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疚市(旧)  作者: 雪虫
28/36

4-9

 厘の言葉は……もう、止めて欲しいと思った。一体これ以上、どうして、どれだけ、どんな不吉と不幸を見なければいけないと言うのだろう。しかし、私は、逃れられない。この現実から逃れる事は許されない。


「疚売りの……事じゃないんだよな……」


「わかりきった事を聞くんじゃないわよ。もしそうなら問答無用でアンタの首を掴んで行くわよ」


「一体……何処から……」


「アンタになついていたあのガキからよ」


 止めて欲しい。もうこれ以上、これ以上、絶望なんて必要ない。けれど私の喉からは、この狂った物語を進める言葉しか出てきはしない。


「そんな……そんなはずはないだろう! 埃君は疚売りには遭っていない! 外に出た事さえ久しぶりだって……」


「だから気になっているんじゃないの。とは言っても、あのガキが嘘吐いたっていう可能性もあったけど……まあ、疚売りならともかく、あのガキが疚人だったとしてもどうでもいいわ。今更あの家に戻る訳でもないんだし、とりあえずさっさと先に行って……」


 その時、ガシャンと、何かが砕ける音が聞こえてきた。続いて、微かに、男の悲鳴。私は走り出した。後ろで呼び止める声が聞こえてきた。けれど、止まれるはずもない。私は扉を開ける。


「沙塵さん! 埃君!」


 日はすでに暮れかけていた。私は土足のまま玄関へと上がり込んだ。さっきはあんなに悩んでいたのに。つい数時間前の事を踏み付けるように歩いていく。私は部屋を覗き込んだ。そこには沙塵さんがいた。首を噛み千切られて、動かなくなった沙塵さんが。沙塵さんの上には、口を血塗れにした獣がのし掛かっていた。


「………………」


「あれ? お兄ちゃん、戻ってきてくれたの?」


「埃……君……なのか……」


「すごいでしょ、ぼく、オオカミに変身出来るようになったんだ! これで野犬も倒せるよ! だからお兄ちゃん、ぼくも一緒に連れていってよ! お父さんを倒したからいいでしょう?」


「君が……きみが、やったのか……沙塵さんを……」


「だって、お父さんはぼくの自由を奪う悪いヤツだもん! 悪いヤツを倒すのがヒーローの役目だもん! だからぼくの自由を奪うお父さんをやっつけたんだ! ね、お兄ちゃん遊んでよ。ぼくも一緒に連れていってよ!」


「………………」


 なんで。どうして。どうして。どうして。どうして。頭の中がぐちゃぐちゃだった。何が悪いのかわからなかった。どうすればいいのかわからなかった。私は一体何処にいるんだ? ここは一体何処なんだ?


「ねえ、お兄ちゃん、ぼくを見てよ! ぼくすごいでしょ? ぼく強いでしょ? 野犬だってやっつけられるよ。お兄ちゃんやお姉ちゃんの事、ぼくが守ってあげるんだから。だからぼくの事も連れてって!」


「だ……めだ……」


「え?」


「駄目だ……それは……駄目なんだ……連れて行けない……君は……君の事は……連れては行けない……」


 私は、振り絞った。何が正しいのかもわからずに。けれど、それしか言えなかった。そう言う事しか出来なかった。


「君は……お父さんと一緒に……暮らしていくべきだったんだ……君を何より愛しているお父さんと……君のお父さんは……本当に君の事を、心の底から愛していたのに……」


「……何でだよ。どうして、そんな事を言うんだよ。うるさい。だまれ。だまれ。だまれよ。なんでそんな事を言うんだよ!」


 獣が、父親の血で口を真っ赤にした獣が吠えていた。獣は唸り声を上げ、唾液を振りまきながら私に噛み付こうと飛び掛かる、その時、私は背後から誰かに強く頭を押さえ付けられ、強かに鼻を床へと打ち付けた。


「ぶっ!」


 床に顔から接触した私は、そのまま私の頭を押した誰かにのし掛かられていた。何かに何かがぶつかったような音が聞こえ、そして私の上に乗っていた何かはようやく私の上から退いた。


「アンタ、邪魔よ」


「厘! ……君、その腕の傷は!?」


「馬鹿なガキに少し咬まれただけよ。すぐ治る。別に大した事じゃないわ」


 厘は吐き捨てて、左腕から血を流したまま目の前にいる獣を睨んだ。日の光はすでに届かなくなりつつある。夜が近付いてくる中で、口を血に塗れさせた獣は歯を剥き出して唸っていた。


「何で連れて行ってくれないんだよ! 連れて行ってくれないならやっつけてやる! お父さんみたいな悪いヤツはみんなみんなやっつけてやる!」


「アンタの父親が悪人だという事を否定するつもりはないけれど、生憎餓えたガキを連れて歩くような余裕はないのよ。悪いけど、死んでもらうわ」


 死んでもらう。その言葉に、私は思わず目の前の少女に腕を伸ばした。私に腕を掴まれた少女は、目を見開いて私を見る。


「何すんのよ、離せっ!」


「殺すな、頼む、殺さないでくれっ!」


「この非常事態に……何を甘ったれた事言ってんのよアンタはッ!」


 厘は私を、突き飛ばした。それと同時に獣は、厘の頭へと飛び掛かった。倒れる私の視界に、獣の爪が厘の目の辺りを抉るのが見えた。厘が悲鳴を上げて倒れ込む。獣の瞳が私を見る。全てが、スローモーションのように見えていた。埃君が、口を開けて、私に飛び掛かってきた。その背後で厘が、目に走った傷から血を流しながら立ち上がった。血の色で染まった瞳に夕陽を反射させながら、厘が、叫ぶ。


