩返ししないなんて人として最低な事だろう? それぐらいの事しか出来ないけれど、それぐらいの事はやらせてよ」


 胸が痛い。その明るい、人当たりのいい、まともな発言が酷く鈍く胸に痛い。私はどう返したものかもわからずに、「ありがとう」とだけ呟いた。渺の気遣いは嬉しいが、襖の奥に入れる訳にはいかない。料理を作る間に何とか誤魔化す手段を考えなければ。


「ねえ分、水はどうすればいいのかな」


 渺の声に、私ははっと顔を上げた。水。水道は駄目になったと沙塵さんは言っていた。だから雨水を貯めて沸騰させて使っていると。


「あ、ああ、ごめん。水は雨水を貯めたのが外に……」


「あ、これを使えばいいのかな。このペットボトルに入ってるのって水だよね?」


 渺は床の上にあった何かを持ち上げて私に見せた。薄汚れたペットボトルには、確かに水らしき透明の液体が半分ぐらい入っていた。


「あ……ああ、ごめん。前に貯めておいた分を忘れてたよ」


「野菜は畑かな?」


「あ、うん……」


「あ、冷蔵庫に洗ったヤツが入ってる。鍋は何処?」


「ええと、下の方に……」


「この洗い籠のヤツ使っていいのかな? 火はある?」


「枯れ草を……」


「このガスコンロ、まだ使えそうだね。……うん、まだ火が着くよ」


「…………」


 ……不味い。やばい。やっぱり嘘なんて吐くんじゃなかった。台所の何処に何があるかもわからないなんて、怪しいにも程があるじゃないか。渺は、少し首を傾げて私の事を見ていたが、その瞳が疑うように少し細くなった気がした。


「分……ボクに何か隠し事でもしているの?」


「隠し事なんて……してないよ……何も」


「だったらどうして目を逸らすの? ボクの目を見て話せないような何かがあるからじゃないの?」


「か……隠し事なんて……私は……私は……」


 突然、渺が鍋を置き、台所の入り口に向かって早足で歩き出した。その視線が襖に注がれている事に気付き、私は慌てて渺を止める。


「渺、違うんだ」


「何が違うの? 隠し事が何もないなら、襖を開けるぐらいいいじゃないか」


 私の制止を振り切り、渺の腕は襖を勢いよく開けた。渺の瞳に血塗れのテーブルと絨毯が映る。全身から血の気が引く音がした。


「…………」


「渺……違うんだ。これは……これはその……」


 一体何が違うって言うんだ。私の頭の中でそんな声が響いてきた。明らかに挙動不審で、何処に何があるかもわからなくて、極め付けに部屋は血で赤黒く染まっている。これ程決定的な事があるだろうか。けれど違うんだ。私はこの家の住人を、沙塵さんと埃君を殺した訳では、決してない。信じてもらえるはずもないのに、私は口を開かずにはいられなかった。


「渺、違うんだ、これは……」


「一体何が違うって言うの?」


「わ、私は……人殺しなんて……」


 言いながら、これ程無意味で、説得力のない言葉があるだろうかと思った。渺が私を振り返った。先程までの人当たりのいい朗らかな表情ではなく、咎人を見るような目付きで私の事を見つめている。渺は怖い表情で私をしばらく見つめた後、


「ふ」


 突然、笑い出した。


「ふふ……ふ、あはははははは!」


「…………」


「ご、ごめんごめん。突然笑い出したりして……でも分、そんな、すがるような目でボクの事を見ないでくれよ。そんなに心配しなくても、ボクは君を人殺しだなんて疑ったりはしないって」


「な……なんで……」


「だって人殺しが、人を殺したばかりの家に、ただの通りすがりの他人を上がらせる訳がないじゃない」


 渺は、何の気負いもなく、血と泥で汚れた部屋の中へと入っていった。そのあまりの自然な不自然さに、私の方がたじろいでしまう。


「まあボクの事も殺すために誘い込んだ……って可能性もなくはないけど、それにしちゃあ廊下が汚れていたり、慌てて部屋を隠したりって、あまりにもお粗末過ぎるしね。それに、分って嘘が下手そうだから、人を殺しておいて黙ってるなんて出来なさそうな感じだしね。万一人なんて殺したら、一日中呆然としていそうな気がするよ。……あ、この人達がこの家の本当の住人かな? さっき埋めてた人達だよね?」


「ど……どうして、埋めたって……」


「君が寝てた場所のすぐ後ろ、そこだけ色が違ってたから。サイズ的にも大人一人に子供一人って感じだったし……この人達だよね?」


 渺はそう言うと、棚の上に置いてあった写真を手にして私へと見せた。そこには笑みを、悲しげで寂しげな笑みではない、心の底から幸せそうな微笑みを浮かべた沙塵さんと、沙塵さんに抱きかかえられている埃君の姿が写っていた。なんて粗末な嘘を吐いた事だろう。私は目を伏せるしかない。


「でも……でも、それだけじゃ、私が沙塵さんや埃君を殺していないという証拠にはならないだろう。沙塵さんや埃君を殺して、埋めて、お間抜けにも君をこの家に上がらせたっていう可能性だってあるはずだ」


