2-6
一体どれだけ歩いただろう。沈黙したまま少女の後ろを着いていき、私達はやがてある『町』へと辿り着いた。町と言っても、人の気配は全くせず、蔦に覆われ掛けた、崩れ掛けの建物が、手すりが、壁が、窓枠が、くすんだ夕日に照らされながら私達を見下ろしていた。
「こんな所に町なんてあったかな……」
「人間達に置き去りにされた住宅街って所じゃないの? ゴーストタウンとか言うんだっけ?」
「ゴーストタウン……」
厘の言葉に、急に背筋がブルリと震えた。空はまだ完全に黒くなってはいないのだが、あと数十分もしない内に夜が来るのは明白だった。子供の時にテレビの特番か何かで見た、古いアパートで走り回る幼い少年の幽霊だとか、何本も伸びる青白い手だとか、生気のない顔をした人間達の群れだとか……そんなものが廃墟と化した住宅街の上に見え、頭から血の気が引いてくる。
「何よ、幽霊でも見たみたいな顔をして」
「い、嫌な事を言わないでくれ! ゆ、幽霊だなんてそんな……」
「まさかアンタ、幽霊が怖いの? 使父ってそういうものの対応とかもやってんじゃないの?」
「それは映画とかの話だろう! そ、それは確かに、そういう相談を受ける事もあったけど、そういう時は基本的に話を聞いて、気の休まるハーブとかをそれとなく勧めたりとかしただけで……」
「あっそ。まあ別にいいじゃない。あんなのただ何か見えたり聞こえたりするだけよ」
厘はそう言うと、そのまま町に向かって歩いていった。何か凄まじく聞き捨てならない事を言われた気がする。
「え……君、今、何か言った?」
「だから、幽霊なんて、ただ何か見えたり聞こえたりするだけでしょう。まあたまに頭が重くなったり寒気がしたり手が震えたり足を掴まれたような感じがする事もあるけれど」
「そ、それって……まさか、君、そういうのが見える人なの……」
「たまに見えたり聞こえたりするぐらいよ。そんなに驚く事じゃないでしょう」
事も無げに言った少女に、私はどう反応すればいいのかわからなかった。本当に情けないが……というより、こんな薄暗い場所で、人気のない廃墟で、そんな事を、例え本当だとしても言い出す方がどうかしている。ただでさえ今の状況に脳が追い付いていないと言うのに……これ以上追い詰めるような事を口にするのは止めて欲しい。
「や、や、止めてくれ! これ以上私を怖がらせて君に何の得があるんだ!」
「なんで何の得にもなんないのにアンタを怖がらせる必要があるのよ。事実なんだから仕方ないでしょう。あんなの無視してればどうにでもなるんだから、いちいちゴチャゴチャ言わないでよ。それより野犬とかの方に注意を払って欲しいわね」
少女は言い捨てると、さらに町へと進んでいく。確かに幽霊より野犬の方が恐ろしいかもしれないが……いや、幽霊と野犬の一体どちらが恐ろしいのかなんて、そんなのわかるはずもないじゃないか。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
「何よ、まさか原っぱで野宿するとかじゃないでしょうね」
「そ、そっちの方が不気味じゃないだろう!」
「ああ、もう、面倒臭い! それ以上ぎゃあぎゃあ騒ぐなら気絶するまで殴った上に足を掴んで引きずってくわよ!」
「な……んでそんなに横暴なんだ!」
「アンタがたかが幽霊ごときでぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあうるさいからよ! いい年こいて情けない! アンタちょっとはいい加減に……」
そこで、少女は言葉を止め、急に私の口を塞いだ。驚いてもがく私に「静かに!」と鋭い声が飛ぶ。
「何かいる……」
「ま……まさか幽……」
「何処までのん気な頭してんのよ。もしかしたら、幽霊の方が可愛いかもよ……これは間違いなく疚の臭い……」
少女の言葉に、私は首を動かそうとした。しかし少女は「動くな」と私の頭を固定したまま、視線を上げ、獲物の臭いを嗅ぐ獣のように空を仰いで鼻を鳴らす。
「ど……どっちだ……疚売りか、それとも……」
「だから、同じ事を二回言わせんじゃないって言ってんのよ。……ちょっとこっち来なさい」
少女は私の手を引っ張ると、足早に建物の一つへと近付いた。先程の幽霊話に足が竦んだが、少女は私の意を介さぬように強い力で私を引っ張る。
「ど、何処行くんだよ!」
