3-2
「……と、ちょっと、いい加減に起きなさいよ」
揺さぶられる感覚に、私は薄く瞼を開けた。見れば少女が、太陽の光を遮るように私の前に立っている。
「う……」
「そろそろ出発するわよ。まだ眠いとか言わないでしょうね」
「……あ……うう……うう……」
意識がぼんやりとし、私は顔を上げる事が出来なかった。正直、眠い。すごく、眠い。許されるならもう少しだけうずくまって眠っていたい。
ひやり、と冷たいものを感じ、私は薄く瞼を開けた。視界に、錆びたサバイバルナイフの光が入り、私は思わず体を引いた。
「う……うわあああああっ!」
「ああ、やっと起きた」
「き……君、は! 人に、一体なんてものをっ!」
「何よ、人が起こしてやってんのに、起きないアンタが悪いんじゃない。それに頬にナイフ当てられた程度で騒ぐんじゃないわよ。死ぬわけでもあるまいし」
「…………」
横暴過ぎる、その言葉を、私は何とか飲み込んだ。少女の言う通り、すぐに起きなかった私も悪いわけだし、一応、普通に起こしてくれようとはしたらしいし……そんな事、口が裂けても言う気には到底ならなかったが。
「とりあえず食べたら出発しましょう。こんな所に用はないし」
「……そうだね」
少女の言葉に、私は頷き、家から持ってきたわずかばかりの食料を取り出した。この少女と行動を共にする事に、わだかまりがないではなかったが、私には……現状、それしか選択肢が思い浮かばない。
生きるためにこの少女と共に行くか、それとも生きる事を諦めるか、今の私には、その二択しか、思い付く事は出来なかった。
廃墟の街を出発してからしばらく、私達は黙って歩き続け、枯れたすすき野原を抜け、やがてコンクリート作りの道路の上へと辿り着いた。今まで歩いてきた所よりは遥かに「道」と言えたが、ひび割れ、あちこちが盛り上がり、酷い所は中が完全に粉々になって抜けていた。割れた所から植物の枝が伸び、それさえ枯れている所もある。例え車があったとしても、こんな所を走るのはそれだけで苦痛に違いない。
「とりあえずあっちに行きましょうか。少なくとも、来た道に戻る事はないでしょう」
「それで、疚売りに出くわせるのか……」
「そんな事は知らないわよ。運が良ければ見つかる、運が悪ければ見つからずに死ぬ、それだけよ」
「つまり、何の『保証』もないと……」
「何を今更。何の保証もなく生きていくのが『人生』じゃない」
冷めた口調で言い切って、そして少女は歩き出す。何の迷いもないように。「何の保証もない」と言いながら、それでも、ただ、前だけを見据えて。私も、少女の後を着いていく。他に行く当てもないのだから。だから、仕方なく、仕方なしに、人殺しの少女の後をただ着いていく事しか出来ない。
コンクリートの上を歩き、歩き、ひたすら歩き、それでも、私達は簡単には何処にも辿り着けはしなかった。ただ、ひび割れたコンクリートと、枯れ果てた植物だけがずうっと続いているだけの道。歩けば歩く程に、出来るだけ考えないようにしていた「迷う」という選択肢が頭をよぎる。
本当にこっちでいいのだろうか。本当にこっちに行けば、疚売りに辿り着けるのだろうか。いや、さっき言われたばかりじゃないか。運が良ければ見つかる。運が悪ければ、見つからずに、死……結局、運に頼るより他にない。何の保証も、当てもなく、私達は檻に入れられた獣のようにただ歩き回るより他にはない。
でも、運を天に任せるだけなら、別に歩き回らなくてもいいんじゃないか。そもそも、私がいたあの町に、留まっていた可能性だってあったんじゃないか? 慌ててあそこを出なくても……戻ろうか? もしかしたらまだあの町にいるかもしれないじゃないか! でも、それで本当に正しいのだろうか。もしかしたら私達の向かっている方向にいるかもしれない。でも、ひょっとしたら、私達の向かう所とは反対にいる可能性も……
「何か見えてきたわ」
少女の言葉に、私はハッと顔を上げた。見れば、確かにコンクリートの道の向こうに、建物らしきものが見える。
「とりあえずあそこに行きましょう。もしかしたら何かあるかもしれないし」
「なあ……厘……」
「何よ」
「本当に……こっちでいいのか……もしかしたら、疚売りは私のいたあの町に……」
