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疚市(旧)  作者: 雪虫
31/36

5-3

 沙塵さんを穴に埋め終わった私は、ただその場に座り込んで呆然としていた。腕も、足も、頭も、何もかもが重かった。ただこうして生きているという事さえ、酷く煩わしく無意味で無価値で重ったるく感じられた。


 私は、一体これからどうしていけばいいのだろう。厘と別れた今、私に疚売りを探すための手掛かりは完全に失われた。いや、失われた訳ではない。私は自分からその手掛かりを失う事を選んだのだ。もう、人が死ぬのは嫌だ。人が死ぬのを見るのは嫌だ。例えそれが生き延びるためであったとしても、他人の死が常につきまとうような生き様なんて耐えられない。人間を含めた生き物は皆、いつか死を迎えるものだとそんな事はわかっていても、その先に続いていったであろう生を、命を、幸せを、全てを、一瞬にして奪っていく。死はただ無惨なだけだ。そこには正しさも美しさも存在しない。どんな悪人であろうとも、人殺しであろうとも、その全てを奪い取っていく死は、その後に残される残骸は、皆一様に無惨で悲惨でやるせなく、何の救いも存在しない。私はそんなものをこれ以上見たくはなかったし、それらを振り切りながら生きる事が耐えられない。いくらそれしかないと言われても、私にはもう、これ以上、歩いていく事さえとても耐えられる気がしなかった。


 けれど、それは同時に、私に残されたものは緩慢な死であるという事実を突き付けるものでもあった。正確にそれが訪れる日はわからないが、厘の言葉が正しければ、私は一年後には死ぬ。今まで出遭った疚人と同じように、全身が黒に染まって、渇いて、そして跡形もなく腐りきって。疚売りを探す事を諦めるという事は、一年後に訪れる死を緩慢に受け入れるという事だ。しかし私は、その絶望的な事実に、ほとんど何の感慨も抱く事が出来なかった。


 そもそも私は、一体どうしてここまでして生きようなどと思ったのだろう。使父だから。自分で命を絶つ事を神はお許しにならないから。それは生きる機会を与えて下さった神に対する冒涜だから。だから私は、あの少女と共に生き延びる道を探すべく、疚売りを探す旅に出る事を選んだのだ。

 

 けれど、本当にそうだろうか。神がお許しにならないから、私は生き延びる道を探すための旅に出る事を選んだのだろうか。確かに自らの手で命を絶つ事は神に対する冒涜だ。でも、疚によって緩慢に死を迎える事は、別に神の意志に背く事ではないんじゃないか? いや、それも自殺には違いない。生き延びる事を諦めて死を選ぶ事と同意義だから。本当に? 私はただ、自分が生き延びたいがために神の名を利用していたに過ぎないのではないだろうか。


 私は何故そんなに生きたがっていたんだ? 家族ももういないのに。私は独りぼっちなのに。死を選ぶ事は生きる機会を与えて下さった神に対する冒涜だから。例えそうだとしても、罪を重ねながら生きる生に何の価値があるのだろう。仕方ない。そうしなければ生きていけないのだから仕方がない。物を盗み人を殺しながら生きる事が尊いなどと言えるのか? 生きてさえいれば幸せです。誰の言葉だそれは。人の死と罪の上に存在する幸福なんてあり得るのか。果たしてこの世に、この獣を飼っていない人間など存在するものだろうか。私は私のおぞましい獣を眺めながら、それでも生きていこうと思うのだ。ただ生きていける幸福に、感謝と懺悔を捧げながら。


 私は、座っている事にも疲れ果て、土の上に横たわった。ありがたい事に、いつの間にか雲が出ていた。白く厚い雲は日の光から私の事を守ってくれた。今、日の光をまともに視界に入れていたら、私はあまりのいたたまれなさに両手で顔を覆って踞っていたに違いない。


 私はこれから一体どうするべきなのだろう。生き延びる事は諦めた。これ以上誰かの死と隣合わせてまで、生き延びようと足掻く事には堪えられない。ではこの先どうする。生きるか? 死ぬか? 一年後に腐り果てるその時までは生きていくか、それとも、生きる事にさえ絶望して自ら命を絶つ事を選ぶか。自らの手で、命を絶つ事は許されない。それは生きる機会を与えて下さった神に対する冒涜だから。けれど、生きる事を選ぶという事は、生きるために罪を重ねる事を選ぶ事と同意義だ。何故なら私には食べ物がない。生きるために必要な食べる物が何もない。私が生きようと思うのなら、そこにある畑の……沙塵さん達の食べ物を、盗んで生きなければならなくなる。それを守るために恩人までも皆殺しにした、沙塵さん達の食べ物を。