「隠れるに決まってんでしょう。疚人なら正面から出くわすわけにはいかないわ」
少女は私の手を掴んだまま建物の階段の影に隠れ、そこからそっと顔を出す。見れば、細長い何かを手にした男が、今しがた私達がいた所を忙しなく歩き回っていた。
「あいつから臭いがするわ……つまり『疚人』っていう事ね」
「ど、どうやって逃げるんだ……ここから出たらあいつに出くわす……いなくなるまでここで待つのか」
「逃げても無駄よ。あいつから臭いがするように、私達からも臭いがする……いくらここから離れても、あいつは臭いを頼りに追ってくるわ」
「じゃ、じゃあ、どうするんだ」
「決まってるじゃない、殺すのよ」
「……え?」
「殺されないために殺すのよ、そんなの、聞くまでもないでしょう」
「濡れないために傘を差す」と同じような声のトーンで、少女はそう口にした。殺す、殺す、殺す……その物騒な、異常な言葉に、私の喉から声が上がる。
「ば、馬鹿な……そんな簡単に殺すなんて……」
「でかい声出してんじゃないわよ。勘付かれるわ。殺されたいの?」
「君がおかしな事を言うからじゃないか! 大体、あの疚人が私達を殺そうとしてるとは限らないだろう!」
「得物片手に餓えた獣みたいなツラ下げてうろついているヤツが、私達に『仲良くしましょう』なんて言ってくるとでも思ってんの?」
「でも……そんな……だって……」
私には、信じられなかった。いや、断じて認めたくなどなかった。いくら自分が生き残るためとは言え、命の期限が区切られているとは言え、自分が生き延びるために、助かるために、他人を犠牲にする事を人間が簡単に選ぶなんて。
「そんな簡単に……人が、人を、殺すなんて選ぶはずがないじゃないか……」
「殺すわよ。だって人間にとって、他人程この世でどうでもいいものはないもの」
「だから、なんで……君はそういう事を簡単に……!」
少女は、私の言葉を遮るように「フウー」と大きく息を吐くと、この世の全てを睨みつけるようにぎっと上に視線を向けた。たまたま入ったその建物は、建設途中で捨てられたのか、あるいは何かがあって崩れたのか、階の途中から鉄骨などが剥き出しの状態になっている。
「私は一足先に一番上に行ってるわ。アンタも死なない程度に後から来なさい」
「し、死なない程度にって……どういう意味だよ」
「決まってるでしょ、アンタが囮になるのよ」
私が二の句を告げる前に、少女は私を、蹴り飛ばした。私は階段の影から転がり、その上の方でカンカンカンと階段を上がる音がする。
「いい、逃げんじゃないわよ! 必ず一番上に来るのよ!」
少女の言葉に、私は咄嗟に顔を上げたが、背後に、ゾクリと、殺気を感じ、私は後ろを振り返った。見るとそこには……赤く目の血走った男が、刀のようなものを持った男が私の背後に立っていた。
「…………」
「疚人の……臭い……」
「……あ……、……」
「殺す」
私が、咄嗟に転がった、そのすぐ横を、刀のようなものがうなりを上げて通り過ぎた音がした。今、転がらなければ恐らく頭が割れていたに違いない。それ程『必死』の、気迫だった。
「死ねぇぇェェエッ!!」
私の死を願う咆哮は、しかし逆に私に正気を取り戻させた。男が刀を振り下ろす前に、刀が私の脳天を砕く前に、私はなんとか少女の指示通り目の前の階段を駆け上がる。ハアハア、ゼエゼエと、荒く息をする死にかけの人間の必死の音が迫ってくる。
「待ちやがレぇぇェェエッ!!」
「う……う、うわぁぁぁああああッ!!」
砂塗れの階段を駆け上がり、なんとか疚人から離れようと足を動かす。上に登っても退路を塞がれるだけだとか、そんな事を考えている暇はない。言ってはなんだが、恐らく、あの男の刀の腕は「素人」だ。素人である私にもわかる程、男の刀の振りはブレが大きく、不安定極まりないものだった。
だが、いくらあの男の刀の腕が素人だろうと、私を殺そうとするあの気迫は本物だ。それも恨みとか悪意とか、そんな生易しいものではない。生への執着。恨みや悪意という恐ろしいものが生易しいなどと思えてしまう程、背後の殺意は、死に物狂いの生への渇望は一層狂気に塗れていた。
「死ネぇぇェェエッ!」
「う、うわッ!」
「逃げるなぁぁぁアアアッ!! 止まれぇぇエエッ!! 大人しく俺に殺されろぉぉオオオッ!!」
