3-5
「…………?」
何だろう。もしかしたら積み上げられた机や椅子が崩れただけかもしれないし、でも、もし、疚売りだったとしたら……私はごくりと唾を飲み込み、階段に足を踏み出した。もし、疚売りだとして、厘を探している間に逃げられでもしたら……厘は何かあったら「大声を出せ」と言っていたし……私は三階へと上がる事にした。三階も一階と同じように土埃に薄汚れ、天井も壁も床も崩れた、ただの廃墟になっていたが、それでも、奥には進めそうだ。出来るだけ気配を殺して進んでいく。疚売りに見つかって、逃げられてしまわないように。一つ目の教室を覗き、二つ目の教室を覗き、三つ目の教室を……覗いた所で、そこに誰かが立っている事に気が付いた。
「!!」
それは、青年……だと思った。後ろ姿だけでは何の特徴も見られないが、つまりは『普通』の青年に見えた。今この青年に出くわした状況が『普通』であればの話だが。
(こんな所に普通の青年がいる訳がない……だとするとこの青年は……疚人!)
どうする。厘を呼ぶか。けれど厘を呼ぶという事は、この青年に私の存在を教えるという事でもある。それよりなら一か八か、この青年に気付かれないようにここから逃げて、厘を連れてこの学校からも町からも離れて……
私は後ずさりし、三階から二階までこっそり逃げるつもりでいた。しかし、足を後ろに踏み出した瞬間、「みしり」と嫌に大きな音が私の足下から響き渡った。私は硬直し、そして青年が振り返る。青年が私の方を見た瞬間、私は思わず声を張り上げた。
「き、君! 頼む! 落ち着いてくれないか!?」
「……は?」
「き、君は、命の危険に晒されて……焦っているのかもしれないけれど……焦っちゃ駄目だ……焦りなんかで、人間として大事な事を見失ったら駄目なんだ……人間はどんな時でも、人間としての誇りを、正しさを、忘れちゃいけない……いくら人を犠牲にして生き延びたって、その罪は、罰は、後悔は、後になって取り返しのつかない重責となって君の背中にのし掛かるんだ……だから、人を犠牲にしようとか、殺そうとか、そういう考えは捨てて、どうか、私達と一緒に……」
「アンタ、一体何を言ってるんだ?」
「……え?」
思い掛けない言葉に、私は呆然と青年を見つめた。何処にでもいそうな、本当に何処にでもいそうな、これといった特徴も特に見受けられない青年は、不審者を見るような目付きで私の事を見据えている。
「アンタ、宗教関係か何かか? 悪いけど他当たってくれよ……俺は今ダチと肝試ししている最中なんだ」
「き、肝試し?」
「ああ。ほら、隕石だのなんだのでこんな事になっちまったけどよお、人生前向きに生きていくためには楽しみっつうのは大事だろう? そんでせっかく廃校もある事だし……ところで、なんでアンタはこんな所に?」
「え……いや、それは……」
私は、急に恥ずかしくなり、何も言う事が出来なかった。正直な話、疚人だと思い込んで完全にパニックになっていた。自分が何を口走ったかさえ怪しい程だ。なんという事だ。何の罪もない善良な青年を、自分のために人を殺す人殺しと勘違いしたりするなんて。
「す、済まない、私はなんて勘違いを……だ、だったらここを早く出た方がいい! いや、疚売りだったら危険はもしくは……でも疚人の可能性もあるし……」
「アンタ、一人で何ブツブツ言っているんだ?」
「と、とにかく、ここから早く出た方がいい。信じられないかもしれないけれど、頼む、私を信じてくれ!」
「あ? ああ、よくわかんねえけど……でも、ここを出た後に変な壺を売り付けるとかはナシだぜ?」
「そ、そんな事はしないよ」
「でもなあ……口だけじゃあどうとでも言えるしなあ……あ、じゃあさあ、俺の前を歩いてくれよ。そしたら後を着いていってやる」
「え? あ、ああ。わかった……」
私は青年の言う通り、青年に背を向け玄関に先に向かおうとした。疚売り、あるいは疚人の事は気になるが、とりあえず先にこの青年の安全を確保しないと……
