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疚市(旧)  作者: 雪虫
14/36

3-1

 物語が好きだった。今読めばきっと十分も掛からないような、薄っぺらい絵本が好きだった。悲しい結末のものも中には確かにあったけれど、どんな困難が襲い掛かってきても最後には、みんな幸せになれる、そんな救いと希望がある物語が好きだった。


 大人になれば、「現実はハッピーエンドばかりじゃない」って、もちろんそんな事はいつか学んでいくものだけど、それでも、「現実はバッドエンドばかりじゃない」って、そういう風にも言えたはずだ。例えどんな困難が襲い掛かってきても、最後には、みんな幸せになれる。そんな物語だって諦めなければ作る事は出来るはずだ。


 そう思っていた。


 そう思っていた。






 目を覚ました私は、頬の痛みに体を起こした。目の前には薄闇に包まれた、砂埃だらけの何処かの床が広がっていた。何故、私はこんな所にいるのだろう……と思った瞬間、凄まじい異臭が私の脳を刺激した。いや、異臭などというものではない、それは正しく『悪臭』だった。嗅いだだけで鼻に、皮膚に、細胞の内側にまでこびりつき、そのまま内側を焼け爛れさせグチャグチャに溶かしていくような……私は、まるで鼻と脳に硫酸を掛けられたような途方もない熱さと痛みを覚え、転がるようにその場を離れた。目に入った階段を降り、必死に殺人臭から逃れようと足を動かす。ほとんど呼吸も忘れて階段を降りた先に、黒いダッフルコートが丸くなっているのを発見した。


「厘!」


 私が声を出すと、ダッフルコートは起き上がり、そのまま振り返って私を見た。少女は目を瞑ると、まるで親の仇を見るような目付きで目を開き、そのまま私の顔を凝視する。


「……ああ、やっと起きたの」


「やっとって……そうだ、なんだあの酷い臭いはっ!」


「死んだ疚人の傍でブっ倒れたんだから仕方がないでしょ。一応『応急処置』だけはしてやったのよ。文句言うより先に感謝する方が筋じゃないの?」


 私はそこで初めて、自分の鼻と口に布が巻かれている事に気が付いた。少女はくああと酷く眠そうにあくびをすると、私から視線を外して自分の足下に目線を落とす。


「いいからこっち来なさいよ。話し辛くてたまらないわ」


「じゃ……じゃあ、あの臭いは疚人の……」


「エグい臭いでしょ。アンタはまだ大丈夫かもしれないけど、疚が進行すると嗅覚まで鋭くなるからね……嗅いだだけで死にたくなるレベルだわ」


 私は自分の着ているダッフルコートに鼻を寄せた。あれだけ酷い臭いだ、臭いが移っている可能性もある。


「臭いは移らないから安心しなさい。例え体液をひっかぶっても、太陽に当たれば臭いは消えるわ。……それまでは凄い事になるけれど」


「…………」


「何よ、『あんなとこに置き去りにして』とか文句言うんじゃないわよ。私にアンタを背負えるはずもないでしょう。たんこぶ十段重ね覚悟で階段引きずっても良かったって言うなら話は別だけど」


「い、いや……そんな事は、思ってないよ……」


 私は、そのまま口を閉ざした。「ありがとう」と言うべきかと思ったが、昨日躊躇いもなく人を殺した少女に、「ありがとう」と言うのは気が引けた。


 人を殺した。その事を思い出し、私の背はぶるりと震えた。昨日は「疚人に向かっていくなど殺人鬼に向かっていくのと同じ」などと言ったが、この少女は……人殺しだ。生きるために人を殺す、あの疚人と同じ、人殺し。そんな人間と今こうして膝を突き合わせている事に、ただ事ではない悪寒が走る。私は……本当にこの少女と行動を共にしていいのだろうか。


「……何、距離を開けようとしてんのよ」


「い! ……いや、別に……」


「……まあ、別に何でもいいけど、特に急ぐ用がないならもう少し寝てていいかしら」


「あ、ああ……どうぞ……」


 私がそう言うと、少女は再びダッフルコートに顔を埋めた。そうすると巨大な烏が、羽に顔を埋めて眠る姿にそっくりだった。


「…………」


 本当に、この少女は一体何者だろうか。その前に、私は彼女と行動を共にしていて本当に大丈夫なのだろうか。天井から降りてきた少女が、男を頭上からサバイバルナイフで突き刺す光景が脳裏をよぎる。再び背中が悪寒で震えた。それは、人間を簡単に殺す事の出来る人間に対する、純粋な「嫌悪」と「憎悪」と「恐怖」だった。