がむしゃらに振り回される刀から必死に逃れようと、私は賢明に足を動かす。出来るわけがない。止まる事など、殺される事など。私は必死に階段を上がり、上がり、上がり、上がり、しかし、そこでついに追い詰められた事に気が付いた。上に上がる階段はなく、上には組み立てられ途中の剥き出しの鉄骨が、そして、横には、壁があるはずの横には、ただ足場のない眼下の景色だけが広がっていた。振り返ると階段を上がってきた疚人が、ゼエゼエヒュウヒュウと苦しげな息を吐いて私の事を見つめている。白目は血走り、黒目は爛々と輝き、口は忙しなく呼吸をし、顎からは汗と唾液が混じり合って滴っている。何日も何も食べていない野犬に出くわしたような気分だった。刀を持った疚人は、一歩一歩、私の方へと近付いてくる。
「ま……待て……待ってくれ……」
私が両手を前に出すと、男はカクリと首を傾げた。無表情で、瞳孔を最大に見開いて、首を傾げる様は人間だとさえ思えない。けれど、まだ話し合えるはずだと信じて、信じたくて、私も『必死』で、疚人へと語り掛ける。
「君は……私を殺せば……自分は助かると思っているのかもしれないけれど……本当にそうだとして、君は『後悔』しない自信があるのか? 誰かの命を奪ってまで生き永らえる事を、苦悩しないと言い切れるのか?」
「…………」
「落ち着いてくれ……まだ間に合う……まだ間に合うかもしれないんだ……助かる保証もないのに、人の命を奪おうなんて、そんな事は止めてくれ……なあ、話さえ聞いてくれるなら、もし君さえ良かったら、私達と一緒に……」
「はは」
笑い声が聞こえ、私は動かしていた口を止めた。疚人は目を見開いたまま、首を傾げたまま、瞳孔を黒く開いたまま、口元だけで笑っていた。
「ハッ、ははは、ふふふ、ひひひひひひ、……ハハハハハハハハハッ! 助かる保証はない……そうだよなあ……確かになあ……でもな、だったら、お前は『保証』を持っているのか? 俺がお前を殺さなければ、お前は俺を救ってくれるとそんな『保証』を持っているのか?」
言葉が、出て来なかった。瞳孔を開いたまま笑う男が、ただ恐ろしくて堪らなかった。男は、黒い瞳で、ただ生きる事を望む瞳で、唾液をボタボタと垂らしながら、追い詰められきった表情で私の方へと近付いてくる。
「違うよな? お前はそんな『保証』は持っちゃいねえ。ただ、自分が殺されるのが嫌だからそんな事を言っているだけだ。俺がお前を殺すのを止めたら、お前は俺を救ってくれるのか? 俺がお前を殺さなければ、お前は俺が死ぬのを止めでもしてくれるのか」
「…………」
「違うよな? そうだよな? そうだ、俺がお前を見逃した所で、お前が俺を救ってくれるわけじゃない。俺がお前を見逃して生きる事を許した所で、お前が俺の命を救ってくれるわけじゃない。いつもそうだ。人間はいつも口先だけで聞こえのいい言葉を吐いて、そのくせ同じ口で人に諦めろと要求してくる。そして他人を蹴落とすだけ蹴落として、決して救ってくれなどしないんだ。なあ、俺がお前の言う事を大人しく聞いた所で、お前が俺を救うのか? 俺を救ってくれるのか? 腐った枯れ木をそうするように、これ幸いと蹴り落として自分だけ生きるつもりじゃないのか? なんでそんな人間の言葉に耳を傾けなくちゃいけないんだ? フザけるな。フザけるな。フザけるな、フザけるなァァァァアッ!」
男の咆哮は、ただ、獣のそれだった。恐怖に怯え、死に怯え、必死に牙を剥き、爪を立てる、ただの獣に他ならない。
「そうだよ、人間なんて所詮そうだよ、てめえさえよければどうだっていい! てめえが助かるためなら、どんな綺麗事だって善人面で口にする! 俺がお前を殺して『後悔』しないかって? するかもな……するかもしれない……だがなァ、今ここでお前を殺さなければ、俺には後悔する『明日』さえ存在しないんだッ!」
「…………!」
男は、刀を振り上げた。私の頭に振り下ろすために。いくら男が素人だろうと、そのまま全力で降り下ろせば、私の頭はスイカのように簡単に砕けてしまうだろう。
「俺に生きる事を諦めろとそう言うなら、まずはお前が諦めろ。明日を願うなと言うのなら、まずはお前が明日を捨てろ。生に執着する事が悪ならば……お前は『善人』のままに死んでいけ。俺は生きたい、生きたい、生きたいッ! 俺にとっての明日は! 例え他人を殺してでも生きていたい明日なんだよッ!」