「この……クソガキがアアァァァあッ!!」


 そして、厘の振り下ろした包丁は、吸い込まれるように埃君の背後へと消えていった。いっぱいに開いたその口の中で、血で赤黒く滑った包丁の切っ先が鈍い光を放っていた。


「………………」


「どう……して……」


「………………」


「ぼくはただ……じ、じゆうに……いきたかっただけなのに……」


 埃君は、かつて人間の子供の姿をしていたはずの何かは、獣のまま床へと落ちた。そして黒く染まっていった。厘は、目から流れ出ている血を拭うと、埃君に刺さっていた包丁を掴んで一気に引き抜いた。


「自由っていうのはね、自分の思うままに生きるという意味じゃない、自分の行動全てに責任を負いながら生きていくという意味よ。その意味も、重さも、恐ろしさもわからないようなクソガキには、自由を語る資格もないわ」


 私は、厘が何を言っているのか、ほとんど理解出来なかった。私の意識に入っていたのは、かつて確かに人間だった二つの残骸だけだった。


「さあ、行くわよ。一応野菜でも貰っていきましょうか。草を刈れば火を入れるぐらいは出来そうだし」


「……嫌だ」


「……あ?」


「嫌だ。いやだ。もういやだ。もう、いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ」


 私は、もう、そんな子供のような事を口にする事しか出来なかった。自分でも馬鹿のような事を言っているのはわかっている。けれど、止まらない。どうにも止める事が出来ない。


「……アンタ、何、聞き分けのない駄々っ子みたいな事を言ってんのよ。嫌だなんてほざいても何も変わりはしないんだって何回言えばわかるのよ」


「でも、いやだ。いやだ。いやだ、いやだ。いやなんだ」


「アンタ、いい加減に……」


「もう人が死ぬのを、見ながら生きていくのは嫌なんだっ!」


 私は、叫んだ。喉が痛い。胸が痛い。私の中の何かがひび割れ、砕けていくような感じがする。息をするのが苦しい。何も見えない。見たくない。聞こえない。何も聞きたくはない。


「一体、いったい、『これ』はいつまで続くんだ! 一体いつまで、こんな事を続けなくちゃいけないんだ! 空き家を漁って、死んだ人から物を盗んで、人の死を見て、私達はいつまで、何処まで! こんな事を続けなくちゃいけないんだ!」


 少女は、私を見ていた。何の感情も見えない瞳で。食べるために仔犬を殺し、皮を剥いでいたそのままの瞳で。


「いつまでってそんなの、これからずっとに決まっているじゃない。生きるために必要なら、ずっとしていかなきゃいけないに決まっているじゃない」


「いやだ」


「泣き言を言ってんじゃないわよ」


「いやだ」


「二回同じ事を言わせんじゃないわよ」


「いやだ」


「アンタ、いい加減に……」


「こんな事を繰り返して、生きていくのはもう嫌だ!」


 私は、言った。塞いできたその言葉を。決して言うまいと思っていた。けれど、もう、止まらない。止まらない。止まらない。


「何が、生きていくためだ! 生きていくためだからって、物を盗んで、人を殺して、そうやって生きていく事が、許される訳がないじゃないか! 私は嫌だ、もう嫌だ、こんな生き方はもう嫌だ!」


「駄々を……捏ねるんじゃないって言ってんのよ! 選択肢なんて贅沢はアンタには存在しないのよ! 正しさに死ぬか、悪辣に生きるか、それしかないって何回言えばわかるのよ!」


「私は、君のような人殺しじゃない! 人を殺して平気な顔で生きていける、君なんかとは違うんだっ!」


「…………っ!」


「正しさに死ぬか、悪辣に生きるか、それしか選択肢がないのなら……正しさに死んだ方がマシだ。悪辣に生きるぐらいなら、私は死んだ方がマシだッ!」


 私は、叫んだ。力の限りに。世界全てを否定するように。沈黙が降りた。沈黙を打ち破ったのは、沈黙よりもさらに重く沈んだ声だった。


「そう」


「…………」


「わかったわよ。生きる気がないヤツなんて、一緒にいるだけ邪魔だわ。だって、そういうヤツは生きるための努力を全部放棄してしまうヤツだもの。いいんじゃない。好きにすれば。アンタの人生だもの。好きに生きて私の知らない所で好きにくたばってしまえばいいわ」


 人の気配が、徐々に離れていくのがわかった。私は顔を上げられなかった。部屋の中にはすでに何の光もない。


「じゃあね。もう二度と会う事もないだろうけど。……連れ回して悪かったわね」


 扉が閉まる音がした。私はその場に踞った。涙が出た。嗚咽が漏れた。どうして泣いているのか、私にもよくわからなかった。


 部屋の中は暗かった。部屋の中は黒かった。一筋の光だって存在しない。世界はただ黒かった。


 何も見えやしない。

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