「うーん、妙に疑うなあ。ボクは君を人殺しだなんてこれっぽっちも疑ってなんかいないのに、君はボクが君を人殺しだと疑っているんじゃないかと疑っている……なんて、何だかややこしいね」


「はぐらかさないでくれ」


「あはは。でも、本当に君を人殺しだなんてこれっぽっちも思ってないよ。だって君、人殺しの匂いがしないもの」


「え?」


 急に、腕を掴まれ、私はバランスを崩してそのまま何かに倒れ込んだ。状況を把握出来ずにいると、首筋に何かひんやりしたものがぺたりと当たる。


「ひっ!」


「ああ、やっぱり、いい匂いがするよ」


 視線を声のする方に向けようとすると、人間の首筋が目に入った。さらに視線を移動させると、今度は人間の耳が見え……


「渺! 一体何をしているんだっ!」


「何って、分の首筋の匂いを嗅いでいるんだけど」


「に……」


 一体どういう状況で? 私は何と返すべきなのかわからなかった。そうこうしている間にもひんやりした何かは私の首筋をまさぐっていく。


「や……止めてくれ、臭うだろう……」


「確かに匂うけど、嫌な匂いじゃないよ。日光に当てた布団の匂いを、さらに強くしたような匂いがする。さっき外で昼寝してたからかな?」


「昼寝?」


「布団の干した匂いってさ、人間の汗とか皮脂とかが紫外線に分解されて出来る匂いなんだって。だから布団の匂いをいい匂いだと感じるっていう事は、人間の分泌物の分解物をいい匂いだと感じている事になるんだけど……」


「…………」


「あと人間ってさ、自分と遺伝子的に遠い人間の匂いをいい匂いだって認識するんだって。そうする事で多様な遺伝子を見つけて取り込んで、より強い遺伝子を作るためだって聞いた事があるんだけれど……だからきっと、分はボクとは全く違う人間なんだろうね。だからボクと違って信用出来るよ」


「よく……わからないけれど、悪いけど離れてくれないか……その……」


 さすがに、正面から抱き締められて首の臭いを嗅がれているのは。私が言いあぐねていると、渺ははっとした顔をしてようやく体を離してくれた。


「ご、ごめん! ごめんね本当、気持ち悪かったよね!?」


「あ……いや、えっと……その……」


「え、ええとっね、とりあえずボクが言いたいのは、分が人殺しだなんてボクはちっとも疑っていないって事なんだ。それだけわかって欲しかっただけなんだけど……き、気持ち悪かったかな?」


 そう言って、渺は伺うように私を見た。その、正直……ほんの少しだけ……けれど、渺が何とか私を安心させようとしている事は確かだと思ったから、私は首を横に振った。


「いや……ありがとう。私の事を信じてくれて」


「分の事を疑ったりなんてしないって。通りすがりのボクに食事を振る舞うなんて言ってくれるぐらいいい人間だし、それにすごくいい匂いだし」


「だから、いい匂いっていうのは……あまり根拠になっていないんじゃないか?」


「いや、ボクにとってはこれ以上の根拠はないよ。だってボクがいい匂いだと感じるっていう事は、ボクから遠い、正反対にいる人間っていう事になるからね」


「そんな言い方……まるで君が悪い人間みたいな言い方じゃないか」


「そうだよ、結構悪い男なんだよ、ボク」


「はは……」


 私は思わず笑ってしまった。渺もにこにこと立っている。その姿は人なつっこい、人当たりのいい、冗談好きの青年にしか私の目には映らない。


「それにボクは、ちょっと嬉しかったんだ。分がボクの事、名前で呼んでくれてさ。これはちょっとは分がボクに心を開いてくれた……と自惚れてもいいのかな?」


「心を開いてくれたなんて、まるで私が君を警戒しているみたいじゃないか」


「え? 警戒してないの? もしかしたらボクこそ人殺しかもしれないのに」


「君が人殺しだったとしたら、私はこの世の誰の事も信用出来なくなってしまうよ」


 私がそう返事をすると、渺は嬉しそうな顔をして、勢いよく私に抱きついてきた。思いがけない攻撃を受けた私は、渺を受け止めきれずにそのまま後ろに倒れ込む。


「う……」


「嬉しいなあ、困ったなあ、君の事がとっても好きになりそうだよ」


「お、大袈裟だな……とりあえず、退いてくれないか? その……私もお腹が空いたし……」


「あ、そうだね、ごめんごめん」


 渺は私から体を離して起き上がり、それから私に右手を伸ばした。薄汚れた天井から渺の顔へと視界が変わり、そして渺が笑顔を浮かべる。


「それじゃあ、ご飯の準備をしようか」


「あ、ああ、そうだね」


 渺は私の手を握り締めたまま、台所へと歩いて行こうとする。私は手を握られたまま、渺の行動に従った。今のこのやり取りが、血塗れの部屋で行われた、その異常性に、しかし気付かないフリをしたまま。

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