厘は、少女は、苛立だしげに目を細めると、私の方に近付いて、私の足を蹴り飛ばした。脛を蹴られたらしく、あまりの痛みに蹲ると、上から苛立ちを隠しもしない少女の言葉が降ってくる。
「『もしかしたら』『もしかしたら』、そんなたられば話を繰り返して一体何になるって言うのよ。言ったでしょうが、何の保証もなく生きていくのが人生だって」
「でも……だって……」
「だから、同じ事を二回も言わせんじゃないって言ってんのよ。何の保証も当ても道標もない以上、当たるか外れるかわからなくても当てずっぽうで行くしかないでしょう」
「君は……」
私は、何か言葉を紡ごうとして、しかし、「何でもない」と、その先を言うのを止めにした。少女は「フン」と言い捨てて、建物の方へと歩いていく。怖くはないのか。私はそう言いたかった。しかし、言う事は出来なかった。それを言ってしまえば、私の中にあるものを全て晒してしまうような気がした。彼女に見せたくないもの、私が見たくないもの。そして、それを全て晒してしまえる程、私は彼女に心を許している訳ではなかった。
建物を目指して歩き続けた私達は、やがて一つの町に辿り着いた。町というか村というか、その程度の規模の集落だったが、私がいた所によく似ていた。一軒家が立ち並んでいて、何処となく生活感があって……けれど、誰の、姿もない。私のいた町も随分人は減っていたけれど、ここまで死んだように静まり返ってはいなかったはずだ。
「とりあえず、適当な所に入りましょう」
「入りましょうって……民宿か何処かに?」
「アンタ……本当、どういう頭してんのよ。どうしたらそんなおめでたい思考が出来るのよ」
少女は呆れたように吐き捨てると、一番近くにあった家にそのまま黙って『入っていった』。店でも何でもない、何処にでもある、普通の民家だ。驚いた私は、慌てて少女の後を追う。少女の言わんとした事に、そこでようやく思い至った。
「待て! まさか、君、空き巣……」
少女を追って家に入った私の言葉は、突如目の前に現れた光景によって遮られた。そこには人が、……床に倒れた、人間が、胴体から上と下に別れてしまった人間の、『死体』が、まるで壊されたマネキン人形のように床の上に転がっていた。
「う、う、うわあああああああッ!」
「何よ、騒々しいわね」
家の奥から声が聞こえてきて、私はそちらに首を向けた。すっかり力の抜けた足を必死で動かし、玄関から家の奥へと這っていく。するとそこには、黒いダッフルコートを着た少女が、棚の中を漁っている光景が目に入った。
「……君は……何を……やっているんだ……」
「見てわからない? 使えそうなものがあるか探してんのよ」
「人が……人が、死んでるんだぞ! 君は何とも思わないのか!」
「思った所で何かあるの?」
「……何?」
「もう明らかに死んでいる、病院もない、警察もない、そんな状況で『人が死んでる』って騒ぎ立てて何があるのよ。どころか、今のアンタの反応ではっきりしたわ。多分この町の人間……すでに全員死んでいるわよ」
事も無げにそう言われ、私の全身から血の気が引く音がした。死んでいる? この町の人間が? すでに、全員……
「な、なんで……なんでそんな事がわかるんだよ……」
「アンタが今馬鹿デカい悲鳴を上げたからよ。いくらなんでもこんな真っ昼間に、ドア開けっ放しで声を上げたら誰か来ると思わない? しかもその死体、昨日今日死んだっていうわけでもなさそうだし……まあ『普通の』腐り方してるから、疚人ではなさそうだけど……」
少女は言いながら、棚の中を漁っていた。私は……動けなかった。情報量が完全に許容範囲を超えていた。とりあえず……とりあえず、私は、一体何をするべきだろうか。
「ちょっと、また気絶するのは止めてよね。暇ならアンタも『使えそうなもの』がないか探すの手伝ってよ」
「……ちょっと、待ってくれ、君がやっているのは……空き巣じゃないか! 盗みだ……泥棒だ、犯罪だ!」
「だから?」
「……え?」
「空き巣で、盗みで、泥棒で、犯罪。だから何よ。誰が私を捕まえるの? 警察ももういないのに」
少女は、呆れたように私を一瞥した後、再び棚を漁り始めた。少女の横にクッキーの箱や、缶詰や、レトルトのご飯や、そういう『使えそうなもの』がどんどんと積み上がっていく。
