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沙塵さんの声は、少し怒っているように聞こえた。赤く染まった瞳で、私を覗き込みながら、目の前の男は口を開く。
「食糧を渡していれば良かったですか? 食糧を渡して、埃と共に餓え死にすれば良かったですか? それとも、鍬を持った村人になぶり殺されれば良かったですか? 埃を遺して。もしかしたら埃も殺されていたかもしれないのに」
「そ……それは……それは……」
「それとも、半殺しにしていれば良かったですか。鍬を奪って村人達を、抵抗出来ないぐらい半殺しにでもしていれば良かったですか。私を殺そうとした村人達を。殺されるかもしれないという恐怖の中で。ただの無力な人間の私に、そんな事が出来たとお思いですか?」
「は、話し合う余地は……」
「みんな、食糧が手に入らなければ、数日後には餓え死にする身だったんですよ?」
「………………」
「観念しなさい、アンタの負けよ」
「勝ち負けを決めるようなものでは、なかったはずなんですがね」
沙塵さんは、そう言って、力なく笑った。その笑みがやはり恐ろしかった。人を殺してしまった上で、そんな風に普通に、すまなそうに笑っている事が、やはり酷く恐ろしかった。
「分さんの仰りたい事は、よくわかります。いくら自分が生き延びるためとは言え、人を殺すのはいけない事です。許されざる事です。自分が生き延びるためとは言え、人を殺す事を肯定する事は、どんな理由があろうとも許されざる悪辣でしょう」
沙塵さんは、私を気遣うように呟いた。思いの他に穏やかな、しかし、人間の皮を被っただけの何かの顔で。
「けれど、私はそれでもお聞きしたい。私のした事が許されざる事だとしても、決してしてはいけなかった事だったのだとしても、では私は、一体あの時、どうすれば良かったと言うのでしょうか。食糧を渡して息子と二人餓え死にすれば良かったですか? それとも食糧を渡さずに、息子と二人なぶり殺しにされていれば良かったですか? 話し合えば良かったですか? 何と言って。食糧が手に入らなければすぐに餓え死ぬという人間達に、私は何と言えば彼らを殺さずに済んだのでしょうか」
「…………」
「『そんな事はしてはいけない』『そんな事は許されない』、その言葉は正しいのだとは思います。ええ、その言葉は正しいです。
しかし、正しさというヤツは、正しさを押し付けていくだけで、私達を救うための具体的な方法を示してくれる事はない。私はどうすれば良かったのでしょうか。私はどうすれば正しかったと言うのでしょうか。息子と餓え死にすれば良かったですか? 息子となぶり殺されていれば良かったですか? 悪辣に生きるぐらいなら、正しく死ねば良かったですか?」
「そんな……そんな事は……言っていない……」
「けれど、悪辣に生きる事を諦めろという事は、正しさに死ねという事と同意義ですよね?」
言葉も、出なかった。私は俯いた。沙塵さんの穏やかな、赤くて黒い、底の底の底を見てしまったようなその瞳を、これ以上は見たくはなかった。
「厘さんは、どう思いますか?」
「正しさに死ぬぐらいなら、悪辣に生きる方がマシよ。だって正しさなんて私を守ってくれないじゃない。私を守ってくれない正しさを、どうして私が守ってやらなくちゃいけないの。正しさを守るために私を犠牲にする事を選ぶぐらいなら、私を守るために正しさを犠牲にする事を選ぶわよ」
「あなたなら、そう言うんじゃないかと思いましたよ」
「どうして……」
私は、言葉を振り絞った。聞けば後悔するような気がしたが、しかし聞かずにはいられない。
「どうして、私が毒キノコを食べようとした時、止めてくれたんですか……私を助けたりなんてしなければ、こんな面倒な事にはならなかったはずなのに……」
「そうですね。声を掛けてから、しまったと思ってしまいましたよ。あの時声を掛けなければ、あなた方を殺そうなどと思わなくて済んだはずなのに」
「………………」
「私達を追ってきたのは、息子に人殺しがバレるのが怖かったから?」
「仰る通りです。私のつまらぬ臆病のせいで、あなた方にはとんだご迷惑を掛けてしまいました」
「あら、もういいワケ?」
「あなた方が戻ってきて、私の罪を息子に明かしてしまうのではないかと、そう思うと怖くていてもたってもいられず……でも、あなた方に再びお会いして確信しました。あなた方はそんな事はなさらないと」