 そんな事は、もしかしたら、あまり気にしなくてもいいのかもしれない。もういないのだからと割り切って、腐るだけだからと切り捨てて、罪悪感さえ覚えずに手を伸ばして貪っても、いいのかもしれない。けれど、私は罪悪感を覚える以上に、そこまでしてこれ以上生きる事の意味と価値を見出だせない。死人の家から物を盗んで、食い繋いで、一年後に腐り死ぬその時まで生き長らえるという事に、何の意味も価値も幸福も希望も見出だす事が出来はしない。そんな事をして何になる。そんな事をして何が変わる。どうせ絶望だけを抱えて死を待ち続けるぐらいなら、絶望だけを抱えて死を選んだって何の違いもないじゃないか。かつての私だったら、きっとそんな考え方は間違いだったと否定していた事だろう。けれど今は。何故生きる事は尊いのだと無心に思えていたのだろう。何故生きてさえいれば希望はあると信じられていたのだろう。ああ、もういい。もう嫌だ。見ない。見たくない。聞かない。聞きたくない。考えない。考えたくない。もう何もかもがどうでもいい。ただ眠っていればいい。死んだように眠っていれば、いずれ餓えきって疚に蝕まれて私は終わる事が出来るはず……


「ねえ、死んでるの?」


 人の声が聞こえ、私は思わず瞼を開いた。視線を動かすと青年が、一人の青年がしゃがみ込んで私の顔を覗いていた。


「あ、生きてた。ごめん、寝てたの? 君、この辺りの人? お昼寝中だったのかな」


「君は……誰だ……」


「ああ、ごめん。ボクは(びょう)って言うんだ。君の名前は?」


「分……」


「分? 何だか君とはとっても仲良くなれそうな気がするよ。分って呼んでも構わないかな? ボクの事は渺でいいから」


 変わった青年だな……何とはなしにそう思った。人なつっこいと言えばそれまでなのかも知れないが、少なくとも私の送ってきた人生の中では出会った事のないタイプだった。渺と名乗った青年は、妙にニコニコと未だに横たわったいる私の顔を眺めていたが、急にハッとした顔をしてしゅんと眉を八の字に下げた。


「ご、ごめん、ちょっと馴れ馴れしかったかな? それとも呼び捨てはダメだったかな?」


「あ、いや……すまない、ちょっとぼーっとしてしまって……」


「眠いの? 具合悪いの? お腹空いた? 困ったなあ、今食べ物切らしちゃってて何も持っていないんだよなあ……」


 な……なんなのだろう、この青年は……瞬時にそんな事を思った。その人なつっこさが、朗らかな雰囲気が、何故だか酷く異質なものに感じられた。いや……違う、異質なのはこの青年の方じゃない、私の方だ。人当たりのいい朗らかな青年を、異質だと感じてしまう私の精神の方なのだ。そこまで考えて私は、ようやく自分が地面に横たわったままだという事に気が付いた。いくらなんでもこれは人と話をする体勢ではない。


「す、すまない! こんな姿勢のままで話をするなんて……」


「え? いや、大丈夫だよ。だって具合悪いんでしょ? もう少し寝ててもいいんだよ?」


「いや、別に、具合が悪いわけでは……」


「じゃあ、お昼寝中だったの?」


「ああ……まあ……そんなとこかな……」


 私は咄嗟に嘘をついた。まさか人間二人を弔って、そのすぐ傍で寝転がりながら生きるか死ぬかを迷っていただなんて、言えない。言える訳がない。渺と名乗った青年は、相変わらずしゃがみ込んだ状態で私を見ながら首を傾げる。


「お昼寝だったらこんな地面剥き出しの所じゃなくて、もう少し昼間しやすそうな所ですればいいのに、君って変わっているんだね」


「はは……」


「ま、いいや。分ってこの辺りの人なの? 良かったらちょっとボクと話を……」


 その時、グウーと盛大な音が鳴り響いた。私の音かと思ったが、見ると青年が照れたように自分の頬を掻いている。


「あはは……ごめん。お腹空いちゃったみたいだね。この辺りでご飯食べられそうな所ってあるのかな」


「あの……それは……」


 ある訳がない。何故ならこの村の住人は、既に死に絶えてしまっているのだ。しかしこの青年にそれを説明するのは困難だし、空腹を訴えている人間をこのまま追い返すと言うのも……、…………


「じ……実は、私、この家の人間なんだ……」


「あ、だからこんな所で寝てたんだ」


「野菜があるから……良かったら食べていかないか……大した物は……出せないけれど……」


 私が呟くと、青年は顔を明るくした。その表情に、そして自分の発言に、津波のような後悔と罪悪感が押し寄せる。


「いいのかい? 感激だなあ、ありがとう! こんな通りすがりに食事を振る舞ってくれるなんて、君ってすごくいい人なんだね!」


「そんな事……お腹を空かせた人を前にしたら、人間として当たり前の事じゃないか……」


 言いながら、吐き気がした。私はなんて、なんて忌まわしい事を口に出しているのだろうか。私の背後に、この家の本当の持ち主達が立っているような気がして、私は地面に視線を落として目を伏せる事しか出来なかった。

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