「アンタ、犯罪行為がなんで『悪』とされるか知ってる? それが『社会悪』だからよ。社会を害する行為だからよ。例えば、今私がやっている空き巣や盗みや泥棒は、許してしまえば社会が機能しなくなる行為よね? だって社会っていうのは商品を売って得た金でまた新しく商品を作り、その商品を売って得た金でまた新しく商品を作る……それを繰り返して成り立っているものだもの。その流れを空き巣や万引きや強盗などでブチ切られれば、いずれその積み重ねで社会ってヤツは破綻する。『こんな状態』になる前だったら、貧困地じゃ店壊して品物盗むヤツもいたけれど、あれだって結局本来だったら別の用途に……衣食住や教育だのに本来使えただろう金を『店を直す金』に回さなきゃいけなくなる……つまり貧困を一層加速させているだけに他ならない。まあ社会悪を排除出来ない、『悪い事をしてはいけない』って言ってりゃなんとかなると思っているオウム並みの頭しか持ってはいない連中も十分馬鹿だけど、そうやって万引きや強盗や打ち壊しやデモや戦争を繰り返して『悪循環』を引き起こし、しかも『悪循環』を引き起こしている当人達は自分で自分の首を絞めている事に気付きもしない……つまり人間ってのは馬鹿なのよ。人間と書いて馬鹿と読んでもいいぐらいだわ」
「…………」
「でも、それはあくまで『社会』ってヤツがきちんと機能していればの話よ。加えて今ここには、今後これらを『使う』ヤツは『いない』。……つまり今ここにある物達は、ただゴミになるのを待つだけの存在よ。社会がちゃんと機能していて、警察もあって、そういう状況下で物を盗むのは許されない。それは社会を害する行為、ひいては自分の首を絞める行為よ。
でも、警察もない、社会もない、そんな状況で生き延びるために死体の住む家から物を盗む事は咎められる程に『悪』かしら? いえ、違うわね。『正しくある』という事は、『生きる』事を犠牲にするぐらい大事にすべきものかしら?」
「…………ッ!」
少女は立ち上がると、私の横をすり抜け、廊下に出て行こうとした。床に倒れている死体など目もくれないらしく、ギシ、ギシと階段を登る音がする。
「あ、そうだ、どうせなら『他の家』にも行ってきなさいよ。ついでに何かあったら『持ってきて』」
「私は……しない……そんな事……そんな事……」
「あっそ。まあ別にいいけど。言っておくけど、働かないなら私は何も『あげないからね』」
「……ッ!」
少女の足音は、今度こそ二階に消えていった。とんでもなかった。なんだあれは。あれがまともな人間の言う事か。あれじゃあまるで、悪魔じゃないか。いつだか聞いた、悪魔に関する言葉を思い出す。悪魔とは悪を為す者の事ではない、悪魔とは、人を悪の道に叩き落とす者の事だと。
そうだ、そんな事、いくらなんでも出来るはずがない。いくら死んだ人の家だからって、空き巣を働くなんて。人の物を……盗むなんて。私は、けれど、厘を止める言葉も思い付かず、そのままそこにいる事も出来ず、途方に暮れながら家を出た。とりあえず、この町に生きている人はいないかどうか……それを確認しようと思った。それで何か変わるとも思えなかったが、ただ厘という存在から逃げているだけの気もしたが、少なくとも、一人で思い悩むよりはずっといい。そう思った。そう思おうとした。
しかし、結論としてその『探索』は、私をより深い絶望の淵へ叩き落とすものとなった。結論から言えば、厘の言うとおり、町の中の全ての人間が殺されていた。それも、刺殺とか、絞殺とか、そんな「わかりやすい」死に方じゃない。全員、壊れたマネキンのようにバラバラになって殺されていた。両手両足が離れている者、首だけがテーブルの上に乗っていた者、関節という関節を全て丁寧に外されていた者、関節を全て離した上で、まるでパズルか何かのように……血は出ておらず、断面は木材や金属のそれのように滑らかで、それだけ見たら正しく壊れたマネキンだと思っただろう。だが、紛れもなく人間だった。滑らかな断面から見える肉や骨や脂肪や皮膚や毛髪や、何より、少し黒ずみかけた皮膚から、漂ってくる腐敗臭が……何度悲鳴を上げ、何度涙を流し、何度見知らぬ誰かの家でうずくまった事だろう。もはや悲鳴を上げるのにも疲れ果て、座り込んでいた時、ほとんど殴られるような形で頭を上から強く押された。
「怠けてるなんていい度胸してるじゃない」