「……ん、分、伏せなさい! この馬鹿垂れがッ!」
背後から声が聞こえ、私は後ろを振り向いた。その時、視界に手が見えて、私は驚いて悲鳴を上げた。その瞬間目の前の手は消え失せ、私の目の前には塗料の剥げた元は白かっただろう壁が見えていた。
「な、何だ! 一体何処に消えやがった!?」
「あ……あれ……え?」
「運のいいヤツ……分、そこから出てくんじゃないわよ。それにしても疚人に気付かないなんて……いくら臭いがわからないにしても、アンタ馬鹿じゃないの?」
厘の声に、私は教卓の下から顔を出した。教室の入り口にいたはずなのに、私の体は何時の間にか教卓の下にしゃがみ込んでいた。教室の中央には家庭用の包丁を両手に構えた厘と、厘と対峙するように立つ、先程話していた青年がいた。
「り、厘!」
「邪魔だから出てくるなって言ったのに……どれだけ人の話を聞かないつもりよ」
「き、君は何をしているんだ。包丁なんて構えて……その青年は疚人じゃ……」
「いい加減にしなさいこの馬鹿が! こいつが臭いの元凶よ。アンタよりさらに薄いけど、確かに疚人の臭いがするわ」
厘の言葉に、私は驚いて青年を見た。先程までは表情までも何処にでもいる様だった青年は、今はゾッとするような笑みを浮かべてニタニタと厘の前に立っている。
「なんだ疚人って。ゲームか何かの設定か?」
「アンタ、全身真っ黒の布被った男に、妙な試験管貰わなかった?」
「ああ? あのエッグい色したヤツか? なあんだ、てめえら『お仲間』か? それならそうと言ってくれりゃあ良かったのによお、村のヤツら『殺しちまったんで』どうしようかと思ってた所だ」
「なん……だって……」
「あの試験管の中身に刺されたらよお、こう……手で捻る真似をしただけで、何でも捻って外せるようになっちまったんだ。まるでペットボトルの蓋やマネキンの関節を外すように。そんで人間も外せるのかなあって思ってやってみたら……傑作だったぜ。いいモン貰っちまったなあ」
「人間も……外したって……何で、何でそんな事をしたッ!」
「人を殺せる能力を手に入れた、だから殺して何が悪い」
青年は、そう、言い放った。嘲るように、くっきりと笑みを浮かべながら。意識が遠退きそうになった私を、引き戻したのは青年よりもさらに冷たい声だった。
「ああ~……わかりやすくていいわね、それ。実にわかりやすい、単純明快なクズ野郎だわ」
「何を……納得しているんだ……そんな、そんな理由で人が人を殺せる訳が……」
「アンタの目には一体人間ってヤツがどういう風に映ってんのか知らないけれど、蟻の巣穴に水を流し込んで溺れさせたり、蛙の尻に空気入れて爆発させたり、トンボや蝶の羽を潰したりなんて誰でもやる事でしょう。そういうレベルで人間の腕や足や首を外すヤツがいたとしても、別に不思議には思わないわよ」
「…………!!」
「おーおー、言うね~。そこの説教垂れた大学生よかよっぽどウマが合いそうだぜ」
「馬鹿言わないでよ。アンタみたいなブ男にモテた所で嬉しかないわよ」
「…………あんだと」
「ブ男って言ってんのよ。他人を殺せるような能力でも手に入らなきゃ自分の存在も誇示出来ない、オツムが幼児止まりの童貞確定ブ男君?」
厘の言葉は、場の空気を一瞬にして凍らせた。男は、遊び半分で人を殺した人殺しは、顔を真っ赤にして目の前の厘へと掴み掛かる。
「死ねェェェエッ!」
両手を伸ばして厘に掴み掛かろうとする男に、厘は駆け出し両手に持った包丁を振るった。しかし包丁は男の両手を切り裂く前に、途中でグルリと回転し、刃の上半分だけが床の上にガチャンと落ちる。
「何……!?」
「言っただろうが! 俺の能力は何でも捻って外す能力! 包丁だって捻って外す事が出来るんだぜ、こんな風によ!」
そして男は、厘の頭と腰に手をかざした。その瞬間、厘の首と腰が回転し、厘の頭と上半身と下半身がバラバラになって床へと落ちる。
「り、厘ッ!」
