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私は黒板に何かを書いていた。黒緑色の板の上にチョークの粉の白い文字。一体何と書いてあるのか、自分で書いたはずなのに読む事さえ出来なかったが、私が黒板に書くとしたら神書の言葉以外にはないはずだから、きっと神書の一文だろう。私は黒板に背を向ける。
みんな、よく聞いて下さい。みんなって一体誰だろうか。悪い事をしてはいけません。絶対にしてはいけません。何故なら悪い事とは、どんな事情があろうとも「許されざる事」だからです。
例え自分が生きるためでも? 確かに、生きるために悪事を働く人はいます。でも、心を強く持って下さい。いくら自分が生きるためとはいえ、人を殺す事は悪です。何かを犠牲にする事は悪です。例え死んだ人の物でも、盗めばそれは悪なんです。悪なんかに負けてはいけません。悪に負けない努力をしなければいけません。私達人間は、どんな苦境に陥ろうとも、人間らしさを、清く正しく美しく生きる道を探さなければいけないのです。
でも、それでは生きられないとしたら。何かを犠牲にせずには、生きる事が出来ないとしたら? 人を殺さなければ生きられないとしたら、盗む以外に生きる方法がないとしたら? 生きるか、死ぬか? なあ、お前はどちらを選ぶ。
生きるか死ぬかなんて、そんな、そんな事はあり得ない。もっと他に方法があるはずだ。探せばいくらでも「正しく」生きる、そんな方法が見つかるはずだ。
方法なんてないんだよ。あるとするなら幸福だ。選ぶ事など贅沢だ。人間として清く正しく美しく死ぬか、獣のように醜く浅ましく悪辣に生きるか、それしか選べないとしたら、一体お前はどちらを選ぶ。
僕は。選べる贅沢があると思うな。本当に何もない者には選択肢さえ存在しない。『人として生きる事が許されている』、その思い上がりがすでに傲岸だ。なあ、お前はどちらを選ぶ。人間として死ぬか、獣として生きるか。正しさに死ぬか、悪辣に生きるか。
生きるか、死ぬか。
奪うか、奪われるか。
生きるか、死ぬか。
生きるか。
死ぬか?
「う……うわ、うあああああああああッ!」
「うるさい」
ベシッ、と頭を叩かれ、私は痛みに顔を上げた。見れば少女が、厘が、実に迷惑そうな顔をして私の事を見下ろしている。
「寝ながら悲鳴上げるとか随分器用な真似をするものね」
「り、厘……?」
「何で疑問系なのよ。意味も意義も用もないのに人の名前を呼ばないで頂戴」
言いながら、厘は手を動かして何かを千切るように食べていた。多分、缶詰タイプのパンだと思う……長らく食べた覚えのない、食欲をそそる匂いに私の喉がごくりと鳴る。
「パンなんてあったのか……そう言えば、今は一体何時なんだ?」
「知らないわよ、時計なんてもう動いてないもの。でも、もう暗くなってるから、まあ夜である事は確かよね」
「その割にはちょっと明るくないか」
厘は面倒臭そうに地面の上を指差した。そこには懐中電灯やランタンが、厘の足下と手元を暗くならない程度に照らしていた。
「照明なんてあったのか。一体何処に……」
そこで、ようやく私は、厘が食べている缶詰のパンが『何処から来たものか』思い至った。パンだけではない。ランタンも、懐中電灯も、厘の脇に積み上げられているものは全部、全部、全部、全部。
「君は……君は、一体何をやっているんだ!」
「い……ちいちうるさい男ねアンタ。こんな至近距離で怒鳴り声を上げんじゃないわよ」
「そんな……だって、それは、人の家から盗んだもの……」
私はそこで、私の家で「何」があったのかを思い出した。そうだ、この少女は、「使える物はないか」とか言って、私達の家を荒らしたのだ。そして、セイジョウの部屋から、セイジョウのダッフルコートを……
