生きているという奇跡
「…もう、腹立って…腹立って…」
電話の向こうで、祐子が勤めていた会社の同僚だった「香奈」が声を震わせてそう言った。
「……」
祐子は答えられなかった。香奈は今結婚して「滋賀」に住んでいるのだが、実家は「西宮」である。だが同じ西宮でも祐子のいる田舎とは違い、開けた場所だ。
…そこの被害はひどかったそうだ。香奈の実家は古かったこともあり「半壊」だった。祐子も遊びに行ったことがあっただけに、ショックを受けた。
香奈は、自分の生まれ育った家が壊れているのを目の当たりにして、思わずその場でしゃがみ込んで泣いたと言う。
震災の時、その家には香奈の祖母と母親だけがいたが、奇跡的に無事だった。だが「半壊」とはいえ、もうその家には住むことができないので、電車が通ってから香奈が実家に行き、滋賀まで連れて帰ったのだそうだ。
…香奈が怒っているのは、その時の大阪駅の様子だった。
「バーゲンしてんねんでっ!!バーゲンっ!!皆、何もなかったかのように袋いっぱい持ってっ!!」
祐子はどう答えればいいのかわからなかった。…正直、それは仕方のないことではないかと思った。…しかしそれは、自分の実家が「一部損壊」で済んだから、そう思えるのではないかと後で反省した。
…同じ震災被害者でも、被害の程度によって感じる温度差がこれだけ違う…。
…その16年後の現在…2011年3月11日に起こった東日本大震災の時は、全国的に「自粛」ムードが自然発生的に起こった。…だが、この頃は今ほど「自粛」ムードはなかったように思う…と祐子は回想する。
祐子たちも大阪に戻ってからは普通の生活に戻った。西宮の実家も簡単な修復で済み、翌2月の末には何もなかったかのように、祐子たちは実家に帰ることができた。
…だが被害の大きなところは、復旧のめどがなかなか立っていなかったように思う。
……
祐子はテレビで神戸のどこだったか…避難所の様子が映されたテレビをぼんやりと見ていた。
これも震災からどれくらい経っていたのか覚えていない。だが自分が普通に生活をしているのが申し訳なく思うほど、まだ多くの人が避難所にいた。
その中で1人の男性が、インタビューに答えていた。
「ご家族の方は、皆さんご無事だったのですか?」
「いえ。妻が死にました。」
感情も何も抜け落ちてしまったかのような表情で答える男性に、アナウンサーの方がうろたえている。
「…お家の方は…」
「燃えました。…妻は子どもと俺の弁当を作っていて…何かを揚げていたんです。…地震が起きて、油に火が移って…妻はその中で焼け死んでしまいました…」
「!……」
「今でも妻の悲鳴が耳に残っています。…妻は「ドアを開けて!」と叫んでいるんですが、体当たりしてもドアを開けてやることができなかった。長い悲鳴が聞こえて…声がしなくなって…」
…祐子は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
その後も、タンスの下敷きになった弟の泣き声が消えていくのを最後まで聞いていた女児の話…。潰れた家の下敷きになった近所のおばあさんを助けようと、がれきを必死にどけているときに火が回って来て逃げてしまった…と言う男性の話…。
…悲惨な話が続いた。祐子はあまりの辛さに、テレビを消そうと思いながらも消してはだめだと思い、最後まで聞いた。
「…避難所からの中継でした。」
アナウンサーの姿が消え…ニュースが終わり、CMが流れた。…やたらと呑気で明るい音楽のCM…。
(「ドーン!」という音がしたようなあの地震の瞬間に、あれだけの悲劇が起こってたんや…。)
祐子はそう思い、自分の膝で寝ているあやめを抱きしめた。「奇跡」という言葉が、祐子の頭をよぎった。