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その後、食事を終えた私は、躊躇った末お椀を玄関に置いて外に出た。本当は流しに置きに行きたかったが、泥があちこち乾いてこびりついた体で家の奥に上がり込むのは気が引けた。外に出ると、沙塵さんがドラム缶にバケツで水を貯めている所だった。所々錆びの見える水色のドラム缶に、底に土の付いたポリバケツで水を入れていく。沙塵さんは水を注ぎ入れると顔を上げ、私を見て申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「すいません、雨水ですが……少しゴミが浮いているかもしれませんが……」
「あ、す、すいません。手伝います」
「そうですか? それではお願いします……」
沙塵さんは、空のバケツをそれぞれ一つずつ両手に持つと家の裏側へと歩いていった。着いていくと家の裏には、バケツや、タライや、洗面器や、ペットボトルなんかが、砂埃や泥に汚れながら所狭しと並べられていた。
「雨水を溜めて沸騰させて使っているんです……申し訳ありませんがお願い出来ますか?」
「は、はい、もちろん」
私は、とりあえず近くにあったタライを一つ持ち上げた。正直、重い。木の葉や細かなゴミが浮かんでいるのが見えたが、そんな事は気にしてはいられない。よたよたとよろめきながらもタライをドラム缶へと運んでいく。
何とか溢す事なくドラム缶へと辿り着き、雨水を中へと注ぎ入れる。タライの中に入っている時は溢れんばかりの量だったが、ドラム缶に入れてしまえば実に微々たる量だった。私はタライを持って家の裏へと歩いていく。途中で沙塵さんと擦れ違う。私は空のタライを置いてバケツを二つ持ってドラム缶の方へと戻る。沙塵さんと二人で、しばらくそれを繰り返した。
数回程はただ沙塵さんに迷惑をかけまいと無心で水を運んでいたが、ドラム缶に水が貯まっていき、裏庭に空の容器が溜まっていく程にとんでもない事に気が付いた。一体、私と厘がお風呂を使わせてもらうだけで、どれだけの水を消費する事になるのだろう。ここにある水全てを使いきってしまう、というような事はないだろうが、かなりの量を使うはずだ。すぐに雨が降ってくれればいいが、父子二人で使う分の量の雨がきちんと降ってくれるとは限らない。
いやそもそも、どうして私達はこんな所にいるんだ? 食事を振る舞って頂いただけで十分だ。その上お風呂まで厄介になろうなんて迷惑にも程がある。もう食事は頂いたのだ。枯れ草集めもしたのだから、一応恩は返せたはずだ。厘を連れて早々に立ち去るべきだ。私は顔を上げて沙塵さんを見た。
「しゃ、沙塵さん、すいません、用意をして頂いて申し訳ありませんが、私達はそろそろお暇しようかと……」
「戻ったわよ。水の用意は出来たの?」
背中に冷たい水を流し込まれたような悪寒を覚え、私は後ろを振り返った。見れば、泥だらけのダッフルコートをまとった髪も目も黒い少女が、不吉と不安を形にしたように傲然とそこに立っていた。
「り……厘……」
「ふん、まあまあの量って所ね。わざわざ持ってきてやったのよ。火の方は任せていいのかしら」
「あ、ああ……はい」
「分、私と交代して。私は湯が沸くまで休むから」
「り、厘!」
私は玄関に向かおうとする厘の肩を掴もうとして、躊躇った。さっき不用意に掴んで蹴り飛ばされたばかりなのだ。私がどうしようか悩んでいると、厘が黒い髪を揺らしながら私の方を振り返る。
「何」
「いや……そろそろお暇しようかと……」
「はあ? 何でよ」
「何でって……こ、これ以上は迷惑だろう。お風呂に入るのには水がたくさんいる訳だし……」
「何よ、風呂に入れって言ったのはアンタじゃない」
「そ……そうだけど……そうじゃなくて……」
どうして、この少女にはこれ程気遣いというものがないのだろう。自分の行動がどれだけ人に迷惑を掛けるのか、どうして考えてくれないのだろう。私がどう言ったものか悩んでいると、思わぬ所から思わぬ言葉が飛んできた。