「待て……まさか、私が着ているこのダッフルコートも……」
「アンタの家にあったものだけど? 部屋的に言えば手前から三番目、奥から二番目だったかしら」
「このコートは……コクウの……」
「そうだけど、それが今更『なんだって言うのよ』。どうせあのままあそこに置いておいた所で、空き巣に持ってかれるか、野犬に荒らされるか、虫に食われてボロボロになるのがオチよ。それよりだったら生きている人間が使った方が『有効』でしょ?」
「あ……あ……」
「この食糧にしたってそうよ。あのままあそこに置いておいても、あそこにある死体と同じように腐っていくのを待っているだけ。そういうのって食い物に対する冒涜って言うんじゃないの? 仏壇にあげる供え物も、死んだ人間にあげるものじゃなくて寺に供え物するのと同じように仏に供えるものだって言うじゃない。『今日も食べさせてくれてありがとうございます』って感謝を捧げるためだってね。だから供え物を食わずに捨てるのは冒涜だって……ま、アンタは使父だから、食い物に対してどういう姿勢持ってんのかは知らないけれど」
「う……うう…………」
「ああ、そうだ。だったらこう考えればいいのよ。『死んだヤツが天国に行くための手助けしてやってんだ』って。ほら、外国のどっかの国で他人に施せばそれだけ天国に行きやすくなるって考え方があるじゃない。それと同じように死んだヤツに『施しをさせてやってんのよ』。どうよこれ、名案じゃない? まあ天国なんてものがあるとは微塵も思ってないけどね」
「君は……何で、何処まで、そんな悪辣な事を……!」
その時、ぐううううと、私の胃が収縮する音がした。お腹の上に視線を落とし、顔を上げると、白色灯に照らされた、意地悪気に笑う悪魔のような少女が見える。
「そんな絶望的な顔をしなくていいじゃないの。胃が収縮して音がするのはただの自然現象よ。仕方ないわ。生きてるんだもの。死体にでもならない限り、空腹になれば胃が音を立てるのはただの自然現象よ」
「…………」
「食べれば? 『腹が減っては戦は出来ぬ』と言うし、フラフラの体で着いて来られても迷惑だわ。もっとも、何も食べずにここで餓死するって言うならここでお別れしても構わないけど」
「でも……それは、全て、死んだ人達から『盗んで』きたものだよな……」
「そうよ。でも、それが『何だと言うの』? もうこれらを食うヤツもいないのに。ここに置いておいてもただ腐っていくだけなのに」
「…………」
「……ま、いいわ。勝手にしなさい。私は寝る。明日の朝には動くからね」
そう言って、厘は座ったままダッフルコートに顔を埋めた。私は……厘の隣にある缶詰の山を眺めていた。遠目ではよく見えないが、パンや果物やご飯物など、色々な種類があるように思われる。よく見ると厘の傍には空になった缶詰がいくつか転がっていた。栄養など一切考えず、とりあえず食べたい物を詰め込んだという感じだろうか。死んだ人間から、盗んだ食べ物を……死体のすぐ傍で棚を漁っていた少女の姿が思い起こされ、ゾッと血の気が引く音がした。
食べられるわけがない。いくら、死んでいた人間の家からだとしても……人から盗んだ物なんて、食べられるわけがないじゃないか。私は確かにある空腹から目を逸らし、膝に顔を埋め、そのまま眠りに落ちようとした。最初は上手くいくかに思われたが、しかし、目を閉じてしばらく経った頃、強烈な空腹感が私の脳を刺激した。胃が激しく音を立て、限界まで押し潰され、視界が狭くなり、何かを食べたいという欲求だけで頭がいっぱいになっていく。それでも、なんとか理性で空腹を抑えようとしたが、抑えれば抑える程空腹感は増していくかのようだった。