「すると言ったら?」
「殺します」
「止めとくわ。死にはしないけど面倒臭い」
「そう仰って頂けるとありがたいです」
沙塵さんは、立ち上がった。そして私達に向かって深々と頭を下げる。
「私ごときのつまらぬ話でお引き留めして申し訳ありませんでした。こんな事をしておいてなんですが、くれぐれもお気を付けて」
「全くよ。皮肉もいい所だわ。人殺しにくれぐれもお気を付けてなんて言われるなんて、どれだけ笑えないジョークだって言うのよ」
君だって、人殺しじゃないか……とは、言えなかった。沙塵さんは何も知らないのだ。穏やかな顔の人殺しは、酷く寂しそうに口を開く。
「分さん、先程どうして、あなたに声を掛けたのかと聞きましたね。多分私には、まだ未練があるのだと思います」
「……未練?」
「はい、『まともな人間』への、未練です」
沙塵さんは…………もう、その表情を、私は何と表現すればいいのだろう。目の前に立つこの男の顔を、一体私は何と言葉を並べれば表現する事が出来るのだろう。
「私は、人を殺してしまいました。それが自分が生きるためであろうとも、息子を生かすためであろうとも、私は許されざる事を致しました。それは理解しています。そしてそれを理解していながら、私は正しさに死ぬぐらいなら悪辣に生きる事を選び、今こうしてこの場に立っているのです。
しかし、その一方で、やはり私は、まともに生きていたかったのでしょう。息子と肩を寄せ合いながら、慎ましやかに、平凡に、穏やかに、まともな人間としてそれでも生きていたかったのでしょう。人を殺しておきながら、その罪を息子から隠そうなどと浅ましい真似をしておきながら、何を贅沢な事をと、そう思われるかもしれませんが……私はまともな人間でいたかった。まともな父親でいたかった。普通に人を助け、普通に人と支え合い、普通に息子と生きていける、まともな人間でいたかった。正しい人間でいたかった。それが叶わぬ事だと知っていても」
「…………」
「埃と遊んで頂き、本当にありがとうございました。大したおもてなしも出来ずに申し訳ありません」
「とんだ人殺しがいたもんだわ。ついさっき殺そうとした相手に深々と頭を下げるなんて」
「大恩ある人間が相手でも、自分が生き延びるためなら殺そうとするのが人間です。でしたら」
「自分が殺そうとした相手にも、感謝を示すのが人間だって? ……はっ、だとしたら人間っていうのは、鬼や悪魔なんかよりよっぽど奇っ怪な化け物かもね」
沙塵さんは力なく笑うと、私達に背中を向けて自分の家へと戻っていった。その背中は悲しみと、寂しさと、人間への未練と、歪みと狂気と、息子へのひたむきな愛情を背負った、人間の皮を被った何かだった。
「君は……いつから気付いていたんだ」
「あれだけ空き家に近付くなって口うるさく言われたらね。そもそも、本当に野犬が潜んでいるなら住んでいる事も出来ないでしょうし」
「全部……埃君のために……」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。他人のためなんて言葉は全部自分のためじゃない。あのガキに自分が人殺しだって知られたくないのだって、つまりは自分のためじゃない」
「君は、どうしてそんな事ばかり……」
「だって事実じゃない。例え本当にそうだったとしても、『誰かのため』だなんて口にした時点でそれは自分のためなのよ。例えばあの人殺しが息子のために罪を犯したとか口走ったら? そんなの、自分の罪の理由を息子に擦り付けているだけじゃない」
「沙塵さんは……そんな事は言っていないよ……」
「人間なんて、結局自分のためにしか何も出来ない生き物よ。だって生きている事自体がすでに自分のためでしょう? 自分のために生きている人間が、他人のために何か出来るはずがないじゃない」
「それは……」
悲し過ぎるだろう。心の底からそう思った。あんなに寂しそうで、あんなに悲しそうで、疲れ、擦りきれ、壊れ果てた姿で生きているのが、全部自分のためだなんて。人を殺したのも必死に日々を消費するのも、全部自分のためだなんて。愛する誰かのためではないって。それは、そんなのは、あまりにも、悲し過ぎる考えだ。
「そんな事より、一つだけ気になる事があるのよ」
「……何?」
「臭いがしたのよ」
「臭い? 何の」
「疚の臭いに決まっているでしょ」