「分さん、構いませんよ。そんなに気を遣わなくて」
「しゃ、沙塵さん。しかし……」
「燃料を集めて頂いた上に埃と遊んで頂いたのに、そのお礼があんな粗末な食事一つでは私の面目が立ちません。雨水などで申し訳ありませんが、どうか風呂の世話ぐらいさせて下さい」
「いや、でも、そんな……」
「それに、このままあなた方をお帰ししたら、私はお客様をろくにもてなしもせずに追い返すような父親という事になってしまいます。そんな姿を息子に見せる訳にはいきません。ここはどうか、私のためと思って……」
そう言って沙塵さんは、深々と頭を下げた。自分だって大変な時に、ここまで赤の他人を、しかもただの通りすがりを想いやれる人がいるだろうか。私は沙塵さんのご厚意に、しかし嬉しさや感動よりも悲しいものを覚えていた。
「そういう事でしたら……ありがたく使わせて頂きます。……あ、それから、枯れ草を取りに行くのに埃君も連れて行ってもいいですか? せっかくですからもう少し外で遊ばせてあげたいんですが……」
「えっ!? ……ああ、はい、ありがとうございます。どうかよろしくお願いします。くれぐれも空き家にだけは近付かないように……」
「相変わらずまだるっこしい会話をしてるんじゃないわよ。早く湯を沸かして頂戴。汗でベタベタして気持ち悪いのよ」
沙塵さんの申し訳なさそうな言葉を、厘の刃物のような言葉がぴしゃりと断ち切っていった。本当に、どうしてこう、気遣いというものがまるでないのか。沙塵さんの気遣いは悲しみを覚えてしまう程だが、厘の無神経さと図太さは眩暈を覚えてしまう程だ。同じ人間のはずなのに、ここまで違うという事に混乱さえしてしまいそうだ。
「あ、そうだ。アンタに聞きたい事があるんだけど」
「は、はい、何でしょうか」
「妙な男を見なかった? 黒い布で顔を隠した、妙な試験管を持った、今にもくたばる寸前の病人みたいな妙な男よ」
厘の言葉は、背中に針を打たれたように私の事をゾッとさせた。しかし私の悪寒とは裏腹に、沙塵さんは何の事かわからないという顔をしている。
「いえ……見ておりませんが……」
「本当に? 隠し立てすると承知しないわよ」
「本当です……嘘は申しません。村の者がいなくなってからお会いした人間はあなた達二人が初めてです」
その時、厘はふっと笑った。その笑みは私に何か嫌な予感をさせたが、厘はそのまま言葉を続けた。
「それじゃあ、あのガキは?」
「ガ……」
「ええと、埃の事ですか?」
「ああ、多分そいつの事よ。そのガキは今言った男に会わなかった?」
「り、厘! いくら何でも失礼だろう!」
「私、人の名前覚えられないのよ。どうせ通りすがりの赤の他人なんだからいいじゃない」
「………………」
「ええと……埃は、会っていないと思いますが……今日外に出た事も久しぶりだと思いますし……」
「……ま、直接聞いた方が早いわね。ちょっとアンタ、あのガキをここに呼んできて」
気が……遠くなりそうだった。一体何処の世界に、父親の前でそんな表現を使う人間がいるのだろう。
「り、厘! いくらなんでも失礼だろう! 君は一体どうしてそんな口の利き方を……」
「お兄ちゃん、つまらないからぼくと一緒に遊んでよ~」
厘を諌めようと口を開いたその瞬間、扉が開き、埃君が甲高い声を上げながら私のコートにしがみついた。タイミングがいいのか悪いのか、埃君を見つめながら悩んでいると、厘が腕を組んだ状態で埃君の事を睨み下ろす。
「ちょうど良かったわ。ねえアンタ、妙な男を見なかった? 黒い布で顔を隠した、妙な試験管を持った、今にもくたばる寸前の病人みたいな妙な男よ」
「こ、子供相手になんて聞き方をしているんだ! ごめんよ埃君、ちょっと答えてくれるかな? 黒い布で顔を隠した男の人を見なかった? こういう細い管を持った、ちょっと元気のない男の人なんだけど」
しゃがみながら尋ねると、埃君は首を横に振った。