「……厘」
「で、何か成果はあった?」
「君の言うとおり、全員、この町の人達は、殺されていた……」
「そんなくだらない事聞いてんじゃないわよ。その様子だと、『成果』は何もないってわけね」
……この少女には、人の心というものがないのだろうか。人が死んでいるという事に、何の感情も湧かないのだろうか。例え足下に死体があっても、目の前で人間が殺されても、今しがた人を殺しても、まるで何事もなかったように、自分が生きる事だけを考える少女。
……いや、止めよう。考えるのは。考えるだけで頭が痛い。心が痛い。気持ちが悪い。ムカムカする。吐きそうだ。本当は、今すぐこの現実から逃げ出してしまいたかったのだが、悲しいかな、いくら逃げ出したくても、現実から逃げる術はない。
そんな方法は思い付かない。
「一応聞いておいてあげるけど、『死体』はどんな感じだったの?」
「あ、ああ、例えるなら……壊されたマネキンといった感じだったよ……首や、手足や、胴や、股関節や肩関節、そういう所を……」
捻って外したような、と言いかけて、私は吐き気に口を押さえた。とても、説明出来るようなものではなかった。こんな事を淡々と言えるヤツはきっと神経が死んでいる。厘は、私をすり抜けて中に入ると、しばらくして戻ってきた。死体を見たとは思えない程に、その表情は凪いでいる。
「マネキンみたいに関節を捻って外したって感じの死体ね。最初の方はただ外したって感じだったけど、やってる内に飽きたのかしら。指の関節全部外した上に目だの舌だの抉り出して……」
「や、止めろ、それ以上言わないでくれ!」
「ま、別にいいわ。じゃあとっとと『探すわよ』。そんで今日はここで夜を明かして、明日の朝に出発しましょ」
あっけらかんとした少女の言葉に、私は耳を疑った。もう、何度耳を疑い、思考停止したのかさえもわからない。
「探すって……何を?」
「二回同じ事を言わせんじゃないって何度言えばわかるわけ? 使える物を探せってさっきから何度も言ってるじゃない」
「わ、私はやらないぞ! そんな事は、断じて!」
「あっそ。じゃあ死ねば?」
「……は」
「死体から物を盗むのは嫌なんでしょう? だったら、餓えて死ねば?」
何度……少女の言葉に、頭に血が上っただろう。そうやって何度弾丸乱雨のような言葉を浴びせられたかも忘れ、私は立ち上がって少女のコートに掴み掛かる。
「死ね、死ね、死ね、死ねって……君は何故、そんな簡単に『死』なんて言葉を口にするんだ!」
「『簡単』だからよ」
「何……」
「人間は、簡単に死ぬからよ。まるで自転車に潰される蟻のように、いとも容易く『死ぬ』からよ」
「…………」
「アンタの方こそ、一体どういうつもりであれも嫌だ、これも嫌だなんて駄々を捏ね続けているの? そうやって駄々を捏ねていれば空から食べ物が降ってくるとでも? 悪い事なんていたしません、私は善人ですって顔をしていれば、それで腹が膨れるとでも? ……そんなワケがないじゃない。食べなければ死ぬ。餓えて死ぬ。食べ物が手に入らなけりゃどんな生き物も餓えて死ぬ。至極単純な話でしょ? その簡単な話に対して、一体アンタはどういう認識してんのよ」
「う……う……」
「食料売ってるとこでも探してみるの? 人がいるかもわからないのに。それとも山でも行ってみる? 木の実でも期待して探してみる? 言っておくけど、そうすると言っても私はアンタを待たないわよ。私の命の期限はあと半年しかないんだから」
そう言って少女は、私の横をすり抜けた。何処かから、見知らぬ誰かの死体がある何処かから、まだ生きている人間が何かを探す音がする。
あと半年。私はそれを、失念していた事を思い出した。もちろんそれで、あの少女の思考回路の全てを説明出来るわけではないのだろうが、あの少女には、『選択肢がない』。その事も私は思い出した。
でも、それでも、盗む事は、『悪い』事だ。してはいけない事なんだ。そんな事を簡単に……選べるわけがない。選べるわけがない。選べるわけが、ないじゃないか。私は、少女がいる家を出て、フラフラと歩き、適当な所に腰を下ろした。もう、何も、考えたくない。私は膝を抱えて目を閉じる。現実逃避でもなんでもいいから、この辛い現実から、逃げられる方法が欲しかった。