「呆気ねえ女だな、生意気な口叩きやがって! 俺はよお、俺に向かって生意気な態度を取ったヤツは全部こうやって殺してやったんだ! 小煩いお袋も、怒鳴るだけのうるせえ親父も、俺を馬鹿にするクラスメイトも、ムカつく教師も、全部全部全部全部俺がこの手で殺してやった。最ッ高だったぜえ……いつも俺に偉そうな態度を取っている連中が、助けてくれと俺に土下座してヘコヘコするのを眺めるのは……そしてそれをジワジワ嬲り殺してやるのは……ああ、俺は今までこのために我慢して生きてたのかって気さえした……」
「…………」
「最後にこの学校に来たのは、クソみてえな俺の人生とオサラバするためさ……そうだ、俺は何でも出来る。この力を使えば誰に馬鹿にされる事もなく……」
「そいつは無理ね。だってアンタ、今この場で死ぬんだもの」
聞こえてきた声に、男の狂喜に満ちた笑みが止まった。厘は、何の異常もない様子で立ち上がると、刃が半分外れてしまった包丁へと視線を落とす。
「あ……あーあー。せっかく『新調』したって言うのに。ま、『他にもたくさんあったから』いいと言えば別にいいけど」
「なん……だ、お前……なんで……生きているんだよ……」
「あ……あー。まだなんかちょっとズレているような気がするわ。首の骨と神経が上手くハマってくれない嫌な気分よ」
「何で……生きてんだって……聞いてんだよ!」
男は、再び厘に掴み掛かり、厘の体は今度は両腕が肩から外れた。男の横顔にはホッとしたような雰囲気が浮かんだが、厘の腕は落ちた瞬間、まるで蛇か何かのように男の足を登り始める。
「…………!」
「…………」
「な……何だ……一体何なんだこれはッ!?」
「私の能力はね……『不死身』なの。首を切り落とされたって死なないし、飛び散ったパーツを多少動かす事も出来るのよ。例え暴走した新幹線に撥ね飛ばされたって死にやしないわ。もっとも、『元に戻る』にはそれは素晴らしくクソみたいな時間が掛かったけれど……」
「ひ、ヒイッ!」
男は自分の体を這い上がる二本の腕を振り払おうとしたが、厘の腕は男の腕を擦り抜け、土で真っ黒になった指で男の首を絞め上げた。一体どれ程の力で絞め上げているのか、男の顔から血の気が引き、口から泡が吹き出し始める。
「厘……厘、止めろ、止めるんだッ!」
「何でよ。こいつは人殺しなのよ? 人殺しを助けろっての?」
君だって人殺しじゃないか……私は出掛かったその言葉を飲み込んだ。違う。私が言いたいのはそういう事じゃない。
「と、とにかく止めてくれ! 殺す必要がないのなら、そんな事は止めてくれッ!」
厘は、目元を隠す程に伸びた髪の隙間から私の事を見つめると、顔を戻し、男の首から指を離した。男が咳き込み、自分の喉に右手を当てる。厘の腕は床に落ちると、今度は本体である厘に向かって這い始める。
「命拾いしたわね。こいつに免じて助けてやるから、私達の目の届かない所に消えて頂だ……」
「う、うおおおオオオッ!」
突然、咳き込んでいた男が、厘目掛けて突進した。厘の首が、胸から上が、腰が、足が、バラバラになり、壊れたマネキン人形がそうなるように厘の全身がゴトリと落ちる。
「り……厘っ!」
「俺に指図するな化け物があぁぁアッ! 気色悪い……とりあえずそこのお前だ! お前をまずはブチ殺してやる! この化け物がいくら不死身だろうと、全力で逃げれば……グアアアアッ!」
男は、何かを無理矢理引き裂いたような悲鳴を上げて倒れ込んだ。その足下では二本の腕が、上半分が無くなった包丁を男の足に根元まで突き刺していた。
「慣れない事なんてするもんじゃないわね……私もヤキが回ったもんだわ……」
「ぐうッ! あああああァッ!」
腕は、車のギアを入れるかのように、包丁の根元を男の足首から膝の裏まで押し込んだ。それからまずは胴体へと戻り、そして床に落ちていた厘の首を持ち上げる。
「チッ……やっぱり上手くハマらないわ……まあ動けないっていう程ではないけれど……首も肩も腕も腰も足も気色悪くて堪らない……一体何してくれてんのよクソ野郎がッ!」