「ううん、見てないよ。お父さんはぼくの事お外に出してくれないから……」
埃君はそう返事をすると、沙塵さんの事を睨み付けた。沙塵さんは酷く悲しそうな顔をした。私はまた悲しくなった。
「そうか。えっと、私はまた枯れ草を取りに行こうと思うんだけど、良かったら手伝ってくれるかな?」
「うん! 行く行く!」
埃君は沙塵さんを睨んでいた顔を一変させ、笑みを浮かべて私のコートにしがみついた。沙塵さんは酷く悲しそうな、そして寂しそうな顔をする。
「すいません、よろしくお願い致します……埃、危ないから空き家に行ってはいけないよ……絶対に行ってはいけないからね……」
「お兄ちゃん、早く行こう」
埃君は、返事さえしなかった。沙塵さんは酷く悲しそうな顔をした。私は沙塵さんに頭を下げ、そして背を向けようとした。
「待った。やっぱり気が変わったわ。分、早くここを出るわよ」
驚いて、私は後ろを振り返った。何を言われたのかわからなかった。聞き間違いかと思った程だ。黒い少女の顔を見ると、厘はいつものような冷めた瞳で私の事を見つめている。
「厘……今なんて言ったんだ」
「ここを出ると言ったのよ。荷物を持ってくるわ。早く出発しましょう」
きっぱりと言い捨てて、厘は家の中へと入っていった。酷く……頭が混乱した。厘は今しがたまで、お風呂に入るから用意をしろと言っていたはずだ。それを今すぐ出ていくだって? どういう事だ? あまりにも急過ぎて頭がついていかない。
「お兄ちゃん、行っちゃうの? どうして? ぼくと遊んでくれるんじゃなかったの?」
「埃君、ちょっと待ってくれ。私にも一体どういう事だか……」
「出て行くって言ったのよ。悪いけど急ぐの。これ以上アンタに構っている暇はないわ。じゃあね」
厘は、私の足下に背負ってきたリュックを放り投げて、そのまま歩いて行こうとした。もう、無神経とか図太いとか、そんな次元じゃない、暴虐無人もいい所だ。埃君が今にも泣き出しそうな目で私のコートを掴んできた。
「お兄ちゃんいかないでよ! ぼくと一緒に遊んでよ! 遊んでくれるって言ったのに!」
「埃君……厘、いくら何でもあんまりだ! 一体どういう事なんだ!」
「何よ、アンタだってさっきはここを出るとか言ってたじゃない」
「そ……それは……でも、さっきとは事情が……」
「だったら私も事情が変わったのよ。早く行くわよ。時間がないのはわかっているでしょう」
「いや……いやだよ、やだよ、遊んでよ! 嘘つき! ぼくと遊んでくれるって言ったのにっ!」
「埃……お二人は急ぐんだそうだ。我が儘を言って困らせるんじゃない」
沙塵さんが埃君に駆け寄り、後ろから抱え上げた。埃君は沙塵さんの腕の中で力いっぱいに暴れている。
「やだ! 離せ、はなしてよ! お父さんがお兄ちゃんとお姉ちゃんに何か言ったんだろう! きっとそうだ。お父さんなんて大嫌いだ!」
「埃君、それは違う! お父さんは私達に本当に良くしてくれて……」
「分、いいからとっとと行くわよ」
厘が私の腕を引いた。私はどうすればいいのかわからなかった。埃君の誤解を解いてやりたい。しかし、何と言えばいいのかわからない。
「埃君、君のお父さんは立派な人だ。君の事を心の底から愛してるんだ。お父さんの事、わかってあげてくれ。いつまでも仲良く暮らすんだよ」
「やだよ、嫌だよお兄ちゃん! ぼくと一緒に遊んでよ! ぼくも一緒に連れてって!」
「さあ、行くわよ」
「お兄ちゃん!」
私は、後ろ髪を引かれる思いで、沙塵さんと埃君の家を後にした。背後から扉の閉まる音が聞こえてきた。振り返るとそこに父子の姿はすでに無かった。
「早くここを出るわよ」
「厘……一体どうしたんだ。意味がわからない。出ていく前にわかるように説明してくれないか」
「あの父親が人殺しだからよ。面倒に巻き込まれる前にとっとと逃げるわよ」
厘の言葉に、全ての音と温度が奪われたような錯覚を感じた。一体……今、この少女は何と言ったんだ。