駄目だ……駄目だ……死んだ人間から盗んだ物を食べるなんて! 例え相手が死んでいても、人間から物を盗む事は悪事で、許されざる事なんだ! どうして? 厘が言っている通り、もう誰も食べるわけでもないし、後は腐るのを待つだけだ。別に食べてもいいじゃないか。そういう事じゃなくて。例え相手が死んでいても、人から物を盗む事は、悪だ。悪だ。悪なんだ。お前はコクウのコートを着ているじゃないか。それは……知らなかったとは言え、死んだ人間から盗んだ物を着て、今お前は『生きてる』じゃないか。私は。仕方ないじゃないか。だって『生きていくため』なんだから。死体が持っている物で食い繋いでいく以外に、生き残る方法はないんだから。私は。生きろ。死体の物を漁って生きろ。死体の服を剥ぎ、死体から盗んだ物を口にし、生きるために盗みを働いてそうやって明日を生きていけ。私は。それが嫌なら餓えて死ね。今すぐコクウのコートを脱いで餓えて凍えて死んでしまえ。わたしは。選べる贅沢があると思うな。本当に何もない者には選択肢さえ存在しない。『人として生きる事が許されている』、その思い上がりがすでに傲岸だ。ドブネズミのように死体から物を漁って生きていってもいいじゃないか。ぼくは。なあ、お前はどちらを選ぶ。人間として死ぬか、獣として生きるか。うううう。正しさに死ぬか、悪辣に生きるか。
生きるか。
死ぬか。
私は。
立ち上がって、厘の傍に積み上げられた缶詰に向かって歩いていった。手に取ってみると、炊き込みご飯とか、赤飯とか、魚の煮付けだとか、野菜の煮物だとか、桃とか、メロンパンとか、結構色々な種類があった。非常時用に備蓄していたものだろうか。ミネラルウォーターのペットボトルもある。これを持って移動するのは大変だ。恐らく、持っていけそうなものだけ持っていって、残りはここに置いていく事になるのだろう。
いや、待て、駄目だ。駄目だ。駄目だ。だめだ。やっぱり、そんな、死んだ人間から盗んだ物を食べて生きていこうとするなんて。そうだ、家から持ってきた食糧がまだあったはず。ほんの少しだけだけど、今日はそれで我慢すれば
「言っておくけど、自分が盗んだ物を食べたくないからって私にだけ死人から盗んだ物を食わせようとするのは『欺瞞』って言うんじゃないかしら。『私は死人から物を盗んでません』って誤魔化したいだけじゃないかしら」
厘の声に、私は、首に氷水を浴びせられたような気分になった。厘は、烏のような瞳の少女は、烏の嘴よりも鋭い目付きで私の事を見つめている。
「お綺麗ぶりたいならそのコートも脱いで餓えて凍えて死になさい。生きたいなら自分の状況をきちんと弁えてからにして頂戴。何食べてもいいけれど、出来るだけ軽い物は残してよ。この先こんな『幸運』にありつけるとは限らないんだから」
そして厘は、今度こそ本当に眠りに落ちた。私が動くまで待っていたわけではないと思う。思いたい。けれど厘の言葉は、放たれた言葉のタイミングは、私を叩きのめすのにあまりにも十分過ぎる程に悪辣だった。
私は……私は、私は。本当なら、死体から盗んだ物を食べてまで生きてなんていたくない。例え誰に何を言われたって、それしかないと諭されたって、仕方ないと思ったって、それでも、出来る事なら、こんな事はしたくない。したくない。いっそ、このコートも脱いで、厘の言うとおり餓えて凍えて死ねたなら、そちらの方が人間としてよっぽど『正しい』ように思える。
けれど、この空腹感は堪え難い。この頭を冒すような空腹感は堪え難い。だから、私は、わたしは。缶詰を開け、中に入っている米を口の中に押し入れた。舌の上に味が広がっていく程に、体が更なる食事を欲する程に、死にたくなってくる。誰か殺してくれとさえ思う。それでも、生きるために手が、口が、動く事を止められない。
まるで自分が本当に、ドブネズミか何かのような気がして、それだけで、私は十分死んだ方がいいとも思えた。