そして男は……動かなかった。男の体は刀を振り上げたまま、そのままの姿勢で止まっていた。少女が、黒いダッフルコートを身に纏った少女が、厘が、サバイバルナイフを男の頭に深く刺しながら男の肩に止まっていた。
「ガッ…………」
「ま……ったく同感だわ……今ここでアンタを殺さなければ、私には『明日』さえ存在しない……私も同じよ。私にとっても明日は、アンタの死体を踏みつけてでも生き延びたい『明日』だわ」
少女は、サバイバルナイフを引き抜くと、男の肩から降りざまに男の肩を蹴り飛ばした。男はよろよろと数歩前に進むと、私のすぐ横に倒れ込んだ。男の腕が、皮膚が、目が、闇より深く黒ずんでいく。男は何度か口をわななかせ、そして、動かなくなった。後には黒炭のようになった、人間の残骸だけが残されていた。
「ああ……ああ、あああああああああッ!」
私は頭を抱え、絶叫した。目からダラダラと涙が流れ、肺が痙攣したように激しく動く。死んだ。今しがたまで生きていた人間が、生きたいと叫んだ人間が、動き、息をしていた人間が、今目の前で、簡単に死んだ。人を殺した少女は、サバイバルナイフを振り払うと、すでに黒に侵食された視界の向こうから私の方へと歩いてくる。
「何喚いてんのよ。早く行くわよ……」
「何故だ……何で殺したんだっ!」
「……はあ?」
「この男は……生きたいと……生きたいと言っていたんだぞ! それをなんで殺したんだ! なんで……なんで!」
「アンタ、死にたかったの?」
思いがけない少女の一言に、私は顔を上げた。もはや顔を判別する事も困難になりつつある闇の中から、少女が、少女の人影が、鋭い声を降らせてくる。
「あそこで殺す以外に、どんな方法があったって言うのよ」
「あの……男は……死にたくなかっただけだ……話し合えば……いずれ……わかり合う事は出来たはず…………」
「アンタ、『わかり合える』と思ったの?」
「…………」
「『殺される』って思ったんじゃないの?」
「…………!」
「話し合ってわかり合えるのは、『話し合ってわかり合おう』と互いに思っている時だけよ。話し合う気も、わかり合う気も、聞く気もないヤツにそんな事したってすでに『話にもならない』わ」
「そ、それでも……殺す必要は…………」
「アンタ、私をマンガやアニメのヒーローかなんかだと思ったの? 殺さない程度に痛め付けて病院送りにして済ませる、そんな器用な真似が出来るとでも? 馬鹿じゃないの。私はフィクションのヒーローじゃない、『殺すだけで精一杯』よ。殺さない程度に痛め付けてお仕舞いなんて、そんな器用な真似は出来ないわ。第一、病院ももはやない。どっちみち殺すしかないって事よ。私が生き延びるためにはね」
生き延びるために。私は、その言葉に反応し、立ち上がり、少女の影に掴み掛かった。すこしゴワついたコートの感触。あまりにも安っぽい現実の感触は、しかし私をこの異常な『現実』から引き戻さない。
「生きるため……生きるため……生きるため! 生きるためなら、自分が生きるためなら、何をやってもいいわけじゃないだろう!」
「だったら死ねば?」
「!!」
「生きるために何かを犠牲にしたくないなら、何かを犠牲にしなくて済むように死ねばいいのよ、そうでしょう?」
少女は、シンプルに、そう言った。シンプルに、単純に、生きるか死ぬかの、その二択を。私の腕から力が抜け、代わりに少女が、私のダッフルコートを掴む。頭一つ低い、しかし身長差など意にも介さないような惨い強さで、少女は何処までも黒い瞳で私の心を覗き込む。
「生きるためなら何をやってもいいわけじゃない……そんなのは、『選択肢』を複数持てる幸せ者の戯言よ。本当に何もないヤツっていうのは『選択肢さえ存在しない』。生きるために犠牲にするか、犠牲にしないために死ぬか……もはや私にはその二択しか選ぶ道は残っていない」
「…………」
「アンタだって同じ事よ。今、アンタの前にそれ以外の『選択』があった? あいつを殺すか……それともあいつに殺されるか……その二択以外アンタに『選択肢』はなかったはずよ」
「…………」
「弱者は正義を語れない。持たざる者は選べない。そのぐらいは『理解』しなさい。『 』」
私は、……何も言えなかった。少女が何を言ったのかさえ、私の耳には届かなかった。闇が、何の光も音もない闇が、私の意識を冒していき……何もない暗闇だけが、私の前に広がっていた。