 私はこの少女と行動を共にして大丈夫だろうか。……三度目の自問自答は、眠る少女の姿を私の視界に捻じ込ませる。そもそも、この少女と行動を共にし始めたのは、ただの成り行きに他ならない。それも、コクウ達を、私の家族を、見殺しにしたその後で……今更ながら、何故こんな少女と行動を共にしようと思ったのか、本気でわからなくなってしまった。私の家族が殺されるのを黙って眺め、私の家の中を漁り、そして昨夜は、生きるために人を殺し……ただの、極悪人じゃないか……頭に浮かんだ言葉に、ぐっと口元に力が入る。


 私は……眠る少女の姿を眺めた。生きるために人を殺し、人を殺しながら尚、生きる事を望む少女の姿を。私は使父だ。私に人を裁く権利はない。むしろ、使父としてであるなら、平等に接するべきだ……それが例え、罪深い殺人者であろうとも。


 しかし、私という「人間」は……この少女にすでに相入れぬものを感じていた。人間として、人間を殺す者への、単純で純粋な負の感情。何十人という人間を殺したとされる殺人鬼の写真を見るよりも、目の前で人を殺してみせた少女への嫌悪の方が強かった。きっと、その「光景」を、目の当たりにしてしまったから……。私は……この少女と行動を共にするべきだろうか。四度目の、自問自答。いや……私はすでに、この少女と行動を共にする事に嫌悪感を覚えている。憎悪を抱いている。恐怖を感じている。そうでなければこんな疑問が生まれるはずもない。今すぐにでもここから立ち去り、あの家に帰りたい……みんなの待つあの家に……そして、みんなの菩提を弔いながら、あそこで静かに暮らすのだ。


 けれど、少女の言葉に拠れば、私の命はあと一年しかないと言う。一年経てば私も、コクウ達を殺した男や昨日の男と同じように……いや、それだって、もしかしたら少女の「嘘」かもしれない。そうとも、疚なんてそんな……私に特殊な能力なんてそんな……そうだ、そんな能力があったなら、私は昨日の男に追い掛けられるまでもなく、「あの時」と同じように逃げられたはずだ。そうだ、試してみよう。私に特殊な能力などない事を。瞬間移動など出来ない事を証明するのだ。そして、この少女に別れを告げて、みんなの待つあの家へと帰るのだ。


 私は目を閉じた。


 さて、何処に行こうかな。


 本当なら今すぐ家に帰りたいが、あまり遠すぎると実験にならないかもしれない。


 先程まで私が気絶していた、疚人の死んでいた所にしようか。


 異臭がした。


 私は目を開けた。


 そこには、タールとドブ水とヘドロを混ぜ合わせたような色をした、凄まじい臭いを放つ液体が足下に広がっていた。


「ーーーーーーーーーーーーッ!」


 私は悲鳴を上げる事も出来ず、急いでその場から駆け出した。少女がしてくれた「応急処置」が、いかにありがたかったかよくわかった。例え布一枚でも、布があっただけマシだったのだ。


 私は再び少女の元へと転がるように駆け戻り、荒く息を吐きながら、……そして、色んな意味で涙を流した。二度と嗅ぎたくもないような殺人臭が目に染みたという事もある。そしてそれ以上に……私にはこの少女と行動を共にするしかない……それを「理解」したゆえの涙もあった。


 私に特殊な能力が……瞬間移動能力とやらがある事はこれではっきりした。誰かが瞬時に私の思考を読み、瞬時にあの場所に移動させた……というのはさすがに無理があり過ぎるし、何か別の要因で特殊能力が発現した……というのもあり得ない。例えそうだとしても、さすがに楽観視するには不安要素が多過ぎた。もし、一年後、死んだ疚人のようにのたうち回りながら死ぬ事になったら……情けない程に身体が震える。疚人達の死に様は、それだけ鮮明に私の脳裏に焼き付いていた。


 つまり、私には現状、生き延びるためには疚売りを探すしかなく、そのためにはこの少女と……人を殺す少女と、行動を共にしなけれならない事になる。私に疚の臭いはわからないし、万一疚人に出くわしても生き延びられる気がしない。もちろん、この能力で逃げる事は出来るだろうが……少なくとも、疚売りを探すためには、この少女と行動を共にする必要が私にはある。この、生きるためには人を殺す事も、厭わないという……この少女と。


 私は、その矛盾を、己の中に生じた矛盾を、しかし、見ないフリをした。その事に対して頭をよぎった言葉も、見ないフリをして、私は膝を抱えて少し眠る事にした。まだ完全に日が昇るには時間がありそうだったし、少女が目覚める気配もない。だから、私は目を瞑った。眠るために。あるいは目を逸らすために。


 偽善だと、卑怯だと、お前は、逃げているだけだと……、そんな堪え難い言葉達から、今だけでも目を背けるために。


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