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疚市(旧)  作者: 雪虫
20/36

4-1

「腹が減ったわ」


 少女の言葉は、青く広い空へと酷く虚しく響いていった。生者のいなくなった町を出て五日目の朝、私達は食糧の尽きた体でひたすらアスファルトの上を歩いていた。僅かに残っていた食糧をお腹に収めたのが昨日の昼ぐらいだから……お腹が空いたという少女の言葉は全く仕方がないと言えた。


「腹が減った。腹が減った。腹が減った。腹が減った」


「厘……お腹が空いたのはわかったから……連呼するのは止めてくれないか……」


「だって腹が減ったんだもの。苛つくんだもの。ムカつくんだもの。全くやってられないわ。店があったら遠慮なく盗みに入れるっていうのに」


 お金を払う気はないのか……と怒る気にもならなかった。お腹が空いているのは私も同じで、正直喋る気力もない。厘の口撃に耐えられる自信はもっとない。一応、アスファルトの道の周りやアスファルトの隙間からは、枯れた雑草なんかが生えていたりはするのだけれど……いくら空腹だとは言え、枯れ草色に黒い斑点が付いているような雑草を、そのまま千切って口に入れようと思う人はいないだろう。……いや、いるかもしれないが……私にはもうよくわからない。少なくとも、食べられるのか食べられないのかも全くわからない雑草を、いくら空腹だからと口に入れる勇気はなかった。


『ガサガサ』


「ん……?」


「退きなさい」


 私がそちらを向くより先に、厘が私を押し退け音のする方に足を踏み出した。何か生き物がこちらに近付いてきているのか、姿は見えないがガサガサという音だけが徐々に向かってくる。


「な……なんだ? 犬か何かか?」


「毒蛇かもしれないわ。アンタは後ろに下がってて」


 厘は包丁を右手に握ると、いつ出てきても仕留められるようにするためか、体勢を僅かに低くした。緊張しながら草むらを見つめているとガサガサという音は一層近付き、現れたのは……すっかり汚れ窶れきった、一匹の小さな犬だった。


「くうーん」


 仔犬は甘えた声を出すと、厘の足下をすり抜け、私の方へと近付いてきた。長らく何も食べていないのか、汚れて所々固まってしまった毛皮の下には細い骨が浮いてさえいる。その姿は酷く哀れで、見ているだけで悲しさを覚えた。


「お腹が空いているんだな……何かあげたいけれど、私達も食糧なんて……とりあえずこの子を連れていって……」


 私が仔犬を抱き上げようと手を伸ばすと、突然、赤い色が私の視界に映り込んだ。視線を赤に向けると、厘が、手にした包丁で仔犬の首を切り裂いていた所だった。


「…………! …………!?」


 少女の腕はまだ動いている仔犬の体を土の上に押さえつけると、止めを刺すように痩せ細った体にステンレスの刃を突き立てた。びくり、と仔犬の体が一度だけ大きく痙攣し、そして二度と動く事はなくなった。少女は包丁を抜くと、動かなくなった仔犬の体を無造作に持ち上げる。


「肉が残ってるかわからないけど、無いよりマシというものね」


「な……何を、一体何をやっているんだ!?」


「何って、『狩った』だけじゃない。もう骨と皮って感じだし、不味そうだけど、この際贅沢は言ってられないわ」


「…………」


 狩ったって……骨と皮って、不味そうって。つまり、つまり、つまり


「この仔犬を……食べる気なのか……」


「何を当たり前の事を言ってるの?」


 心底不思議そうな顔をする少女が、私にはとても信じられなかった。いや、この少女に、人間の常識を説くのはもはや不可能なのかもしれない。人の家を漁り、死んだ人間の物を盗み、人を殺して生き延びる事が、当たり前の、この少女に。でも、けれど、それでも、やはり、この少女のする事は私の常識と理解の範疇を遥かに越えている。一体何処に、空腹で足下に擦り寄ってきた小さな仔犬を、食べるために躊躇いもなく殺す人間がいるのだろうか。


「当たり前って……当たり前って、空腹で擦り寄ってきた仔犬を殺して、ましてや食べるなんて、そんな事出来る訳がないだろう!」


「じゃあアンタ、これが毒蛇だったらどうするの?」


「…………え?」


「毒蜘蛛だったら? 毒蛙だったら? 毒を持っていなくても、牛や豚や鶏やウサギや猪だったらどうしてた? 仔犬なんて見慣れた愛玩動物じゃあなくて、『食べるのが当たり前』『殺すのが当たり前』の生き物だったら、アンタこの仔犬みたいに抱えて連れて行こうとした? 食べるためと自分の安全のために殺していたんじゃないの? 毒蛇も豚も仔犬も同じ生き物なのに、どうして仔犬だけ区別なんてする必要があるって言うのよ」


「…………」


「それにこの先、この犬みたいに腹を空かせた生き物なんて多分ゴロゴロ出くわすわよ。それをいちいち拾うつもり? 食べ物もないのに? 時間もないのに? どうせ餓死するんだろうなと思いながら通り過ぎるぐらいなら、今殺して私の腹の足しにして一体何が悪いってのよ」


 少女はそう言い切ると、枯れた雑草の上に死んだばかりの仔犬を置いた。それから雑草を掴み、死人の家から盗んできた包丁でざしざしと草を切っていく。


「何……を、しているんだ」


「火を起こすんだから燃やす物が必要でしょう?」


「や……焼くのか!? この仔犬をっ!?」


「贅沢は言わないとは言ったけれど、さすがに火ぐらいは通したいわ」


 少女は雑草をあらかた切って積み上げると、今度は置いてあった仔犬の死体に包丁を突き立てた。仔犬の毛皮を掴み、剥ぎ取るように包丁を滑らせ……気分が悪くなり、私は少女から目を背けた。頭から何かが急激に引いていくような感じがした。


 私は、少女から逃れるように草むらの中へと入っていった。何処に行く宛てがある訳じゃない。ただここには居たくない。


「ちょっと、一体何処に行くのよ」


「……何かないか……探してくる……」


「……あっそ。なるべく早く帰ってくるのよ。遅かったら全部食べるからね」


「……いらないよ」


 食べられる、訳がない。お腹を空かせて足下に擦り寄ってきた仔犬を、殺して、焼いて、食べるなんて、普通の神経の人間が出来るような事じゃない。それとも私がおかしいのだろうか。人の家を漁る事も、死人の物を盗む事も、仔犬を殺して食べる事も、人間を殺す事も、生きるためなら平気でするのが人間というものだろうか。

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